【小説】さよなら、ロザリアン(2)
「おはよう」
「おはよう、翔。朝ご飯できてるから食べちゃって」
まだ眠気がこびりつくまぶたをこすりながら、翔はパジャマのまま食卓についた。
湯気を上げる目玉焼き、トースト、コーヒー。一人暮らしだった去年とは大違いの、絵に描いたような朝食のフルコースだ。
「父さんは?」
普段ならコーヒーを片手に新聞を読んでいる父の姿がない。翔は一緒に食卓についた母に聞いた。
「今日は道路工事の視察だって早くに出ていったの」
翔から受け取ったバターナイフで、トーストにバターを塗りながら母が答えた。
それを聞きつつ、翔は目玉焼きに醤油をかけた。
「そうなんだ」
翔の父親は市役所の土木課で道路管理の仕事をしている。工事の検査や災害対応のために、仕事の時間が不規則になることも多かった。
「私も今日はお稽古の日だから、これ食べたら出かけるからね」
母がそう言いながら食卓の真ん中に向かって手を伸ばした。
翔はその手に調味料ラックから取り出した塩を渡しながら答えた。
「うん」
母親は専業主婦だが、若い頃から華道を続けていて、月に数回は講師もしていた。姉、つまり翔の伯母が開いている華道教室で、初心者向けの授業を担当しているのだ。
見れば、母はすでに身支度もあらかた済ませていた。いつも通り、食べたらすぐ出かけるのだろう。
朝食を食べながら、家族がそれぞれの予定を確認し合う。それは翔が家を出る前から続く、いつもの朝の光景だった。
「俺も今日はちょっと出かけてくる」
「えっ?」
母が驚いた様子でトーストを持ったまま翔を見た。
「中学の時同じ陸上部だった勇斗、覚えてる? あいつが一緒に昼飯でもどう、って」
「ああ、勇斗って、高野くん? 翔が帰ってきたの知ってたんだ」
母の調子がなんだか妙なのには気がついたが、それには触れずに翔は話を続けた。
「うん、昨日たまたま連絡が来てさ。あいつ今日学校が休みらしくて、久しぶりに会おうって話になった」
「そう」
翔が話し終えると、母はそれだけ言って再びトーストをかじり始めた。
それを見て、翔も朝食の続きに戻ろうとした時だった。
「ねえ、翔」
「何?」
息子からの何気ない視線を受けて、母は体をこわばらせ小さく呻いた。言おうとしたことを力ずくで喉の奥に押し込めた、そんな様子だった。
「えーと、ね」
数秒の沈黙の後、母はようやく言葉を発した。
「帰りに油を買ってきてくれる? 今日の晩ごはんは唐揚げにしようと思ってたんだけど、油を切らしちゃって」
「いいよ。わかった」
母の取り繕うような笑顔に、 翔はしかたなしの笑顔で応じた。
母が出かけた後、翔は自室に戻った。
机の上には、大学で使ったテキストやノートが山のように積み上げられていた。窓から差し込む日差しに照らされ、スポットライトでも当たっているかのようだ。
それにちらりと目をやると、翔は山の一番上にあった生物学のテキストを取り、ベッドに座って読み始めた。昨日復習した場所だ。
最初はテキストの文字を必死に追っていたが、読み進めていくうちに出てくる単語を追えなくなった。それならと図表を見ながら頭の中でその説明をしてみたが、それも途中で言葉に詰まってしまった。
「くそっ」
翔はテキストを自分の横に投げ出し、ベッドに横たわった。
休学を決めたあの日から、もう三か月も経っていた。まずは勉強をやり直そうと思っていたのに、ほとんどと言っていいほど進んでいなかった。
医学部の勉強内容は、思っていた何倍もの質と量を要求された。
入試をクリアできたなら大丈夫だと思っていたのに、そんなことは全くなかった。
それは自分の見通しが甘かったせいなのか、それとも自分の努力が足りないせいなのか、それとも。翔はいつもそこまで考えるといたたまれない気持ちになって、テキストを閉じてしまうのだった。
結局、それ以上は勉強を進められないまま、翔はしばらくベッドに横たわったままでいた。
