【長編小説】ダウングレード #32
「安慶名くん、よくここが分かったね」
「店長に聞きました」
「君も何か飲む?」
菅原は手で座るように促すとテーブルの壁に立てかけてあるメニューを手に取った。
耀は菅原の向かいの席に腰掛けた。
「じゃあアルコールじゃないものを」
「君も中村と同じで水にこだわるんだろう? この店の水は変なくせがついていないらしいよ。中村が役所を辞める前は二人でよくここで飲んだ。水割の水や酒そのものも保管方法が悪いと味に影響するらしいね。水道水をそのまま使うなどありえないと中村はよく文句を言っていたよ」
メニューから選ぶのを迷っていた耀に菅原が提案した。
「甘いのは飲まないなら炭酸水にライムを絞ってもらうのもおいしいよ」
「じゃあ、それを」
菅原は近づいてきたバーテンに注文した。
「奥原さんは落ち着いた?」
「今は寝てます。少しの間なら目を覚ましそうじゃなかったので……」
「今日のことは溝口くんが電話で知らせてくれた。通報される前に中村と西川くんが間に合って良かった」
耀は気が重くなった。タオルを抱えた男はあのビルの中で営業する美容室の美容師で、泣き顔の和佳がただ黙っているのを不審に思いスマホで通報しようとした。店長が来て執り成してくれたのでどうにか事なきを得た。和佳を連れて一旦喫茶オレンジに戻った時、かなえもそこにいて和佳の様子を気遣っていた。かなえはどんな風に菅原に話したのだろう。
「警察が来ていたら俺はストーカー確定だったでしょうね」
「そうとは言えないけど色々面倒だったのは確かだろうね」
「……奥原さんをうちに連れて行くことに、かなえさんは反対のようでした」
「溝口くんはね、自分の直感や本心と常識的な正解が一致しない時に無意識に補聴器のスイッチを切るくせがあってね。今日電話がかかってきた時もその状態だった。いや、もしかしたら彼女はそのフリをしているだけなのかな。とにかくものすごい大声でまくし立てて話して私の言葉は一切聞かない。四十分間私はただ聞くだけだったよ」
耀は意味が分からず続きを待った。
「つまり、溝口くんも奥原さんを安慶名くんに預けた方が良いと考えたってこと。シェルターの外泊許可も彼女が手配してくれてるはずだ」
意外だった。かなえがそんな風に考えているとは思いもしなかった。
「それで、ここにわざわざ来るってことは急ぎなんだろ? 奥原さんを置いてまで来るってことは」
「すみません」
「構わないよ」
言葉は穏やかだが菅原の表情は色がない。
「家に帰る前に気持ちを整える必要があってね。だいたいいつもこの店に寄ってから帰る。もうルーティーンなんだ。話があるならいつ来てもらっても構わない」
耀は運ばれてきたロンググラスの炭酸水をしばらく見つめた。
「昨日まではお願いしようと思っていたことがありました。俺がやったことは実際に被害を出しているので、やっぱり責任を負うべきだと思います。でも永続的ダウングレードだけは回避したかったんです。ダウングレードの間俺は自分のことしか見えていなくて、不平不満ばかり抱えてた。そんな状態じゃ誰かを支えるのは無理だと思ってました。でも今日、少し考えが変わりました」
菅原が視線で続きを促した。
「どんな処分でも受けます」
「どんな処分でも?」
「親を安心させるために公務員になりましたが、今の仕事は気に入っています。できれば続けたい。でも他の仕事に移ることになっても、移った場所できっと何かできるという気持ちになりました。例え永続的にダウングレードすることになっても、もちろんしないで済めばその方が嬉しいですが、覚醒しているかどうかは重要じゃないのかもしれません。処分は受けます。ただ、奥原さんと一緒に居られればそれでいいです。それだけは許可して頂きたいです。それだけ、お伝えしたくて」
菅原は耀の目を見据えた。何かを考えているように見える。
「最後の希望は、……と言うより宣言、かな。奥原さん次第だから私が決められることじゃない」
耀は体温がすっと下がった気がした。明日和佳が目覚めて、もう一度自分の気持を伝えるつもりだ。だが和佳が受け入れてくれる保証はどこにもない。
