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【ショートストーリー】ロマンティックもらった

今日は真冬なのに春みたいな日だった。
まだ2月の半ばなのに気温が4月並みに上がり、市民公園はフライングでやって来た春を楽しもうとする人々でいっぱいだ。

私だって、そのうちの一人だった。
うららかな日差しの中、娘と散歩を楽しもう。久しぶりにダウンコートを着ずに歩いて、早咲きの梅や花壇のビオラを愛でよう。娘は花が大好きだから、きっと喜ぶ。
そう思っていたのだ。

なのに、なぜか私はこの世の終わりのような泣き声を上げて地面に転がる娘を前に立ち尽くしている。


きっかけは些細なことだった。
だいたい、子供の号泣スイッチがONになるのなんて、些細なことのほうが多い。

今から十数分前、公園を歩き始めてしばらくした時だった。私は自分のスニーカーの靴紐がほどけているのに気がついた。
結び直すからちょっとだけここで待っててね、とつないだ手を離したとたん、娘は大好きな花でいっぱいの花壇に向かって走り出した。そして転んだ。
その間、わずか数秒足らず。走ったら転ぶからダメだよ、なんて言う暇もなかった。

幸い、娘はどこも怪我していなかった。けれど、服を汚してしまった。
よりによって、いちばんお気に入りの、赤いチューリップのワッペンがあしらわれたスウェットのトップスを。
さらに悪いことに、お気に入りで何度も洗濯を繰り返していたチューリップは、小さな石とでも擦れたのか、花の部分が裂けてしまっていた。


かくして、私は今の状況に至っている。
泣き止ませようと、思いつく限りの手段は使った。おもちゃもお菓子もジュースも使ったし、切り札の「◯◯を買いに行こう」も出した。もちろん、その前には抱っこだって試みている。
けれども娘の悲しみと絶望は深く、重く、私には打つ手がなく。

うららかな午後をつんざく娘の号泣は、きっと公園中に響き渡っていることだろう。
通り過ぎる人が全員こちらを見ている気がするし、その誰もが私を非難しているように思える。
面と向かって何を言われたわけでもないのに、申し訳ないような、いたたまれない気持ちでいっぱいだ。
とにかくここから一刻も早く立ち去りたい。立ち去らないと。立ち去らなければ。立ち去らせてくれ。ねえ、立ち去ろうってば。
私が意を決してもう一度娘を抱き上げようとしたその時だった。


「あらお嬢ちゃん、どうしたの?」 

背後からかけられた声におそるおそる振り返ってみると、そこには一人の女性が立っていた。

歳は50代くらいだろうか。個性的なファッションだった。
北欧のブランドが出していそうな、カラフルで大きな花柄のセーターがまず目を引いた。
チュールを重ねた黒のロングのプリーツスカートといい、セーターの地の色に合わせたブルーのソックスといい、細部までこだわりを感じる。

――これはもしかして、巷で言う『ロマンティックおばさん』なのでは?
つまり、年齢とかいうおせっかいなバイアスなんかに臆することなく花柄の洋服を着て、『自分には揺るがない芯が一本通っています』とファッションで語る、近年確認された強い女性の新タイプなのでは?

私は思わず身構えた。
なぜって、こういう女性って、なんだかひとクセもふたクセもありそうな、全てのことにおいて自分だけの哲学があって、それを他人も実践することを是としていそうな……。

私がネットで斜め読みしただけの知識から得たイメージを思い出しつつ対応策を練っていると、女性は号泣し続ける娘の近くにしゃがみこんだ。スカートにさっと後ろから手を当てる所作が美しい。

「なにか悲しいことがあった?」

「ええと、転んだ拍子にお気に入りの服を破いてしまって」

未だ声を限りに泣き続ける娘の代わりに、私が答えた。
ついでに地面に寝転がっている状態だった娘をどうにか地面に座らせる。

「あらあら、それは一大事だわ。怪我はしてない?」

「ええ。怪我はないんですが、服がショックだったみたいで。新しいのをもう一度買いに行こうって言っているんですが、ちょっと今何を言っても届いてないみたいで」

「あら、それは違うわよ」

それまで柔らかな、おっとりとした口調で離していた女性が、急にぴしゃりとそう言い放った。

私は思わず、顔に貼り付けておいた愛想笑いを忘れてしまった。
何を言われるんだろうか、どう答えれば切り抜けられるだろうかと考えることに精一杯になってしまったから。

けれど、女性から出たのは私の予想とはまるで違う言葉だった。

「涙は、本当に大事なもののために出るんだもの。お嬢ちゃんにはこのお洋服がとっても大事なんだわ」

そう言って、女性は娘の顔を覗き込むように、さらに首を下げる。

「新しいのなんかじゃダメなのよね。今着ているそのお洋服は、楽しいや嬉しいがいっぱい詰まった、自分だけの大事な一枚だもんね」

その言葉を聞くと、驚いたことに娘が泣き止んだ。
あれだけ何を言っても届かなかったのに、女性の言葉は4歳の胸を打ったらしい。

それは私も同じだった。
『楽しいや嬉しいが詰まった、自分だけの大事な服』……考えつきもしなかった、そんなこと。

女性は娘に同意を求めるかのように笑いかけたかと思うと、何かひらめいたようにぱちん、と手を叩いた。

「そうだ。ねえ、お嬢ちゃん? そのお洋服、もっと素敵にしてみない?」

すると、女性は自分のセーターに手をやり、左胸あたりをぐっと握ったかと思うと、そのまま引きちぎるような仕草をした。

「えっ?」

何が起こっているのか理解できなかった。
何? 引きちぎった? セーターを? どういうこと?
娘も目をまん丸にして女性のことを見ている。そうだよね、知らないおばちゃんがいきなり目の前でセーターを引きちぎったらびっくりするよね。ママも今同じ気持ち。