そのうち、左手のスマートウォッチが振動し始めた。昨日のうちに設定しておいたリマインダーだ。友達の勇斗との約束の時間が近づいていた。
待ち合わせをしているのは、歩いて十五分くらいのところにある『青天』という中華料理の店だった。安くてボリュームのあるメニューが人気で、翔も中学時代、勇斗をはじめとした部活仲間と何度となく通った。
行かなくちゃ。こうしてテキストと添い寝していたって、何もならない。
翔はそう思うと、悩みの中に際限なく沈んでいく体をベッドから力ずくで引き上げ、支度をして家を出た。
外は春から初夏に移り変わろうかという、爽やかな空気に満ちていた。
自宅のある住宅街を抜け、幹線道路に出ると、色とりどりの看板の隙間を車や人がひっきりなしに行き交っていた。
しかめっ面で電話をしながら足早にすれ違ったサラリーマン、小さな子供の手を引いて歩く母親、たくさんの人を乗せて自分を追い越していくバス、遠くで鳴っている救急車のサイレン。
それを眺めて歩きながら、翔は朝食の時のことを思い出していた。
母が言葉を詰まらせた時のあの顔。それを翔が見たのは二度目だった。
最初に母のあんな顔を見たのは、高校二年の時だった。
その時の翔も、今とよく似た『打ち込めるものがあったのに、どうにもならなかった』状態だった。怪我がきっかけで、小学生から続けていたハードル競技が続けられなくなったからだ。
ハードルは、翔が人生でいちばん打ち込んだことだった。小学六年生の時には県大会に出場し、中学三年では関東大会で入賞した。その成績を買われて、高校は毎年全国大会に選手を送り出している陸上の強豪校にスポーツ特待生として入学した。
けれど、入学して二ヶ月で怪我に見舞われた。膝の前十字靭帯断裂。練習中にハードルに足を絡ませ派手に転倒したのだ。
原因は、インターバルの歩幅が普段より大きかったこと。普段ならやらない失敗だった。
その失敗を引き起こしたのは焦りだ。陸上部はあちこちからスカウトされてきた優秀な選手ばかり。結果を出さなければと焦るあまり、歩幅が狂っていることに気付けなかった。
もちろん、手術を受けた。ハードルを続けたかったからだ。
リハビリと復帰のためのトレーニングには一年近く費やした。
ようやくハードルを跳んでもいいと言われ、部活に復帰した日。通常よりかなり低くした練習用のハードルを跳んでみることになった。
やった、ようやく跳べる。
高揚する気持ちのまま一気に最初のインターバルを駆け抜け、いざ踏み切ろうとした瞬間。膝に激痛が走り、それ以上足は動かなかった。
手術を受けた病院で検査してもらったが、治療が必要な場所は見つからなかった。
それから、何度ハードルを跳ぼうとしても翔の膝は痛んだ。リード脚を逆にしたり、フォームや踏み切りのタイミングを変えてもダメ。その度に病院へ行ったが、やはり異常はなかった。
何度目かに整形外科の医師から心療内科の受診を勧められた時、翔は思った。
「ああ、もう自分はハードルができなくなったんだ」と。
その日から、翔は膝のことで病院に通うことはなくなった。そして、ハードルを跳ばなくなった膝が痛むこともなくなった。
陸上部に退部届を出したのは、二年生の一学期が終わる頃だった。
顧問はひとこと「残念だ」と言っただけだった。
終わったな、全部。
翔はその言葉を聞いてそう思った。自分の価値も今までの人生も全て壊れてなくなってしまったように感じた。
もし『荻野翔とはどんな人間か一言で表せ』と言われたら、今までなら「ハードル馬鹿」と即答しただろう。けれど、その質問にはもう答えられない。自分を表す一言は、今はもう真っ白な空欄になってしまった。
学校はとたんにつまらなく、辛い場所になった。
周りは夏休みに向けて部活の合宿や遊びの相談をしている中、翔には何もなかったからだ。
夏休みになっても、その気持ちが晴れることはなかった。たいして読みたくない漫画を繰り返し読んだり、近所を散歩して、どうにか一日の時間を潰して寝るだけの日々が続いた。
