【小説】さよなら、ロザリアン(3)
「マダム」。
この街でそう言ったら、ひとりの女性のことを指す。
彼女がそう呼ばれるのには、二つの理由があった。
一つは、彼女が自宅で何年もの間開いていた子供向けの英語教室『ロージーキッズイングリッシュ』だ。
彼女はそこで生徒に「私のことは先生じゃなくて、マダムと呼んで」と何度となく言っていた。だから、生徒からその親へ、それから友達へと「マダム」の呼び名が浸透していった。
もう一つの理由は、彼女の庭にあった。
バラを愛する彼女が作り上げた自宅の庭は、園芸を愛する人々の憧れだ。いつしか、そんな人々が彼女を「マダム・ロザリアン」と呼ぶようになった。彼女こそがロザリアン、すなわちバラを愛し、育てる者の模範だという尊敬の念を込めた呼び名だ。
それが翔に声をかけた女性で、この家の主。マダムこと野沢英理衣だった。
「ちょっと見ない間にすっかり大人になったわね! 今は学生?」
「はい」
ここの生徒だったのはもう十年近く前で、しかも週に一回通っていただけだ。なのに、自分のことを覚えていたなんて。翔はそのことに驚いていた。
「良かったらバラを見ていく? 庭の公開は明後日からだけど、懐かしいお客様には特別ね」
マダムはそう言うと、翔の返答を待たずに肩にかけた赤いレザーのポシェットから何かを探し始めた。たぶん、門の鍵を探しているのだろう。
変わらないな、マダムは。翔はその様子を見てそう思った。
その容姿や自分への接し方もそうだが、このせっかちというか、少し強引なところも。
バラを見ることにイエスともノーとも言っていないが、まあ少し庭を見ていくくらいならいいだろう。母から頼まれたものをスーパーに買いに行くのはそれからだって遅くない。
マダムは鍵を探すのに難儀しているようだった。両手に持った買い物袋が重いのか、手が少し震えている。
「あ、持ちます」
翔は慌ててマダムの手から買い物袋を引き取った。かなりの重さだ。中には何かのボトルが何本も入っていた。
「ありがとう」
マダムは優雅に首をかしげて見せると、程なくして見つかった鍵で門を開けた。
門の先に一歩踏み出して、翔は思わず息を呑んだ。
バラのアーチをくぐった先に広がる景色は、記憶の中よりもさらに美しかった。
トーチのように咲き誇る純白のバラ、その根本にはブーケのリボンのように彩りを添える薄紫やピンクの花々、そして芝生のように地面を覆う苔のような小さな草。
そうした何種類もの植物が彩るレンガのアプローチの先には、クリーム色の壁にコバルトブルーの屋根の立派な洋館が構えている。
さながら、海外の貴族が郊外に持っている別荘のようだった。
主が帰ってきたことを喜ぶかのように花々が風に揺れる中を、マダムはピンと背筋を伸ばして歩いていく。
重たい買い物袋を二つ持って、翔はその後を従者のように付いていった。
玄関まで歩いてくると、マダムは買い物袋を玄関の前に置くように言った。
「運んでくれてありがとう。中身はバラのための薬だから、そこに置いたままで平気よ。さあ、庭に行きましょう」
「はい」
マダムはそう言うが早いか、玄関から分かれて伸びたレンガの道を歩き始めている。翔は買い物袋を置くとその後に続いた。
マダムが進んでいったのは、玄関までのアプローチとはまた違ったバラが彩る道だった。
金属製のフェンスにつる状のバラが這わせてあり、いくつもの花が手毬のようにまとまってあちこちに咲いている。ひとつのまとまりの中にはサーモンピンクや薄いピンク、白の花があって、何種類かのバラを集めて束ねたように見えた。
