【ショートショート】一戸建てゆず茶
忙しく引っ越しの荷物を片付けていると、玄関のインターホンが鳴った。
時計を見ると、宅配業者が来る時間になっていた。
どうにか荷物の山をかき分けながら玄関までたどり着き、無事小包を受け取る。
伝票に書かれた『品名:ゆず茶』の文字を見て、嬉しくなった。
よかった、間に合って。
やっぱり、新築の家に引っ越したんだったら、『一戸建てゆず茶』がないとね。
新たに家を建てた人に、ゆず茶を贈る。
贈られた人は、新居での最初のお茶の時間にそのゆず茶を飲む。
そんな『一戸建てゆず茶』は、私の故郷では昔からの慣習だ。
大事なのは、贈る人はゆず茶を自分で作ること。
しかも、自分の家の庭で育ったゆずを使わなければならない。
そんな決まりがあるのは、ゆずにこんな願いが込められているからだ。
『ゆずは実るまでに長い年月がかかることから、ゆずが実るように家庭が長く続けられるように』
『庭のゆずを収穫してゆず茶を作れるような、丁寧で余裕のある暮らしができるように』
『一戸建てゆず茶』には、家を建て、これから新しい生活を始める人を応援する気持ちが昔も今も詰まっているのだ。
ただ、現代では、昔のようにご近所さんや親族からではなく、ネットで知り合った人から贈ってもらうこともけっこう多い。
地域限定の慣習だった『一戸建てゆず茶』も、SNSのおかげで”丁寧な暮らし”の一環として全国に知れ渡るようになったからだ。
今日届いたこの『一戸建てゆず茶』も、SNSでフォローしている方からいただいた。
私はその方のご自宅のインテリアやエクステリアの投稿をいつも楽しみにしていて、家を建てるときにものすごく参考にさせてもらった。
勇気を出してそのことをメッセージで送ったら、「ぜひ新築祝いのゆず茶を贈らせてください」と嬉しい返信が届いたのだ。
小包を開けると、丁寧に梱包されたおしゃれな瓶が現れた。
中には黄金色に輝くゆず茶がたっぷりと詰まっている。添えられた手書きのメッセージカードもすごくセンスがいい。
何から何まで本当に丁寧でおしゃれ。
私もこのゆず茶を飲んで、あの人みたいに素敵な暮らしができるように頑張ろう。
さっそくお茶の用意をすると、引っ越し作業を続けている夫を呼び、ふたりで『一戸建てゆず茶』を楽しんだ。
次の日の朝、私は目を覚ました瞬間からなぜだか異様にイライラしていた。
新しい家での最初の夜だったから、緊張してよく眠れなかったのかもしれない。
そう思って真新しいキッチンで朝食の準備にとりかかったが、やっぱり何かがおかしい。
イライラは消えないどころか強くなる一方だ。
挙句の果てに、
「おはよう。新しいベッド、なかなか寝心地が良いね。君が選んだだけあるよ」
そう言って起きてきた夫に
「遅い! 私にばかり食事の支度させないでよ!」
と怒鳴ってしまったとき、「これはおかしい」と確信した。
夫には何度も謝ってから仕事に送り出し、なんとか事なきを得た。
しかし、イライラはまだ消えない。
なんだろう。何かの病気なのだろうか。
とりあえずスマホで検索してみようとしたら、実家の母から電話がかかってきた。
「どう? 引っ越しの片づけは順調?」
「うん、そっちはいいんだけど……」
私が今朝の出来事を話すと、母は呆れた様子で言った。
「あんたまさか、よく知らない人の『一戸建てゆず茶』とかもらったりしてないでしょうね」
「え?」
私は思わずキッチンの片隅に置いたあの瓶に目をやった。
「『一戸建てゆず茶』とこのイライラが関係あるの?」
「この前も言ったでしょう、あれは家の様子を知っている、信頼できる人からもらうのが筋だって。それにはちゃんと理由があって、不和がある家の庭からやって来たゆず茶は不和をもたらすからなのよ。つまり、家庭円満のための薬じゃなくて、毒になっちゃうの」
「毒……?」
「そう。だから、家庭の事情をよく知らない人からはもらわないし、贈らない。昔からのしきたりって、めちゃくちゃなように見えてけっこうちゃんと考えられてるのよ」
考えてみれば、私が知っているのはあの人がSNSに投稿していることだけだ。
それで知ったつもりになっていたけれど、あの写真に写っていないこと、文章に書かれていないことがあるのは当たり前だ。
私がSNSに投稿する時だって、皆に伝えたくないことは伝えないようにしている。
いったい、あの素敵な暮らしは、何を排除した結果のものなんだろう。
そう思うと、背筋が寒くなった。
「……そこまでよく考えてなかった」
「もう。親の話はちゃんと聞いておきなさいよ。そうだ、昨日、満恵姉ちゃんがあんたのために『一戸建てゆず茶』をこしらえたって連絡が来たわ。今手元にあるのはやめて、そっちを飲むようにしなさい」
「満恵おばちゃんが私のために? 本当?」
満恵おばちゃんは母の義理の姉にあたる人だ。
家が近かったこともあり、子供の頃からよく遊びに行っていた。
「今日うちに持ってきてくれるっていうから、明日には届くようにするわ。満恵姉ちゃんの家は今年金婚式をするそうだし、あんたも子供の頃からよく知ってるでしょう? バッチリよ」
「わかった」
その時、玄関のインターホンが鳴った。
確認すると、造園業者の職人さんだ。
「頼んでおいたゆずの苗木が届いたみたい。植え付けに立ち会ってくるね」
「ええ。――あんたも心して育てなさい。あんたが誇れる”ゆずの木”をね」
母はそう言うと電話を切った。
そうだ。
ゆずの木はあまり世話をしなくても育つけれど、手をかければたくさんの実りがある。
そこからできる『一戸建てゆず茶』も含めて、その家庭そのものだ。
いつか、自分だけの実りを手にできるように、私も心を込めて育てていこう。
そう心に決めて、私は庭へ出たのだった。
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