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【短編小説】イロリ

■スクリーン1:

 情けない自分。無価値の自分。

「じゃあ、何かあったらすぐ看護師さんに言うのよ」
「分かってる」
「じゃあ、また来るから」
「忙しいのにごめんなさい」
「変な気を使わないの」
 麻紀おばさんはちょっとだけ怒ったように唇を結ぶ。
「ごめんなさい」
「あかりは何も心配しなくていいのよ。今は体を治すことだけ考えてればいいの」
「はい」
 あかりは笑いながら手を振って麻紀おばさんを見送り、その姿が見えなくなってからふぅとため息をついた。

 四人部屋の病室は白いカーテンで仕切られている。窓が見えるベッドはすでに埋まっていたので、あかりが割り当てられたのは通路側だ。外は見えない。見えるのはカーテンと天井だけ。

 強い倦怠感と眠気。足先や指先のわずかな痺れ。授業を受けるのが辛くて担任教師から家に連絡が入り、病院で診察を受けると検査入院をすることになった。結果はまだ出ていないがあかりは自分の症状を何日もかけてネットで調べてみた。いくつもいくつもヒットする病名に不安が増す。難病リストの中にも似た症状をいくつも見つけた。精神的な原因かもしれないからと心療内科の予約も入っているが、もしずっと治療が必要な病気だったらどうしよう。

 両親が交通事故で亡くなった後、母の姪である麻紀おばさん夫婦に引き取られた。書類上の養子縁組みはされていないが、おばさん夫婦はあかりのために本格的に家を改装してくれた。子供のいないおばさん夫婦の家は忙しい二人の生活を反映して居間と寝室以外は物置のようになっていたのだが、二階の一室をあかりのためにリフォームしたのだ。高校だって私立で授業料は公立よりずっと高い。せっかく慣れているからとそのまま通うように言ってくれた。それなのにあかりは体調不良が続き入院することになった。入院費や検査費用にいくらくらいかかるのだろう。あかりに関わってからおばさん夫婦の出費は跳ね上がったに違いない。麻紀おばさんはそんなことは子供は考えなくていいことだと言うけど、あかりは申し訳ないとしか思えない。

 前に母から聞いたことがある。麻紀おばさんは不妊治療を続けていたけれど成果が出ず養子をもらうことも考えている。保育士の麻紀おばさんは子供好きで警察官の孝信おじさんも子供を望んでいるから、養父母を探している赤ちゃんをもらい受けるかもしれないと。

 その話がどこまで具体的に進んでいたのかは分からない。けれどあかりが一緒に暮らすことになって、その上赤ちゃんを育てるのは経済的に難しいのではないか。自分が来たことで赤ちゃんをもらうことはできなくなったのではないか。あかりは麻紀おばさんとぎこちない雰囲気になる度につい思ってしまう。元の両親を覚えていない赤ちゃんや小さな子供なら時間をかけて本当の親子になれるだろうにと。

 麻紀おばさん夫婦の家はあかりの元の家とはまったく違う。

 あかりの父はシステムエンジニアで母はWEBやフリーペーパーの契約ライターだった。二人とも本を大量に読むので家の中のほとんどの壁には本棚が置かれ本で溢れかえっていた。

 一方、麻紀おばさんも孝信おじさんも本はあまり読まない。休みの日には外へ出かける。キャンプやバーベキュー、釣りに山登り。

 父の会社の社宅だった家から出る時に、大量の本はほとんど処分した。段ボール一つ分だけ抱えておばさんの家に持ってきた。もう少し持ってくれば良かった。必要な時に言えば買ってもらえるのだが、以前のように自分のこづかいの範囲内で好きに本を買うのと違い、言い出すのが憚られ新しい本はほとんど買っていない。

 検査はポツポツと虫食い状にスケジュールが入り時間がずれたり早まったりするので、常に待機状態だ。数冊の文庫本を持ってきたが何度も読んだ本を繰り返し読むのにも飽いて、あかりは仕方なく病室の天井を見つめる。

 今ここにいる自分が誰の役にも立たず(むしろ迷惑ばかりをかけて)、無駄な時間と無駄な金と手間を浪費していると思う。自分がいなければその時間と金と手間は別の人、もっと有用な別の誰かに対して使われるのに。