これはどうやっているんだろう。翔はそんなことを考えながらバラを見つめた。母は職業柄花に詳しいが、自分は花に関してはさっぱりだ。
何種類かのバラを同じ位置に咲かせるのは難しそうだ。それに、よく見ると花の形は同じだから、おそらくここに咲いているのは一種類だろう。それだと、同じ株から違う色の花が咲いていることになるけれど、そんなことってあるのだろうか。
バラを不思議そうに見つめる翔に気がついたマダムが、足を止めて手のひらに花の手毬をひとつ載せた。
「これ、おもしろいでしょう? レイチェル・ボウズ・ライアンっていう品種なんだけれど、はじめはこのアプリコットみたいな色が、だんだんと桜みたいなピンクに変わっていくの」
「これ、やっぱり一種類なんですね。はじめは何種類かが混ざっているのかなとも思ったんですけど」
「グッド。よく観察しているわね。バラって、本当におもしろいのよ」
マダムが嬉しそうな顔を見せる。
「グッド。よくできたわね」。そう言って子供の頃に何度も自分を褒めてくれたマダムの顔が重なって、翔もつられて笑顔になった。
バラのフェンスの道は十メートルほど続いていた。その先は九十度の曲がり角になっている。曲がり角の先は、見えないようにフェンスで巧みに隠してあった。
そこまで歩いてくると、マダムは翔を振り返った。
「さあ、マダムのガーデンへようこそ」
促されるまま角を曲がった先にあったのは、見事なバラの庭だった。
中央に植えられた大きな木から放射状にレンガ敷きの道が伸び、それに沿って色とりどりのバラが咲き乱れている。その足元や背後を草花がときに控えめに、ときにバラよりも主張して彩っていた。
何よりも驚いたのは、庭の植物が調和して、自然の風景を作っていることだ。ここにある植物はすべてマダムによって植えられたもののはずなのに、公園や植物園のような人工的な感じがしなかった。
「すごい」
しばらく庭を見渡した後、翔が口にできたのはそんな月並みな言葉だった。
花のことはわからないが、この庭が本当に素晴らしいということははっきりとわかる。なのに、これだけの風景を称賛する言葉を持ち合わせていないことが悔やまれた。
「だいぶ時間がかかってしまったけれど、今が完成形。そして一番美しい時。翔くんがここに来てた頃は、まだこの半分くらいしかバラがなかったものね。皆、レッスンが終わってからここで走り回って。かわいかったな」
目を細めて庭を見つめながら、マダムが言った。
「今は学生なのよね。大学?」
「はい。けど、休学中で」
翔はそこで口をつぐんだ。
しまった。こんなことを話すつもりはなかったのに。
昔から全く変わっていないマダムのペースに引き込まれたのか、あのピエール・ド・ロンサールのアーチをくぐったあたりから、自分がここに通っていた子供の頃に戻っているような気がする。なにも心配せず、思ったことを思ったように言える子供に。
休学の理由をどう取り繕ったものかと考えを巡らせる翔に、マダムはさらりとこう返してきた。
「あら、そうなの。なにかやりたいことがあるのね」
「いえ、あの、そういうのは……まだ」
てっきり、さっきの勇斗みたいに驚くか、どうして休学したのかを根掘り葉掘り聞かれると思っていた。こんなにもあっさりと受け止められてしまったことに翔は戸惑って、マダムから視線をそらした。
「ねえ、予定が決まっていないのなら、明後日から三日間、オープンガーデンを手伝ってくれないかしら」
「はい……え?」
翔は慌てて聞き返した。そらしたばかりの視線を、音がしそうな勢いでマダムに戻す。
ガーデンを、手伝う?