そんな翔の様子を、母は何か言いたいけれど何も言えないような顔で見ていた。
たまに意を決したように何かを話そうとしてきたが、翔が
「何」
と答えると、いつも引きつった顔で言葉を詰まらせ沈黙してしまった。そして、決まってその後に
「おやつ食べない?」
と取り繕うような笑顔で言うのだった。
夏休み中の三者面談では、赤点寸前の成績のことを厳しく言われた。もう特待生ではなくなった翔には、成績の優遇処置もなくなっていた。
「荻野くん。今なら間に合う。これから陸上以外の高校生活をどうするのか、決める必要があるよ」
担任はそう言って面談を終わりにした。
面談には、この日のために有給休暇を取って父が来ていた。
担任との話を終え、高校から駅までの道を二人で歩いた。
とても暑い日だった。道路にはゆらゆらと陽炎が立ち上り、街路樹からセミの鳴き声が何重奏にもなって響いていた。
「なあ、翔」
きっと、自分の今の状態を怒られるんだろう。
そう思って、翔は父の顔を見なかった。見られなかった。だから、父から顔を背けた先で車道を走る車を眺めていた。
「辛いよな。けれど、さらに辛いことにお前の人生はここで終わりじゃないんだ」
父は小さな子供を諭すように言った。
翔はそれを聞きながら、まだ車が行き交う様子を見ていた。
ちょうど、父が昔持っていたのとよく似た黒のワンボックスカーが通り過ぎて、ふいに小学生の頃を思い出した。
四年生の時に、翔は自分が通う小学校で開かれた陸上の地区大会にハードル競技で出場した。人生で初めての大会は、緊張して散々な結果だった。
翔は悔しさのあまり何も喋らず、うつむいたまま早足で帰った。その隣で父は「最初のダッシュはよかった」とか「フォームは誰よりもかっこよかった」とか、とにかく「よかった」と繰り返した。
そういえば、あの時もこうやって父さんと二人で歩いて帰ったな。
翔は隣にいる父の視線を肩のあたりに感じながらそう思った。
あの日から、翔が出場する試合には両親のどちらかは必ず応援に来てくれた。どんなに会場が遠くても、負けたときも勝ったときも。
父はうつむいたままの翔になおも語りかけた。
「だから、ハードルと同じくらい打ち込めるものを探しなさい。小さなことでもいいし、大きなことに挑戦してみてもいい。そうだな、例えば次のテストでクラス一番の成績を取るとか。いっそ、医者や弁護士を目指してみてもいい」
「医者……」
翔は父親のほうを振り向き、その言葉を繰り返した。
なぜそこに反応したのか、今は思い出せない。何も考えていなかったような気がする。けれど、なぜか心に引っかかったのは弁護士ではなく「医者」だった。
翔がようやく反応を示したのを見て、父親は少しホッとしたような顔でうなずいた。
「父さんも母さんも、これまで通り応援する。何か目標を決めて、もう一度走ってみなさい。飛び越えるハードルが変わるだけだ、お前ならきっとやれる」
こうして、翔は医学部行きを決めた。
もう一度打ち込めるものを見つけて、自分を救いたかったから。
「翔!」
高校時代のことを思い出しながら歩いてるうちに、気づけば待ち合わせをした店の前に着いていた。
自分を呼ぶ声に顔を上げると、Tシャツにカーゴパンツ姿の男が『中華料理 青天』の看板の前で手を振っていた。待ち合わせの相手、勇斗だ。
久しぶりに見る人懐っこい笑顔は、部活終わりにこの店に通っていた中学の頃から全く変わらなかった。
「ひさしぶり」
「最後に会ったのいつだっけ?」
「高校入る前の春休みにやった、吉川先生の送別会じゃない?」
吉川先生は翔と勇斗の中学三年間、陸上部の顧問だった。他の中学に転任が決まって、陸上部みんなで集まって送別会を開いたのだった。
翔が中学の陸上部メンバーと会ったのは、その日が最後だ。
高校に入学してからは、いちばん仲の良かった勇斗とでさえメッセージのやり取りだけの付き合いになっていた。翔の通う高校が遠かったこともあるが、いろいろとそれどころじゃなかった、というのが一番の理由だ。