 あかりは天井を見つめ続ける。

「満島あかりさん、検温でぇす」

 沖田とネームプレートをつけた看護師が体温計を差し出した。あかりは受け取って脇に挟み込む。看護師は同室の患者たちにも体温計を渡して回る。ピピピと体温計のアラーム音が鳴ると沖田が次々に回収して体温を記録していく。部屋の患者全員と笑顔で簡単なやりとりをし、体温計を消毒液のコットンで拭きながら沖田があかりのそばに来た。

「あかりちゃん、今日天気がいいからバルコニーに出ると気持ちいいかもよ」
「そうですね。後で行ってみようかな」
「そうしなさいよ。少し動くと気分も晴れるわよ」
 沖田は色黒で美人ではないが、艶のいい肌と白衣の中にみっちりと収まった厚みのある身体がエネルギーに溢れている。
「私今日午後はいないから、バルコニーとかお庭に行く時はナースステーションに声かけてから行ってね。それと外は結構寒いから暖かくしてね」
「午後はお休みですか?」
「有給取ったの。明日長女の誕生日とピアノの発表会が重なって。今日の午後から明日の準備で大忙しよ」
「へえ、お子さんいくつですか?」
「長女は6歳、長男が3歳」
「二人もお子さんがいるんですね」
「そんな風に見えないくらい私って若いかしら?」
「あははは、そうです。見えない、見えない」
「あかりちゃん笑いながら言わないで。嘘っぽいから」
「明日楽しみですね。準備大変でしょうけどがんばって」
「ありがとう」
 沖田がニッと笑って病室を出ていく。
 職場で患者たちひとりひとりに声をかけ家では家事をこなし二人の子供の世話をしているのか。その生活は何と忙しいだろう。沖田は何と強い存在だろう。あかりはそれに引き換え、と考えた。情けない。

 あかりは病室の天井を見つめたが、ふと沖田の言葉が頭に蘇った。バルコニーからは遠くの海もわずかだが見える。することもないし行ってみるか。

 バルコニーにはテーブルと椅子が全部で6セット置かれていて、もうすぐ訪れる冬を予感させる柔らかい日差しが降り注いでいる。病院の待合室に流れているのと同じオルゴールの曲が静かに流れている。あかりはひとつだけ空いているテーブルに近づき椅子に腰掛けた。大きく息を吐く。ビルとビルの間から遠くの海が見えたが当然だが絵に描かれたように動かない。それよりも頭上の空の方が視線を釘付けにされた。ぽつぽつと小さな固まりの雲がずらりと並んでいる。何かを伝えてくるような圧力を感じる。これは何だろう。椅子の背にもたれて空を眺め続けた。目が乾いたのか疲れたのか、ふっと目を閉じた。

 周りの音がスッと消えた。

 目の前は闇だ。何も見えないのに果てしなく遠くまで空間があるのだけは分かる。砂漠なのか木々の茂る森なのかも分からない。けれど視線を落とすと自分の手元には灯りがある。火が焚かれている。炎は見えないが恐らくは炭火のようなものなのかぼんやりと明るく暖かい。

 ああ、囲炉裏か。映画やアニメの昔話で見たことがあるだけで本物は見たことがないが多分まちがいないだろう。自分は囲炉裏の前に座りじっと火の番をしている。息をする度に囲炉裏の火がわずかに赤くなったり暗くなったりする。自分の息に連動しているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。そのうち自分のイメージ通りに火が赤くなったり暗くなったりすることに気がついた。夢でも見ているのだろうか。

 誰かが来る、と直感した。十数メートル先の闇の中からゆっくり人の姿が現れた。足を引きずりズタズタになった布を巻き付けたような格好をしている。風から身を守る為なのかストールのようなものを首にぐるぐると巻き付けていて口元は見えない。ズズッ、ズズッと片足を引きずりながらゆっくりこちらに近づいてくる。怖くはない。むしろ心配で駆け寄りたい気持ちが湧いたが、それをすべきでないと思った。

 数メートル先まで近づいて来てようやくそれが少年だと分かった。いや、性別はよくは分からない。何となく男の子だと思っただけだ。ボロボロだ。身なりだけでなく彼の心もボロボロだと思った。寒そうに首をすくめている。早くここに座って暖を取れと手招きしてもこちらを見ない。ひどい。何とかしなくては。けれど自分も病人なのにいったい何ができるのだろうか。