休学について予想外の反応をされたことに戸惑っていて聞き流しそうになったが、それを上回る予想外の言葉だった。
「英語教室を辞めてから、バラの時期には庭を公開してるの。そうしたら、いつの間にかネットで紹介されちゃったらしくて、一昨年くらいからお客様が倍になってしまって。一人で対応するのが大変で困っていたところなの」
そりゃあ、人も集まるだろうな。翔は話を聞きながらそう思った。
写真に動画。世の中はSNSに投稿するネタに飢えている。これだけ素晴らしい庭が期間限定で見られるとなれば、園芸好きじゃなくても、遠くからでも、来る人はたくさんいるだろう。
マダムの話はさらに続いた。
「たまにはきれいな花を眺めるのもいいわよ。私なんかバラに話しかけちゃう。もちろん花はなにも喋ってくれないけれど、おかげで自分がなにを考えているのか、なにを考えたいのか、よーくわかるの」
「なにを考えているのか、なにを考えたいのか」、その言葉が翔の心に引っかかった。
それは、打ち込めるはずのものがうまく行かなかった自分が知らなければいけないことではないか。
翔の現状は知らないはずのマダムに、それをぴたりと言い当てられてしまったように思えた。
「ああ、バイトとして、ちゃんとお給料は支払うわ。どうかしら」
「やります」
翔は気づけばそう返事をしていた。
これはやらなければならない。なぜかそんな気持ちが芽生えていた。
こうして、翔の三日間だけのアルバイトが決まった。
バラの香りをさわやかな風が運ぶ、五月半ばのことだった。
「いいじゃない」
翔がマダムの庭でアルバイトをすることを夕食の席で話すと、山盛りの唐揚げ越しに母は嬉しそうに言った。
荻野家の唐揚げが毎回大量になるのはいつものことだ。父の大好物を、母はいつもやり過ぎなくらい張り切って作る。
「マダムのガーデンは有名だもの。私もお稽古がなかったらお邪魔したかったなあ」
「やっぱり有名なんだ」
翔は山から探し当てた比較的小さめの唐揚げを取りながら言った。
マダムの言うことは本当だったらしい。帰ってきてから自分でも少し検索してみたが、地域のおすすめイベントとして写真や動画を載せている投稿がいくつも上がっていた。
「去年見に行ったけれど、本当に、本当に素晴らしかったもの。正統派のイングリッシュガーデンではあるんだけど、バラと宿根草の調和が完璧なの。まるで自然の景色を見てるようだった。あんな庭、有料のガーデンでもそうないわ。それに……」
早口で母がまくしたてる。花のことになるといつもこうだ。周りが見えなくなって、自分の気が済むまで語り尽くさないと止まらない。
翔が助けを求めて父に視線をやると、父は唐揚げを食べる手を止めて、
「勉強だけしているよりも、得るものがあるかもしれないな」
と言った。
「言っただろう。態勢を立て直して、やりたいことを見つけてほしいって。行き詰まったのなら、やり方を変えてみることも大事だ。そろそろ、そういうことを考えられるようになっておいたほうがいい」
翔を見据えてゆっくりとそう付け加えると、父は再び唐揚げの山に箸を伸ばした。
あっという間に小さくなっていく唐揚げの山を見ながら、翔は夕食を終えた。
「やり方を変える、か」
寝る前、ベッドの中で翔は父の言葉を思い出した。
「そろそろ、そういうことを考えられるようになったほうがいい」、それは高校時代の、そして今の自分では限界があると言われたように思えた。
勉強が思うように進んでいないことは両親に話してはいなかった。だが、おそらく察しているのだろう。休学しても行き詰まってしまった、自分の現状を。
勉強以外のことに目を向けることで、現状をどうにかするヒントが見つかるかもしれない。
そうあってほしい。打ち込めるはずのものに、もう一度打ち込めるようになればいい。
翔はそう願いながら眠りについた。
二日後、翔は朝の七時半からマダムのガーデンにいた。
仕事の説明を受けてから、オープンガーデンの準備の手伝いにあちこち動き回っていると、あっという間にオープンの午前九時を迎えた。
ガーデンから入口の門に行くと、すでに十人以上がその前に並んでいる。
「さあ、始まるわよ。これから三日間、よろしくね」
マダムは翔にそう言うと、胸を張ってバラのアーチの下に立った。
「皆様、マダム・ロザリアンのガーデンへようこそ。今年もバラを愛する皆様と私の庭を共有できることを嬉しく思っています。ぜひ、ゆっくりと楽しんでください」