「君の処遇はもう決まってる」
耀は両手の指先が冷たく感じた。どんな処分でも受けると言ったが、やはり不安で心が揺れる。
「処分は、ない」
「ない、と言うと?」
「だから、何もなし、だよ」
「それは……、どういう……」
「処分も、異動も、なし、だ。それから、そもそもダウングレードは一時的な研修だ。永続的なんて無理だよ。せいぜい三ヶ月で元に戻る」
「処分なし?」
「そう。今まで通りだ。ただし君がした事は他言しないように」
「……どういうことなんですか? だって会議があるって」
「誰から聞いた情報なのかな?」
耀は黙り込んだ。
「会議はしていない。今回のことを知っているのは私に連絡してきた溝口くんと西川くん、中村、私と安慶名くんだけだ。他言しないよう脅しはかけた」
「……脅しって……」
「将来君のような能力を持つ人間が普通にいることが認識されるようになった時、遡って責任追求される可能性はある。その時は諦めて処分を受けるしかない。その時責任追及をされるのは君と私の二人だけにしたい。だから安慶名くんもそのつもりで」
「それって……。菅原部長が損をしませんか? 巻き込まれただけなのに」
「上長ってのはそういうものだよ。それに握りつぶしたのは今回だけじゃないしね」
店長の起こした事件のことを言っているのだろうか。
「実際今の状態であの被害が君のせいだと主張したって誰も信じやしない。市長やG2のメンバーに意見を聞いたら巻き込むことになる。だから当事者を最少人数にするには、これが一番だと思う」
「お咎めなしで……本当にいいんでしょうか」
「これで良かったと言えるかどうかは今は分からない。これをどう捉えて過ごすかは安慶名くん次第だよ」
耀はほっとするべきなのかよく分からずにいた。菅原は自分のグラスを呷ると、バーテンにグラスを掲げて見せた。次が運ばれて来るまで耀も菅原も黙ったままだった。
「正直に言うと、安慶名くんを中村に預けたのは考える時間が欲しかったんだ。私もどうするのが正解なのか、できれば間違いたくなかったからね。君の処遇如何だけでなく、君の行動を止めて君の命を危険にさらした私自身の罪を考えると、私が君の処遇を決めること自体間違っているんじゃないかとも思う」
「あれは、俺が人を殺さないように止めてくれたんでしょう?」
「そうだね。とっさにね。危うく君の方を殺すところだった」
菅原はテーブルの上に置いた右手の人差し指でテーブルをトントンと軽く叩いた。
「実のところ、あれを止めて良かったのか、分からなくてね」
「どういう意味ですか?」
菅原はしばらく黙り、ゆっくり話し始めた。
「安慶名くんがあの時奥原さんを守るためにしようとしたことは、真っ当なことだと、私には思えるんだよ」
耀は「真っ当」ということばを頭の中で眺めた。
「大事な人を傷つける原因を排除するのは、ごく当然のリスク対策だ。その排除の方法でどれを選ぶかは結局本人の選択だと思う」
耀は西川の言葉を思い出していた。
「つまり、俺自身の選択なのであれば、相手を殺すことも正しいってことですか?」
「人はみな自由だ。何でも選べる。たとえば、自分の欲望のために人を傷つけるような奴も、その存在自体は自由だ。法的に裁かれたとしてもね。そして被害者側が、加害者は被害者の恐怖を少しくらいは味わうべきだと思うのも自由だ。被害者やその家族が復讐したいと思うのも真っ当だし、それで加害者の次の加害行為を止めることもできるかもしれない。何が正しいかは、結局当の自分が決めるしかない」
「でも俺は、止めてもらって良かったと思っています。あの二人は奥原さんを連れていくと言ってた。目的の場所に連れて行くだけの役割だったのかもしれない。それだけで死に値するかと言われると俺にはよく分かりません」
菅原はわずかに首を傾けた。
「死に値しないと言えるのかな。見殺しにしようとしたのに?」
「……よくわかりません。でも死んで当然とは思えない。きっとあの二人を傷つけていたら、後悔したと思います」
「……それなら、私も止めてよかったよ」
