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まだまだ語るよ雪組ベルばら-バスティーユと脚本の在り方-
皆様こんにちは、あまつです。
雪組公演ベルサイユのばら-フェルゼン編-の千秋楽から二か月弱、次回公演の初日も近づき予習準備はお済みになった頃でしょうか。しかし、私はまだまだベルばら語りをしていきますよ!
というわけで今回は前半にバスティーユの場面を、後半では脚本について語っていきます。
バスティーユ
何から話せばいいのかわからないほど全てがよかった。客席を巻き込み身体がカッと熱くなるあの興奮は、劇場という空間でしか味わえない体験でした。
なんといっても先ずはあの名台詞「シトワイヤン、行こう」
この鼓舞する一声は過去最多の組子を率いる隊長オスカルとして、新たなカンパニーを率いる朝美絢としての責任を背負う覚悟の瞬間にも重なり、あなたについていきますとアランと共に叫びたくなるような没入感がありました。最近話題になることの多い朝美さんの声量ですがボリュームだけではなく、伸びやかに響く声は人の心を動かすことのできる強さを持っていると思います。日によって台詞の最後に、がなりやわずかな掠れがあり、それがまた革命を駆け抜ける歴史の生々しさを感じていました。
そして特徴的な振付。二階席から全体を見下ろせば一糸乱れぬ群舞はこれぞ宝塚歌劇団という美しさ、一階前方席では個々の力をダイレクトに受けることができます。群舞の迫力とはそれなりに人数がいれば出てくるものですが、決して人数に頼ることなく下級生に至るまでが力の限りを表現した群舞はどこを見ても気圧されるエネルギーに満ちていました。
迫力ある群舞から打って変わり、衛兵隊は捌け次々と負傷する市民たちがオスカルの目に映ります。ついには舞台にたったひとりになってしまう。突如ひとりに晒されることで隠していた線の細さが浮き出て空虚感に襲われる、ここの一瞬揺らぐ眼が朝美さんの細かな芝居の好きな点です。微かに動じるも強く瞼を閉じ、すぐさま軍人として突き進む闘志に燃えた瞳。この一瞬の変化が、オスカルの今にも頽れそうな弱さと使命のために生きる公私のバランスを感じます。
再び衛兵隊と合流、そして被弾。
「アンドレ、もうお前はいないのか」
今まで軍人としての責務を優先してきたオスカルが、アンドレを失ったことを認識し絶望を露わにする。オスカルはアンドレへ愛の台詞はありません、しかしこの剝き出しの感情こそが言葉のない最大の愛の表現ではありませんか。愛していると直接的な言葉で溢れたベルばらで、言葉なくとも愛を伝えることのできるのは朝美さんの芝居だからでしょう。
「フランス ばんざい」
オスカル最期の言葉。やはりこの人は最期までフランスのために生きていたのだ。脚本上オスカルからアンドレへの想いが見えにくく物足りなさを感じましたが、いいえこれこそがオスカルの人生なのです。少女漫画でありながら女性の社会進出を後押しした、それこそ革命の象徴ベルサイユのばら、私たちの憧れるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェではありませんか。
なんと輝かしい人生か、激動の時代に美しく咲きそして散る、そんなオスカルが舞台には生きていました。
私は舞台上の群衆の動きをオスカルの心情そのものだと解釈しています。アンドレを失い佇む幕前、それでも毅然と向かう襲撃開始時、負傷する市民をみてひとり揺らぐ心、不安を薙ぎ払い前を向き再び衛兵隊と共に立ち向かう。現場で指揮を執る立場のオスカルが単独行動をすることはないでしょう、しかし恐れと葛藤するとき舞台上ではひとりになります。戦場で織り交ざる心情の緩急のついたこの舞台表現が大好きです。
ついに革命の火蓋が切られた日、生まれ落ちた時から使命を与えられたオスカルの終着点。リミッターが外れたような朝美絢の凄みに、ある日は拍手も忘れ呆然としていたほどにはくはくと興奮していました。生命のエネルギーを突き刺す芝居は観劇という体験を一層好きにさせてくれました、同じ空間で歴史の目撃者になれて本当によかった!
脚本演出
ここからは脚本演出について、脚本の在り方をお話していきます。私の想いは下記のnote ”脚本について” でも触れておりますので、よろしければご一緒にご覧ください。
私は少々引っかかる部分はあったが理屈でなく心から楽しんだ、という気持ちに揺らぎはありません。しかし、この引っかかりとは何なのか。ゆっくりと紐を解き言葉にする必要があると考え記事にしました。特に好みや個人的見解が強く出る部分ですので皆様と意見が異なることもあると思われます。ただし作品を想い、できるだけ多くの人が楽しめるような歌劇であってほしいという気持ちに変わりはありません。どうぞ一般論というレッテルを貼る作業から一度離れ、ご自身の想いを見つめながら読んでいただけたらと思います。
脚本について
ベルサイユのばら過去の公演のひとつひとつの脚本の疑問点を列挙し、比較するにはあまりにも時間が足りません。それに、ここがあれがと指摘したところで気持ちの整理にはなりませんでした。ですので私自身は脚本に何を求めているのか、いい脚本とは、宝塚歌劇団のベルサイユのばらの脚本という大きなくくりに対してお話します。
いい脚本とは何でしょうか?