舞台俳優のようによく通る声だった。実際、門の前にいた人々からは小さな拍手が起こったほどだ。
そして、その拍手に応えて会釈をしてから胸の近くで手を振るマダムの姿は優雅で、気品を感じる。子供の頃に「呼んでくれ」と言われたから呼んでいたけれど、「マダム」の名前は本当にこの人にふさわしい。翔はマダムの姿を見ながらそう思った。
「マダム! 今年も楽しみにしていました」
「エントランスのピエール・ド・ロンサールからしてもう素晴らしい。さすがマダム・ロザリアンですね」
「今日は母と始発で東京から来ました。ずっとこの庭に来るのが夢だったんです。この目で見ることができて本当に嬉しいです!」
門が開くと、人々は口々にマダムへ挨拶しながらガーデンへと進んでいく。マダムはそれに笑顔で応えていた。その姿は貴族の婦人と、謁見にやって来た人々のようだった。
「マップ、いただけます?」
マダムの姿に見入っていた翔に、来場者の女性が声をかけてきた。
「あ、はい。どうぞ。お持ちください」
翔はその声で我に返り、慌てて小脇に抱えていたクッキーの空き缶から折りたたまれた紙を一部取り出すと、女性に渡した。
来場者には、マダム手作りのマップを渡すことになっている。それは翔が頼まれた仕事の一つだ。
マップにはガーデンに植えられたバラをはじめとした植物の名前が、樹木や小さな草花にいたるまですべて丁寧に手書きで記してあった。
「ありがとう」
女性がマップを手に去っていくと、他の来場者もここでマップがもらえるとわかったのか、翔の周りに集まってきた。あっという間にできた人だかりの中、慌ただしくマップを配っていく。
ガーデンの手伝いというから、ただ座って来場者を見ているくらいでいいのだろうと思っていたが、これは大変かもしれない。
ものの数分で預かっていた分のマップを配り終え、翔はそんなことを考えながらマダムにマップの補充分をもらいに行った。
翔がガーデンに入っていくと、中にはすでにたくさんの人がいた。皆、思い思いの場所に行って花を楽しんでいるようだった。
マダムを探すと、ガーデンの中央に植えられたオリーブの木のそばで来場者と話していた。
「マダム、もらっていたマップがなくなってしまったんですけど」
来場者との会話が途切れるのを見計らって、翔はマダムに声をかけた。
「あら、もう? 取ってくるわ。それまでガーデンの中を見ててもらえる?」
「わかりました」
マダムにも予想外だったのか、驚いた顔でそう言うと小走りにガーデンから出ていく。
翔はその背中を見送った後、再びガーデンの中に目を向けた。
ガーデンの中では、暑いくらいの日差しの中で皆自分なりのやり方でバラを楽しんでいた。
写真を撮る人、スケッチをする人、マップ片手にオリエンテーリングのようにせわしなく歩き回っている人。かと思えば、オリーブの木の下に置かれたベンチに腰掛け、絵画を鑑賞するようにじっくりとガーデンを眺めている人もいる。
皆がいろいろなやり方で同じ景色を楽しんでいる光景は、見ていて心が和んだ。
今のところ、止めに入ったりする必要はなさそうだ。翔は目の前に広がるのどかな光景に安堵した。
今朝、マダムから言われたのは『プライベートな場所を守ってほしい』ということだった。
もし、来場者がガーデン以外の場所へ行こうとしたり、植物に必要以上に触れようとしたら、それとなく止めてほしい。それがマダムの依頼だ。
だから、マダムの自宅とガーデンとの境目で来場者を誘導するのが翔の主な仕事だ。
他にもマップ配りやガーデン整備の手伝いといった仕事もいくつかあるが、それはマダムいわく「おまけ」だった。
しばらくすると、マダムが戻ってきた。数人の来場者を引き連れているから、さっきまでの翔と同じ状態だったのかもしれない。
「お待たせ。マップが入った段ボール箱を玄関の前に置いておいたから、これからはそこから補充してくれるかしら」
「はい」
「ありがとう。それじゃあガーデンは私が見るわね」
その言葉にうなずいて、自分の定位置に戻ろうとした翔だったが、ふと気になったことをマダムに尋ねた。
「マダムはこんなにたくさんの人をいつも一人で相手していたんですか?」
それを聞くと、マダムは目を閉じて首を左右に振った。
「いいえ。今年は去年の倍以上よ」
「そうなんですか」
「始まる前から門の前で人が並んでいるなんて初めて。門を開ける時には通常通りです、みたいな顔で挨拶したけれど、心の中ではもう本当に……『オー!』って感じよ」