菅原はグラスを軽く揺らして氷を回した。
「菅原部長はそんな風に思ったことがあるんですか? つまり、人を殺したいと……」
「あるよ。毎日ね」
菅原の声は平坦で色がなかった。
耀の頭の中でまた西川の言葉が蘇った。
「妻に暴行を働いた男が刑期を終えてもうすぐ出てくる」
「……その男が出てきたらどうするんですか?」
菅原は大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「それを、毎日考えてる」
耀は和佳を抱き締めた時の感覚を思い出した。人は足元の根源で繋がっている。ポジティブな意味でも、恐らくはネガティブな意味でも。
「菅原部長が俺を止めてくれたことは、間違ってないと思います。その感覚は、間違ってないと俺は思います」
菅原はテーブルの表面を見て、耀の言葉を考えているようだった。
「安慶名くんといると身体の調子がいいって西川くんが言ってたけど、今はよく分かるよ。ダウングレードが終わった頃から、君自身のしばりが解けたせいか、君から発せられる波動が強くなったような気がする。私も理性を保つのが危うくなったら君のそばにいるようにしようかな」
耀は何と答えてよいか分からずまばたきした。もしかしたら今日のように体内の水分を「共鳴」させるやり方で、自分は相手の状態を緩和することができるかもしれない。
「奥原さんを支えたいらしいけど人の関係は相互的なものだよ。お互いがお互いのそばにいるだけでも十分支えになる。きっと君の方が支えられることもある」
菅原は腕時計に目をやった。
「あまり遅くならない方がいいね。どうせその辺に西川くんがいるだろうから、車で送ってもらうといい」
「……ずっと気になってたんですけど、その経費って……」
「市長勅命の調査経費。気になるなら復帰してから仕事に励んで。本格的に覚醒したわけだし、今後はもっと直接的に任務に就いてもらうことになる」
「この力を使って仕事をするってことですか?」
菅原は一瞬宙を見るようにして答えた。
「覚醒して得た能力を使うとは限らない。ただ覚醒してるってことは山歩きする時地図を持っているようなものだよ。持ってない人より全体が読めて有利だ。その有利な部分を活かして山歩きの道を整備するようなものかもしれない。そもそも公務員の仕事は市民生活のインフラ整備だから、覚醒しているかどうかに関わらずやっていることは同じだ」
「西川さんがやってるような任務もですか?」
「あれはちょっと特殊だけどね。市民サービスをより良くするには手法が要る。手順を踏んで時間がかかるものをなるべく最短で実現できるように下調べや根回しをする。心配しなくてもやりたくない事を無理強いはしない。最終的には自分の判断で任を引き受けるんだから」
仕組みの中で人を支える。自分にもできることがあるかもしれない。少なくとも人と関わっていくことをもう拒否しない。
「それと研修のレポート、提出が必要だから。色々あって督促できなかったけど来週末までが期限だ」
「分かりました」
耀は立ち上がると菅原に深く頭を下げて店を出た。
十メートルも歩かないうちに西川の運転する車がするりと横に停まった。
「送っていくようにって菅原さんが」
耀は助手席に乗り込んだ。
「あの屋上に最初からいたんでしょう?」
西川は無表情に耀をちらりと見た。
「店長を呼んだのは西川さんですよね? 何で店長が来るまで出てこなかったんですか?」
「あのタオル持った男も通報するか迷ってたみたいだったし、ああいう場は中村さんの方がうまく納められると思って」
やっぱり全部見ていたのか。耀は顔が熱くなるのを感じたが平静を装った。
「家に着いたらもうどこにも行きませんから西川さんも休んで下さい。勝手ばかりしてすみませんでした」
「……いや、それは……」
西川はそのまま黙り込んだ。きっと菅原の命令が解除されない限りは、西川は監視を続けるのだろう。
「奥原さんがいるから、西川さんは家に泊められませんからね」
西川は犬だったらきっとクゥーンと耳を垂らしただろう様子で、それでも前を向いて運転を続けた。