「え? オニカワの? そんな前になるのか。俺も年取るはずだよな」
「そんなに経ってないじゃん。てか、同い年だし」
翔がそう言ったのを合図に、二人は笑いあった。
ああ、この間、懐かしいな。笑いながら翔は思った。
そうそう、いつもこうだった。部活でもムードメーカーだった勇斗がいつもボケて、それに皆でツッコミを入れて笑って。
それは、翔にとって中学時代の楽しい記憶を象徴する風景だった。
「まずは中入ろうぜ。メシ食べながら話そう」
「うん」
並ぶと、同じくらいの身長だったはずの勇斗は背が伸びていた。
それでも、少しだけ中学生に戻ったような気分で、翔は勇斗と並んで店に入っていった。
ランチ時で店内は混んでいたが、幸い二人が入ったタイミングで席が空いた。
「空いてる席にどうぞ」
厨房からそんな声が聞こえてきて、二人は店の奥へ進んでいった。
「で、どうよ大学は?」
歩きながら勇斗が問いかけた。
「実は今、休学中で」
「はぁ? 休学?」
ちょうど席に着いたタイミングで勇斗が大声を上げた。
注文の声や食事の音で店の中が騒がしいおかげで、誰もそれを気に留めなかったことに翔は内心胸をなでおろした。
「うん。まあ、いろいろあって」
翔は平静を装いながら椅子に座った。
勇斗に休学のことを伝えるか、昨日までは迷っていた。けれど、それは間違いなく事実だし、隠しても何も変わらない気がして伝えることにした。
けれど、さすがに『自主的留年』のことは言えなかった。詳しく聞かれたら、ボランティアとか留学とか、適当に答えておこうと思っていた。
嘘をつくのは心が苦しいけれど、『留年した奴』とか、『勉強が出来ない奴』とは思われたくない。
自分でもどうかと思うような見栄だったが、それは失くしたくなかった。
「えーマジかよく親が許したな……あ、ごめん。悪い意味じゃなくてさ。大学生が休学って珍しくないんだろ? イトコの姉ちゃんも休学して留学とかしてたし。大学っていろんな勉強のやり方があるんだな」
詮索されるかと身構えていた翔には、ただ今の状況を受け入れようとしてくれた勇斗の反応はありがたかった。
「けどさ、俺本当に翔のことすげーと思ってんだよ」
テーブルに置かれたメニューを取り、翔にも渡しながら勇斗は言った。
「中学の頃からハードルめちゃくちゃ速かったし、高校で怪我して続けられなくなってもそこから一浪で医学部だろ? 普通ありえないって」
勇斗から受け取ったメニューを持ったまま、翔は動きを止めた。
さっきまで耳元で鳴っていた店内の喧騒が、急に遠くなった気がした。
翔が医学部に進学したことは、中学の卒業生や在校生の間で有名になっていた。『スポーツを怪我で諦めても、そこから猛勉強の末に医大に合格した』、そんな美談とともに。
けれど、実際は全く美談ではない。
たまたま親が示してくれた選択肢に乗って、それがたまたまうまく行っただけのことなのだ。
自分で選んだハードル競技という『打ち込めるもの』がダメになった時のあの辛さを二度と味わいたくなかったから、自分以外の人間に選んでもらったものに打ち込んでみている。それだけのことだった。
だから、目を輝かせながら自分をすごいと言ってくれる勇斗に、翔はこう返すしかなかった。
「そんなこと、ないよ」
勇斗が何か言いたげにしていたが、気づかないふりをしてメニューに目を落とした。
美談の中の自分も、本当の自分も、どちらの話もこれ以上はしたくなかった。
「いらっしゃい。あら、久しぶりの顔だね。注文は?」
翔が気まずさを感じながらメニューを眺めていると、横からそんな声をかけられた。
「おかみさん! ひさしぶり!」
「おひさしぶりです」
おかみさん、とはこの中華料理店『青天』の店主の奥さんだ。夫である店主は厨房を担当し、おかみさんは注文や会計を担当していた。
この店の常連客は、本人たちの希望で店主をおやじさん、奥さんをおかみさんと呼ぶのが決まりだった。