 声を出そうとしたが出ない。こちらに気づくように手を振り回してみたが、そうすると火が暗くなる。あかりは意識の半分を火を安定させることに向け、残りの半分で少年に心で呼びかけた。こっちだ。ここだ。

 うつむいて進んでいた少年がふと目を上げた。その目と目があった途端、視界のすべては青空になった。雲がポツポツと並んでいる。オルゴールの曲が流れ、風がゆるく吹いている。あかりはしばらく空を見つめたまま動けなかった。

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■スクリーン2:

 落ち葉を踏むたびにシャクシャクと音が鳴る。散策のためのルートから逸れて道のない木立に入ってもう2時間ほどは経っている。部活にも入っていない れんは、こんなに歩いたのは初めてかもしれない。どこをどう辿ってきたのかすっかり分からなくなっていたが、戻るつもりもないので問題はない。

 斜面を上がる途中で上を見上げると木漏れ日が光っていて、 れんはその方向へ行けば最適な場所があると感じた。方角を斜め右上方へ修正して数歩進んだ時だった。足下がずるりと崩れバランスを失った上体が傾き、左肩とわき腹が斜面に着いた途端に回転し背中を引かれるように後方へ転げた。頭の中には木の幹にぶつかる恐怖があったが、遮る物もなくそのまま加速しながら転がる。何かに足がぶつかった衝撃の後、身体がふっと軽くなり直後に背中を打ち付けた。息ができない。何が起こったのかを理解するまで数十秒はかかったと思う。

 仰向けに倒れている。どうやら斜面を転がり小振りな崖から落ちたようだった。頭をわずかに動かして見ると、数メートル上に狼の上顎を下から覗いたような張り出した岩が見えた。息はできるようになったものの身体が動かせない。打ち付けられた衝撃で内蔵がバラバラになってしまったのではないか。おおげさではない。日常的に腹や背中に拳を受けている。もともと無数のヒビが入っている陶器の皿がちょっとした刺激で粉々になるように、自分の身体も砕けたのではないか。蓮はゆっくり右手を動かして胸元から腹にかけてさすった。服越しに肋骨の位置が分かる。身体の外形に変化はないようだ。左手をそろそろと腰へやり腰骨に触れた。打ち付けた背中の痛みが次第に引いたことを意識した途端、左足の痛みが強まった。意識を向けたのでそう感じたのかもしれない。肘をついて上半身をゆっくり起こそうとすると、身体の位置を変えるだけで左足の膝から下に激痛が走る。右足はかろうじて足首を曲げることができた。うめき声を出しながら身体を起こそうとしたが、左足の痛みが強まり全身から血の気が引き吐き気がこみ上げた。骨が折れたか、少なくともヒビは入っているかもしれない。蓮は起きあがるのを諦めて後頭部を地面に着けた。

 頭の位置を少しずつずらして周りに目をやる。狼の上顎の岩の左右も急な斜面ばかりで這い上がるのは難しそうだ。吐き気を抑えようとゆっくり大きな呼吸を繰り返した。

 空に目をやった。ぽつぽつと雲が並びその奥に深い青空が見える。蓮は苦笑した。「終わらせる」ために来たのに、怪我をしたら戻る道を探している。どこへ戻るというのだ。毎日繰り返される父親の暴力に耐えられず終わりにしようと決めたじゃないか。風呂の水に顔を押し込まれたりサンドバックのように腹を殴り続けられたり、あのまま続けばいずれは殺される。中学一年の蓮には父親に対抗できる腕力はまだない。毎日父が戻って来るのではと家にいる間中動悸がした。逃げ出したこともあったが何度も連れ戻され、その後は普段の何倍も殴られた。思い出すだけで身体が震える。自分がいなくなれば父は今度は母を殴るだろうか。目を合わせようとしない母の肩越しの横顔が浮かんだ。