なんとか冷静になって観察すると、セーターに穴は空いていないようだった。
ただ、その場所にあったはずの花柄がひとつ、消えている。

女性はセーターを握った手を顔の前でゆっくりと開いた。
その手の中から現れたのは、セーターの切れ端ではなく、手のひらから零れ落ちそうな数のアネモネの花々だった。

「わあ、おはな!」

娘が歓声を上げる。
女性はにっこり笑うと、手の中のアネモネの花をそっと娘の胸の近くに持っていった。あの破けてしまったチューリップのワッペンのあたりだ。
ワッペンを覆い隠すようにかざした手をそっとどけると、娘の服には色あせて破けたチューリップの代わりに、色とりどりのアネモネの花を模したワッペンがついていた。

その瞬間があまりにも美しくて私は思わず息を呑んだが、すぐに頭の中は疑問でいっぱいになった。
何これ? 手品? 魔法? どうしてセーターの柄がスウェットのワッペンに、というかセーターの柄をちぎって、……え?

混乱する私をよそに、娘は言葉にならない喜びの声を上げた。スウェットを引っ張って胸元に現れた色鮮やかなアネモネを見ては、立ち上がってぴょんぴょん飛び跳ねている。

女性はその様子を見ると、満足そうにうなずいた。

「ほら、どうかしら? よく似合ってるわ。今日のスカートの色ともバッチリ合ってる。まるでお花のフェアリーたちに愛されるプリンセスみたい」

「プリンセス!」

娘が嬉しそうに叫ぶ。
今、この子がいちばん気に入っている言葉だったからだ。

「よかった。いい笑顔ね、ヒマワリみたいよ」

「あのぉ、」

私はおそるおそる女性に声をかけた。
何から話せばいいんだろう。まずは娘の服についてのお礼? 何をどうやったらこんなことができるのかっていうことも聞きたくてたまらないんだけど、そんなことから入ったら失礼?
そんなことを考えているから、言葉が続かない。

「ああ、そうよね。お母さんにもこれ、どうぞ」

話しかけたくせに黙っている私を見ると、女性はセーターの左肩あたりを掴んでちぎり、その手を私が肩にかけていたマザーズバッグにそっと押し当てた。

「えっ、嘘っ」

見れば、真っ黒で何の変哲もなかったトートバッグに青のアネモネの刺繍が入っている。しかもワンポイントどころではない、けっこうな面積にだ。

「あなたはこんなにかわいいプリンセスのママなんだもの。ちょっとくらい華やかにしてないと、負けちゃうわ」

娘に目をやりながら、女性は言った。
娘はといえば、さっきまでの大号泣が嘘のように、笑顔でくるくると回って踊っている。

「でも、」

私の言葉を女性が手で制した。

「いい? ロマンティックっていうのはね、あなたを輝かせるドレスで、あなたを守ってくれる鎧なの。だから、ロマンティックは捨てちゃダメ。絶対にね」

「はあ」

そう強く訴えられかけて、私はそんな間抜けな相槌を打つしかなかった。

「いろいろと、負けちゃダメよ。それじゃあね」

最後にそう言うと、女性は立ち上がり、手を振って去っていく。
しばらくぽかんとその背中を見ていたが、慌てて娘と一緒に頭を下げ、お礼を言った。


女性が去った後も、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
キツネに、ではなく、あのロマンティックおばさんにつままれてしまった。
何がなんだかわからない。私は何を見たんだろう。
つい今しがたの出来事なのに、思い出そうとすればするほど記憶が曖昧になっていくようだった。

娘は花壇の花に興味が移ったようで、大人しく花を見ている。
その隙に、私はマザーズバッグの刺繍にそっと触れた。
撫でると、光沢のある刺繍糸のつるつるとした感触が伝わってくる。

「ママ、ニコニコしてるね。うれしい?」

娘から不意にそう言われてハッとした。
知らず知らずのうちに笑顔になっていた。自分の持ち物でこんな気分になるなんて、久しぶりのことだ。
いつだって娘が最優先で、自分のものは機能とコストが最優先で。それが当たり前だし、嫌だなんて全く思っていない。
けれど、自分の持ち物で気分が上がる、この感覚もきっと悪いことではないはずだ。

「うん。嬉しい!」

娘も大きくなったし、このバッグはそろそろお役御免だと思っていたけれど、これからも使い続けよう。
『ロマンティックはドレスで鎧』、やけにはっきりと記憶に残っているこの言葉の意味がわかるようになるまで。

「さあ、お散歩しよう! お花もたくさん見るよ!」

私は娘の手を取ると、あたたかな公園を再び歩き出した。




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