「俺、唐揚げチャーハン大盛りで。翔は? 決まった?」
「あ、ええと」
翔は慌ててメニューを見た。今までただぼんやりと眺めていただけで、何を食べるかまったく考えていなかった。
メニューには懐かしい定番から、見たことのない新作までびっしりと並んでいた。
なにを選んだらいいんだろう。どれを選べば正解なんだろう。
たくさんの料理の名前を前にして、翔はそう思った。昔だったらすぐに決めていたことが、なぜか今はうまくできない。
結局、翔は何も決められないままメニューをテーブルに置いた。
「じゃあ、同じものをください」
「え? ワンタン麺じゃないの?」
勇斗がすかさずそう言った。
中学時代の翔は、周りが呆れるくらいワンタン麺しか注文しなかった。仲間が食べている他のメニューが魅力的に見えることもあったが、それでも次に注文する時には、何の迷いもなくまたワンタン麺を選んでいた。
あの頃の自分は、どうしてあんなにすぐ決められたんだろう。
「お前、青天でワンタン麺しか食ってなかったじゃん」
「いいよ、同じで。唐揚げチャーハン大盛り二つでお願いします」
「はいよ。待っててね」
おかみさんはそう言うと、厨房に向かって大きな声で注文内容を伝えて、別のテーブルへ向かっていった。
「ふーん」
勇斗がもの言いたげに翔を見た。
その視線が気まずくて、翔は話をしてごまかすことにした。
「あ、勇斗は今年専門卒業だろ? 整備士の」
「おう」
勇斗の家は自動車の整備工場だ。勇斗も昔から車やバイクが大好きで、「将来は整備士になる」と中学の頃から周りに宣言していた。
その宣言通り、高校卒業後は整備士養成コースのある専門学校に入学した。学校の名前が刺繍された制服のツナギ姿の写真を浪人中だった翔もSNSで見ていた。
「整備士の試験って、難しいの?」
翔はテーブルの端に積まれたコップを二つ取り、ピッチャーから水を注ぎながら聞いた。
「真面目に勉強してれば大丈夫だって先生も親父も言うけどな。正直、不安しかない」
勇斗は翔から渡された水を飲むと、こう続けた。
「卒業したら変な記念品とかいらないから、資格をくれたらいいのにな。そう思わない?」
「うん。たしかに」
二人は顔を見合わせて笑いあった。
そこに、山盛りのチャーハンを両手に持ったおかみさんがやって来た。
「はい、唐揚げチャーハン大盛り二つ。お待ちどうさま」
大きな皿が二つテーブルに置かれた。山盛りのチャーハンを特製のネギダレがかけられた大きな唐揚げが縁取る、青天の人気メニューだ。
「いただきます! あーこれだよこれ、めちゃくちゃ懐かしい!」
勇斗が目を輝かせながら、レンゲを手にした。
「ありがとうございます」
翔が頭を下げると、おかみさんは満足そうに微笑んで厨房へ向かった。
しばらく、二人は無言でチャーハンを食べていた。勇斗は懐かしい味に嬉しそうな顔をして夢中で食べているが、翔は同じ気持ちにはなれなかった。
半分ほど食べたところで、水を飲んで一息ついた勇斗がふいに言った。
「けど、頑張って試験に合格して二級取らないとな」
どうやら、チャーハンが来る前の話の続きのようだ。
「じゃないと、家を手伝いながら一級に合格して、俺の代になったら『一級整備士がいる店』ってデカい看板をかけるってプランが台無しだからさ」
チャーハンを口に運ぼうとした翔の手が止まった。
胸のあたりを強く押されたような感覚がする。店の中の喧騒がひときわ大きくなったような気がした。
「すごいじゃん。ばっちり決まってるんだな」
そう言うのが精一杯だった。
勇斗が話したことは、翔にとっては衝撃的だった。
勇斗は自分の将来をもう決めている。何をして、どうなりたいのか。そのためには何が必要か。
自分はどうだろう。医学部を卒業、いやその前には病院で実習がある。それから国家試験に合格して、医師免許を取ったら研修をして、その後には自分の専門を決めなければ。
どこで、何をする? 何が必要になる? どうすれば決められる?