 左足がズキズキと脈打つように痛む。痛みと吐き気が続く中、意識がぼんやりし始めた。痛みと吐き気が和らぐ気がして、睡魔に引きずり込まれる感覚をそのまま受け入れた。

 暗闇の中で確かに自分は足をひきずりながら前へ進んでいる。ああ夢だったのだなと蓮は思った。足の骨を折ったと思ったのは勘違いで捻挫程度だったのか。痛みはあるが歩けている。間の記憶が繋がらないが崖から落ちて混乱したのかもしれない。けれどここはどこだろうか。山だったはずだが道は平坦だ。木々があるようにも見えるが闇に沈んで分からない。足下は砂のようで歩きにくい。そして恐ろしく寒い。どこかへ行こうとしているが、どこへ行こうとしているのか分からない。ただ足を前へ運ぶ。

 進む必要はないのではないか。そもそもここへ来た理由を考えた。どこかへ行く必要はない。足を止めてしまえばいい。これだけ寒ければ足を止めればすぐに動けなくなりそうだ。なのにあと一歩、あと一歩と心の中で唱えてしまう。もう疲れた。どこで止まろうか。あと何歩で足を止めようか。

 ふと目を上げた。遠くにぼんやりと明るい光が見える。足を進めながら考える。何だろう。民家か。近づいて何になる。助かってどうするというんだ。ちがう、ただあの灯りが何かを知りたいだけだ。頭の中で二つの意見が反論を続ける。

 灯りは時々暗くなったり明るくなったりする。火だろうか? 蓮は痛む足をゆっくり引きずりながらそれでも灯りに向かって進み続けた。

 暗くてほとんど何も見えなかったのに、黒い霧が晴れるように急にその灯りの周りが見えた。四角く囲われた中に赤い火が燃えているようだが炎は見えない。炭か何かだろうか? 昔祖父の家で練炭を見たことがあるがそんなものだろうか。その四角い枠の中の火に手をかざしてこちらに正面を向けて座っている人がいる。暗い火に照らされているだけなのではっきり顔は見えない。こちらを見ていることだけは分かる。恐怖は感じない。威嚇している様子もない。蓮はそのままゆっくり近づいた。数メートル手前まで来るとその人が片手を横に軽く突き出してこちらから見て右手に座れと促したように見えた。一瞬意味を取り違えていないか不安になったが、蓮はそのまま右手から四角い枠を回り込み、その人の右手に座った。座る時足が痛んで後ろに倒れそうになったが何とか片足を立てて座る。

 その人はさっきまで視線をじっと蓮に合わせていたのに、今は火の方に目をやり何も言わない。腕から肩、上半身から足下まで金属製の甲冑を身につけていて、頭から鼻先まで覆われている。肌が見えるのは顎と口の周りだけだ。「戦士」という言葉が蓮の頭に浮かんだ。

 身体は冷え切っている。火に照らされた部分はじんわりと暖かく、蓮は自然と両手を火の方に伸ばしてかざすようにした。大きく息を吐き出す。すると戦士は火にかざしている片手を蓮の方に動かした。四角い枠の中心部分で赤く光っていた灯りが数を増やして蓮の前に現れた。蓮は戦士の顔を見たが、戦士は火を見つめたままこちらは見ない。足と腹にも暖かさが届き、蓮は今まで全身に力を入れていたのだと気がついて息を吐きながら身体を緩めた。じんわりと身体が暖まっていく。

 戦士の顔を見つめていると、彼が視線を上げて蓮を見た。「彼」と呼んでいいのかは分からない。甲冑のマスクから見えるまつげの長い瞳が美しい。戦士はその瞳だけでやわらかく笑った。その時火がふっと暗くなり熱が弱くなった。戦士は慌てて視線を火に戻したが、それに合わせて火も明るさと熱量を取り戻した。

 「彼」がこの火を灯している。蓮のために灯りを増やし消えないよう意識を集中させている。蓮は顔に火の暖かさを感じながら、のどにせり上がった詰まりを飲み込もうとしたが抑えられず両目から涙がこぼれ落ちた。嗚咽の声がかすかに漏れたが、戦士はやはりこちらを見ない。暖かくなった身体が安堵し、爆発するような喜びの感情が上ってくる。蓮は自分が死にたくなかったのだと自覚した。暖まるとさっきまで重かった身体が軽く感じた。痛む足も「きっとすぐに治る」と思えた。涙はまだ止まらず、のどが酸っぱさで詰まり横隔膜がヒクッと跳ねた。父親に「さっさとシネ」と殴られ続け、ぺしゃんこに疲弊した心も、今少しだけ厚みをもってきている気がする。蓮は戦士にお礼を伝えたいと顔を見つめたが、いつまでたっても彼は目を上げない。蓮はまぶたが重く感じて必死に目を開けようとしたが、回復のために休息が必要なのか強烈な眠気に襲われた。甲冑に覆われた彼の腕が視界の中でぼんやりとし、蓮は立てた自分の膝にもたれかかったまま目を閉じた。