マダムが両手を頬に当て、驚いた表情をしておどけてみせた。
貴族のように気品にあふれた挨拶をしていた人が、内心ではそんなことを考えていたなんて。そう考えるとなんだかおかしくて翔は笑った。
それを見たマダムが、言葉を続けた。
「やっぱり翔くんに手伝いをお願いしてよかったわ。それじゃあ、お見えになる方が落ち着くまで、もう少し入口にいてくれるかしら」
「はい」
「ある程度落ち着いてきたら、ガーデンの中にいてもいいからね」
ガーデンから出ていこうとする翔を追いかけるようにマダムが声をかけてきた。それに振り返って頷くと、翔はマップを取りにマダムの自宅へ向かったのだった。
その後も、ガーデンを開放している午後四時ぎりぎりまで、来場者はひっきりなしに訪れた。その応対に追われて、翔は結局ガーデンへほとんど行くことなく一日を終えた。
「お疲れ様。終わったわね」
来場者を見送り、雑草抜きやら水やりといったガーデンの整備を終えると、マダムはそう言って安堵のため息をついた。
「マダムこそお疲れ様です」
「さすがに少し疲れたわ。けれど、皆楽しそうにしてくれてよかった」
「そうですね」
翔も一緒に雑草が入った手箕を持ってガーデンを出る。雑草を家の裏のコンポストに入れて玄関の前に戻ってくると、マダムが思い出したように言った。
「そうだ、翔くんにもう一つ仕事をお願いしてもいいかしら」
「なんですか?」
翔の言葉には答えず、マダムは玄関の前からガーデンとの分かれ道まで歩いていく。そして、家に通じる道を塞ぐように置かれた大きな植木鉢を指さした。
その植木鉢は、今朝マダムと家の裏から持ってきたものだった。高さが一メートル以上あるバラが植えられていて、いくつもの大きな薄紫色の花からは紅茶を思わせる上品な香りが漂っている。
この場所で椅子に座り、来場者の案内をしていた翔にとっては、今日の大部分を一緒に過ごした相棒のようなバラだった。
「このバラの世話をしてほしいのよ」
「えっ、バラのですか」
マダムの言葉に翔は思わず弱気な声を上げてしまった。
花のことはよくわからないし、もしも自分が下手なことをしてマダムが丹精して育てたバラを台無しにしてしまったら申し訳ない。そう思ったからだ。
「大丈夫。鉢植えだし、水やりも土が乾いている時だけでいいから。やってみて」
マダムは性の心を見透かしたかのようにそう言った。そして、小走りで玄関脇に行くと、水の入ったジョウロを持ってきて翔に渡す。
「葉に水がかからないように、そっと。根本にね」
その言葉に従って、翔は恐る恐るジョウロをバラの根本に傾けた。
乾いていた土がみるみる湿っていき、鉢の底から水が出たところでちょうどジョウロが空になった。
「そうそう。グッド。あとは、葉や茎をよく見て、なにか異常があったら教えてちょうだい。虫や病気だったら薬を使うから」
「はい」
翔はすっかり軽くなったジョウロを手に、緊張をほぐそうと肩を大きく上げ下げした。
難しくはなかったが、神経を使う作業だった。
観察して、適切なことをして、異常があれば薬で対処する。まるで医者みたいだな。もう一度肩を上げ下げする間に、翔はそんなことを考えていた。
「これで、見習いロザリアンの誕生ね」
翔からジョウロを受け取って、マダムが感激したようにそう言った。
「いや、ロザリアンなんてそんな」
おこがましいです、と翔が言おうとする前にマダムが語を続けた。
「あら、若いうちはいろいろやったほうがいいのよ。私もだいぶめちゃくちゃだったもの。イギリスまでガーデンづくりの勉強をしにいったのに、なぜか魔術を勉強したり」
「は?」
いきなり出てきた話に、翔は目を丸くした。
イギリスにバラの勉強をしに行ったという話は、英語教室で聞いた記憶がある。だが、魔術を勉強したなんて聞いたことは絶対にない。第一、魔術なんてマンガや小説の中にしかないものだ。それを勉強したというのはどういうことなんだろう。
『魔術』の二文字で話が把握できなくなって混乱している翔に、マダムは真剣な眼差しで言った。
「寄り道だって立派な財産。きっと何かの役に立つわ」
「待ってくださいマダム。今、魔術って。え?」
「また明日、今日と同じ時間にお願いね。おやすみ」
話を整理させてほしくて追いすがる翔にくるりと背を向けると、マダムは手を振りながら洋館の中へ消えていった。