勇斗の話はそれからも続いた。
学校のこと、授業のこと、中学時代のこと。けれど、翔は全部上の空で、適当に相槌を打っていた。
勇斗が今やこれからのことを話すたび、翔の頭の中は真っ白になって何も考えられなくなった。中学時代のことさえ、「そうだった?」と他人事のような返事しかできなかった。
もう、チャーハンの味は一切わからなくなっていた。
翔がどうにかチャーハンを食べ終え時には、勇斗は追加で注文した杏仁豆腐も食べ終えていた。
「いやー、やっぱここのチャーハンは美味いな」
勇斗がそう言って笑うので、翔もどうにか笑顔を作ってそれに合わせた。
会計をして店を出ると、これからバイトに行くという勇斗と店の前で別れることになった。
「翔」
「何?」
見ると、勇斗はこちらにやけに真剣な目を向けていた。
「俺、高校からバイト死ぬほど頑張っててさ。こないだついに買ったんだ、車」
「えっ、すごいじゃん」
それを聞いた勇斗は、嬉しそうに続けた。
「親父のツテで紹介してもらった、安い中古だけどな。明後日納車なんだ。そしたらさ、予定合わせてドライブ行こうぜ」
「いいね」
「行き先はお前が決めろよ」
「えっ」
勇斗はさっきと同じ真剣な顔に戻っていた。
『せっかく買えた自分の車なんだから、勇斗が行きたい場所を決めたらいいじゃん』
そう言おうとするより早く、勇斗が念押ししてきた。
「お前が決めるんだ。いいな」
その有無を言わせぬ様子に、翔は仕方なくうなずいた。
「うん」
「じゃ、またメッセージ送るわ。じゃあな」
「うん。誘ってくれてありがとう」
笑顔に戻った勇斗に手を振り、翔は『中華料理 青天』の看板の前で一人立ち尽くした。
旧友との食事は、思っていたような楽しいだけのものではなかった。
それは自分のせいだということはわかっている。勇斗の様子を見て、勝手に自分と比べてしまっているだけだと。
とりあえず、帰って勉強の続きでもしよう。とにかく少しでも建設的なことをしよう。
そう思って、一歩踏み出したときだった。
「あ、油買わなきゃ」
ふいに母に言われたことを思い出したのだ。
夕食が唐揚げだと言われたことも忘れて、唐揚げを食べてしまったのは失敗だったかな。そう思いながら翔は家ではなくスーパーに向かって歩き出した。
ランチ時が終わった街は、来た時よりも少し静かになっているような気がした。
幹線道路沿いを、翔はのんびりと歩いていった。
街の中を歩くのは久しぶりだ。高校時代、浪人生時代と、駅と自宅の往復ばかりだったから、中学生以来になる。
よく晴れた午後の陽射しの中、懐かしい店や新しくできた店を観光気分で眺めながら歩いていった。
しばらく歩くと、翔は幹線道路を外れ、細い路地に入った。スーパーへの近道だ。
そこは、子供の頃何度となく通った道だった。一歩歩くごとに思い出の場所が現れる。
小さい頃に友達と通い詰めた駄菓子屋の店先をひやかし、初恋の女の子が住んでいた真っ青なタイル壁が印象的なアパートを通り過ぎ、自分も通った幼稚園の前を通り過ぎた。
すると、風に乗ってバラの香りがしてきた。一歩歩くごとにその香りは強くなっていく。
翔はその香りのする方へ、導かれるように足を向けた。スーパーとは方向が逆だが、懐かしい場所を巡ったついでに、もう一か所見たい場所があったのだ。
記憶の中と全く変わっていない道を歩いていくと、住宅街の一角に色とりどりのバラが咲いている場所があった。
そこは、さながら小さな植物園といった見た目だった。
正しくは一軒の住宅とその庭なのだが、周りの家々とは比べものにならないほどの緑にあふれかえっていた。バラや何種類もの花々、そして木々が、この辺りでは珍しい洋館風の家を覆い隠すように植えられていた。
翔はその家の道路に面した場所にある、淡いピンク色のバラが絡んだアーチの前に立った。風が吹くたび、可憐な花びらはふるふると揺れて、ほのかな香りを振りまいた。
記憶の中よりもバラの種類も数も増えたようだったが、このピンクのバラは記憶にあった。
「ピエール・ド・ロンサール」
翔はそのバラの名前をつぶやいた。名前を覚えていたことに、自分でも驚いた。
子供の頃に教えてもらったときには、呪文みたいだと思っていたっけ。
教えてくれたのは、この家に住む女性だ。翔が幼稚園から小学校を卒業するまで通った、子供向けの英語教室をここで開いていた。
翔は改めてバラの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
懐かしいな。落ち着く香りだ。そんな思いが胸に押し寄せた。
この場所から感じる懐かしさは、さっきまで見てきた場所とは別格だった。まるで、子供の頃に大事にしていたおもちゃ箱を開いたような気持ちになった。
「ごめんなさい。オープンガーデンは明後日からなの」
ふいに、背後から声をかけられた。驚いて振り返ると、声をかけてきた人物は翔の顔を見てこう言った。
「あら、もしかして荻野くん? 翔くんでしょう」
翔に微笑みかけたのは一人の老婦人だった。グレーの髪をきちんと結い上げ、シワひとつない真っ白なシャツにネイビーのパンツ姿。飾り気のない服装だが、意思の強そうな大きな瞳と、深い赤色の口紅が華やかな印象を与えている。
記憶の中の姿と変わらないその人物の名を、翔は驚きと懐かしさの入り混じった声で呼んだ。
「マダム!」