 揺れている、と思った。視界にぼんやりと見えたのは木漏れ日だった。誰かの背中に背負われている。身体は自分のものでないように重く、左足は荷物でもぶら下がっているように違和感がある。背負ってくれている人の息の音が大きく響く。これは誰だろう。「戦士」の姿が脳裏に浮かんだが、蓮を背負ってくれている人はダウンジャケットを着ている。

「しっかりしろ。もうすぐだからな」
 蓮にかけられた声は初老の男のしわがれ声だった。

 次に意識が戻ったのは病院だった。

 看護師が教えてくれたのだが、蓮はキノコ狩りに山に入った年輩の男性に偶然発見され、折れていた足に添え木された状態で背負われて山を下り、男性の車で病院に運び込まれた。怪我の治療を受けるとともに、医師が蓮の服の下の複数の打撲傷を見て警察と児童相談所に連絡した。

 児童相談所の職員から話を聞かれたが、ありのままを話した。母から差し入れは届いたが両親ともに病室には顔を見せない。相談所の職員がしばらく面会は制限しているのだと言った。父に会わなくてすむのは少しほっとした。けれど父のことを考えても前のように身体が竦むことはない。

 あれは何だったのだろう。あの火の前にいた戦士は夢だったのだろうか。蓮は目を閉じるとすぐにあの光景を思い描くことができた。戦士は蓮のために火を灯してくれた。そのことで自分は一人ではないのだと思えた。夢にしては鮮明すぎる。あれはいったい何だったのだろう。

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■スクリーン3:

 その部屋は天井がなく、広い青空に雲がゆったり流れていく様子が見える。部屋の奥に向かって楕円球が床から突き出したようなブースがずらりと並び、その間に立っている男が振り向き目が合った。前髪を目の上で切り揃えた短髪で、やけに若く見える。男はこちらに近づいてくる。

「待っていました」と男は微笑む。
「T3346です。採用頂きありがとうございました」
「呼称は?」
「……トキですが」
「ではトキ、私はアロンです。このプロジェクトのマネージャーです」
「正認番号を伺っても?」
「A0109です。でもアロンと呼んで下さい」
 トキは一瞬固まって返事ができなかった。正認番号は言ってみれば階級を表し、仕事の場では正認番号で呼び合うのが普通だ。Aは最高位で、その上番号も最初の桁が0の者に会ったのは初めてだった。CやDランクの者でもなかなか普通の職場にはいないのにAランクがなぜこんなところでプロジェクトマネージャーなどしているのだろう。

「ではトキ、こちらへ」
 アロンは楕円球ブースの間を縫って移動しながらトキに手招きした。一番端のブースの椅子に座ると隣の椅子の背もたれを軽く叩いてトキに座るよう促した。最新式ではないディスプレイには星座図のような点と線のつながりが無数に表示されている。トキは軽くため息をつきそうになって無理矢理こらえた。一瞬アロンの動きが止まったように感じた。心を読まれたような気がして、トキは慌ててディスプレイの中を興味深そうな顔をして覗き込んだ。いや、もう遅いだろう。この仕事を退屈だと思っていることはきっと伝わってしまったに違いない。何せ相手はAランクなのだ。

「すみません……」
 トキは思わずそうつぶやいた。
「……ガーディアン志望だったそうですね」
 当然経歴は自分の履歴ファイルにすべて記録されているから隠しても無駄だ。
「審査に落ちました」
「また受ければいいだけです」
「でも募集は不定期で次はいつか分からないと聞きました」
「ガーディアンは結構過酷ですから離脱者は時々出ます。その時にまた選抜が行われますよ」
「脱落者が出るってことですか? すごく優秀な者しか選ばれないのに?」
「派遣先はとても過酷な環境ですからね。身体的にも精神的にも」
「それは覚悟の上でしょう?」
 アロンは宙を見てその言葉を考えているようだった。