予想のできない展開、濃いキャラクター、矛盾のない時系列、わかりやすさ……全て正しいでしょう、しかし私が一つあげるのならば
「思想をどれだけ詰め込むか」
これでもかと言わんばかりの思想を凝縮してほしい。それは原作のある作品でも変わらず、物語をなぞるだけでなく他の誰でもない作家自身によって再構築された本であって欲しいのです。この熱意こそがリスペクトというものです。
ファンの感じているものと差異の少ない脚本になればよいですが、たまに突飛な脚本も出てきます。ただそこに強烈な思想があれば、私はそれでいいと思っています。オリジナルであれば、わけもわからず脚本家の熱にあてられ魘される。原作があれば脚本家の解釈は理解できないが、どうもコイツなりには色々考えがあるのだなと思い右頬を叩く程度で許します(例えですよ?)。密に詰められた念、それもある種のリスペクトの形ですから。
反対にお客様ファーストの脚本など個人的にはナンセンス。個々のお好みに応えるために書く作家なんているはずがいません。むしろいたら引っ叩きたいくらい。
私はそんな執念のような激情を脚本に求めています。では、この執念とやらをベルサイユのばらから感じるか?
答えは、イエス
本記事を書くにあたり、できる範囲で植田紳爾先生のインタビュー記事を読んでみました(短期間で集めたものなので、限られた範囲かつ又聞きを含めることをご了承ください)。
初演のエピソードを調べてみればすぐにわかりますが、当時まだ広く評価されていなかった漫画作品を提案し、衣装のために他府県に駆け回った、赤字の続く歌劇団をどうにかしたい一心で文字通り命をかけて作り上げた。なんといっても、原作コミックが何を伝えたいのかキャラクターの心理を一番に理解しているではないですか。歌劇団を護るため、作家のプライドを捨てたように感じました。
表面的な舞台上で不可解な部分があれど、それは決して原作を蔑ろにしたわけでなく、むしろ誰よりも熱を持って今も突き進み続けている植田先生の脚本に対して一方的につまらないなど口が裂けても言えません。
それで、本当に十分ではありませんか?皆さま個々で求めるものは異なるでしょう、しかしどれも脚本家の義務ではありません。形になった時の最終的な好みにすぎません。根底に舞台への狂気ともいえる熱さえあれば、人の心は動かせるのです。
実際に私はこの舞台の熱にあてられ、虜になっています。
ただ、いくら作り手の熱量があれどそれだけではプロとは言えない、そうお思いの方もいるでしょう。その通り傍若無人に書いただけでは興行として成り立ちません。チケットを売らなくては!では実際どうでしょうか。
本公演のフェルゼン編ではトップスター退団公演ということもあり、通常公演よりもかなりチケットは手に入りにくかったです。これはただ退団公演というだけではないと私は思います。ベルサイユのばらという演目に惹かれ初めて宝塚を観た人は少なくないと、実際の統計は不明ですが確実に感じています。歌劇団を立て直した力は今も健在というわけです。
本当に、本当にいつの日にか、この古典が受け入れられなくなり客入りが悪くなったのならば、それはそういう時です。その時、現代に求められる形に変化してゆくのか、そのまま時代の渦に呑み込まれるのかわかりません。どちらでも私はそれを受け入れます。
フランス革命と歌劇団再起、二つの激動の時代を駆け抜けてきた作品が、たとえ揺蕩う空の屍になろうと、私はただ見つめ愛しぬきたいと思うだけです。
これが、私の宝塚歌劇団ベルサイユのばらへの想いです。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。ちゃんと書き終わりましたよーっ!誰に課せられたわけでもないですが、次の公演の初日までには書きたかったので間に合ってよかったです。
まさかベルばらで三本も記事を書くとは思ってもいませんでしたね。ここまできたらバスティーユも語ってしまえと、贔屓についてしっかりと語れて大変満足です。演出脚本については私は引っかかりはありつつも文句はないので前回の記事にて完結させたつもりでした。しかしXにて再演希望について意見がわかれていたので、これは自分自身きちんと整理しておかないといけないなと思い記事にしました。
脚本や公演評の勉強をしているわけでもない私が何を書けるのか、何が書きたいのか、わからなくなりそうでしたが誰に害されることのない自分の言葉で記する重要性を今一度確かめることができました。難しく考えなくていいです、高尚な評価をしろと言っているわけではありません。不完全な想いを不完全な言葉にする。そんな小さなことから頭で考えることが、自分の足で人生を歩むのに必要な言葉の力なのだと信じています。
ちょっと真面目な話はここら辺にして。
前回の記事で反応嬉しいなアピールをしましたら、数件メッセージをいただきまして!めっちゃうれしい!軸は自分のための自分の書きたい記事ですが、公開している以上誰かに届いているのだと実感できるのは本当に嬉しいものです。それに自分の言葉が誰かの言葉を生み出すきっかけになる、というのは私が文章を書く一番の目的とも言えることです。改めてありがとうございます。
そんなわけで、次回は不時着とフォルモサになるかな?間もなくの初日をどきどき楽しみにしながら、毎週末みちみちの観劇スケジュールになってしまい嬉しい悲鳴と共にnoteが書けるかが不安です。でも大劇場までは時間があるのでマイペースに書いていきます。なんて言っているとあっという間にまた初日を迎えることになるのでしょうね。
今回の記事を書くにあたり、Xで脚本についてのご意見をマシュマロで募りました。送っていただいた方ありがとうございます!
せっかく開設したのでこちらでも置いておきます。記事でも脚本に対しての見解でもなんでもウェルカムです。特に送ることのない人はおすすめの本トップスリーでも送ってくださいな。結構本気で知りたいです。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
蛇足
文中で「はくはくする」と使ったのですが、意味の確認のために調べても出てこない言葉でした。あまりにも出てこないので造語かと思いましたが、合う表現が見つからず無理やり使いました。どきどきする、呼吸が浅くなるほどの興奮、という意味合いです。