【短編小説】骨まで凍る(10)(終)
山下さん夫婦は、今も変わらず俺達を気にかけてくれている。
山下さんは狩猟を辞めると宣言した後、本当に全ての猟具を俺に譲り渡してしまった。猟友会からも抜けて、あれ以来狩猟免許の更新も一切していないそうだ。そのことを奥さんはとても喜んでいた。
後で奥さんが俺に「主人には内緒にしてね」と前置きしてから、彼が病院に行くほどの怪我をしたのは初めてのことでとてもショックだった、自分から辞めると言ってくれてホッとしたと話してくれた。「自分から辞めるなんて言い出すとは思わなかったのよ。ほら、うちの人、自分でこれと決めたことにはびっくりするくらい誠実でしょう?」という言葉には何度も頷いてしまった。
山下さんの狩猟への情熱は、今では別のものに注がれている。それはかつての仕事、教育だ。
彼は4年前から、隣町で見つけた空き店舗で小中学生向けの塾を一人で経営している。彼の人柄もあって塾は人気のようだが、「教えてあげているんじゃなくて、教えさせてもらっているんだ」と授業料をかなり低く設定しているらしく、そのことを奥さんが嘆いていた。
そんな状況でも、彼は変わらず俺の狩猟の先生だ。今でも俺が狩猟のことで相談に行けば、彼は必ず的確なアドバイスをくれる。
ただし、あの日遭遇した出来事については一切触れないのが暗黙の了解になっていた。
俺はそれについて彼に何も言うつもりはない。
彼はあれほどの情熱を傾けていた狩猟を辞めてまで、あの日の出来事と、娘へのひとつの思いを山に置いてきた。
それでもなお、彼は今も変わらず俺の良き先生でいてくれるし、毎日遺影に手を合わせて話しかけ、誕生日やクリスマスにはケーキを買ってくる、いぶきちゃんの良い父親だ。
その誠実な決断に、言えることなんてあるわけがない。
奥さんには、美咲がつわりの時に本当にお世話になった。
初めてのことに右往左往するだけの俺達に、「絶対に無理はしないで、少しずつ。食べられそうなときに、食べられそうなものを、食べられるだけ食べるのよ」と、野菜や果物、一口サイズのおにぎりやパンなど、いろいろな食べ物を毎日のように差し入れしてくれた。
美咲が里帰り出産ではなくここで産むと決めたのは、実家が遠いことに加えて両親ともに現役で仕事をしているといった事情もあるが、やはり奥さんの存在があったことが大きい。
本当に、あの二人には感謝してもしきれない。
きっとこれからも世話になってしまうと思うが、いつか何かの形で恩返しができればいいと俺達は考えている。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。――行ってくるよ」
少し体を屈めてお腹の子にも声をかけると、俺は家を出た。まだ自分を「パパ」と呼ぶのはむず痒い感じがしてできていない。
庭のガレージの中に作った棚からくくり罠をいくつか選んで段ボール箱に入れ、山下さんから譲り受けた背負子にスコップや他の道具と一緒にまとめる。
それを車のラゲッジに放り込むと、首に双眼鏡を、腰のベルトに止め刺し用のナイフを下げる。ナイフの鞘はこの5年ですっかり飴色になった。
最後に、スニーカーを泥だらけの長靴に履き替え、猟友会のベストを羽織ってキャップをかぶると、俺は山へと車を走らせた。
こうして一人で猟に出かけるのにもすっかり慣れた。
今では罠の設置から止め刺しまで一通りできるようになったが、ずいぶん失敗したものだ。
それに、始めのうちは50メートル進むたびに周辺を双眼鏡で見回しながら歩いていた。山にも猟にも不慣れで緊張しきっていたし、何よりあいつがまた出てくるのではないかと警戒していたからだ。
幸い、あいつに会ったのはあの時一度だけだ。山のことも少しはわかってきて、以前ほどには緊張しなくなったが、今でも100メートルおきくらいには双眼鏡で周りを見回さないと不安になる。
最近は5年前の出来事のことをよく思い出す。山でのこともそうだが、次の日に山下さんが右手の包帯を軋ませながら絞り出すように俺に語った言葉が何度も頭に浮かぶ。
『あの子にまた会えるなら、もう一度抱きしめてやることができたなら、その代償に何だって払ってしまいたい』
自分が親になった今、あの言葉がいよいよ本来の意味と重さをもって俺にのしかかってくるように感じている。
もし、自分が同じ状況に置かれたらどうするのだろう。
俺もあの時の彼のように、この命を捨ててでも、誰かを悲しませても、それでも会いたいと思ってしまうのだろうか。
もし、もしもあいつに出会ってしまったなら。それ以前に、もしも大切な存在を失ってしまったなら。俺はその時何を思い、どんな行動をするのだろうか。
そこまで考えるたび、いつも骨まで凍るような猛烈な寒気が、底知れない恐怖が全身を包むのだ。そんな状況がやって来るかもしれないと考えることも、その時になってみなければ、自分がどんな選択をするのかわからないことも。怖い。たまらなく、怖い。
昨日が小春日和だったせいなのか、山に近づくにつれて辺りには霧が出てきた。すれ違った車のライトが点いているのを見て、俺も車のフォグランプを点ける。
ふと見れば、車の外気温計は2度を表示していた。だが、今日はそれよりもはるかに冷えるような気がする。
今日はまさしく『骨まで凍るような日』だ。
俺は口の中にわいてきた生唾を持ってきた水筒の熱いコーヒーで流し込むと、山の麓に車を停めた。
(終)
お読みいただき、誠にありがとうございました。