「トキはなぜガーディアンになりたいと?」
「それは当然ではないですか? とても名誉なことだし、階級が上がりますから」
「そうですね。とても意味のある任務です」
「もし俺が選抜されたら絶対に脱落なんてしません」
 アロンがこちらに顔を向けて静かに微笑んだ。
「ではここでの仕事はきっと役に立ちます」
「役に立つ?」
「事前に目を通してほしいとリンクをお渡しした資料は見てもらえましたか?」
「目は通しました」
「では話が早い。手が足りないのですぐに覚えて頂きたいんです。この光っている点が何か分かりますか?」
「フラナの補給拠点……ですか?」

 資料の中で見た記憶のある単語を適当に口に出してみただけだった。この仕事は自分から望んだ職ではない。まだ審査に不合格だったことを引きずったまま、新しいことに興味を持つところまで心が落ち着いてはいなかった。

「そうです。この点の数だけ拠点があるわけです」
「光が変化しているのは……?」
「フラナ、つまりエネルギーのレベルを表しています。あまり低くなりすぎるとこちらから対策を講じる必要があります」
「補充するってことですか?」
 アロンは少し考えてから「広義ではそう言えますね」と言った。
「具体的には燃料の補給ですか?」
「比喩としてならそれも含まれます。でも拠点は地球の人ですから、エネルギーレベル低下への対策は色々な方法が考えられます」
「人?」

 思わず聞き返してトキは後悔したがすぐに取り繕うのはやめにした。資料をしっかり読んでいないことはきっともうバレている。
「地球の人間が拠点になっているってことですか?」
「そうです」

 トキは訳が分からずディスプレイを睨みつけた。ガーディアンは地球に派遣され人間をサポートする仕事を行う。選抜審査に落ちたトキに声がかかったこの仕事は、人間を遠隔でサポートする謂わば後方支援という話だった。人間は救済する対象であるはずなのに、その人間を拠点にするとはどういう意味なのだろう。

「人間に人間を助けさせるということですか?」
「その通りです」
 山のような質問を頭で整理し終わる前にアロンが遮るように手の平を見せて、ディスプレイを見たまま話し出した。

「レベルが下がっている拠点を認識したら、まずケースとして登録しすぐに状態を確認して対応策を決める必要があります。最初は迷うでしょうから暫くは私が補佐に付きます。身体起因か精神起因か切り分け、必要であれば現地のガーディアンに指示を出します。レベルが復活したら状態に応じてしばらく見守ります。問題なければケースをクローズします。簡単に言えばこの繰り返しです」

「……救済対象の人間ではなく、拠点である人間を救うんですか?」
「救うという言い方は少し違いますが、拠点となる人の状態を良好に保つということです。それがひいては救済対象の人を救うことに繋がります」
「すみません。俺の理解力が劣っているのかもしれませんが……」
「いいえ、確かに回りくどいやり方ですから。つまり良好な状態の拠点である人に、救済対象の人を救う手助けをしてもらっているわけです。その分拠点には負荷がかかりますから私たちでその負荷の低減や解消を行うということです」
「拠点となる人間は自発的に、つまり志願しているということですか?」
「現時点での記憶下ではノーです」
「……では自分が拠点として他人を助けていることを知らないんですか?」
「ええ」
「ええっと、それは……」
「もちろん潜在意識下では本人の許可を得ています。つまり転生前に許諾しています。だからこそ、このプロジェクトが成立しているんです」
「なぜそんなやり方を?」

 アロンは一瞬返事をせずに指でディスプレイ表面に触れ、指示出しらしき操作をした。ふっと意識が戻ったように軽くあごを上げる。

「人が人を助けようとする気持ちはもともと備わっているからです。自由意志の法則は習いましたよね? ガーディアンが救済対象の人のそばにいたとしても、本人が望まなければ手は出せません。人が助けを求める気持ちを心に閉じこめてしまうとガーディアンだろうと天使だろうと救いの手をさしのべることはできないんです。でも人が人を救うのは別です」
「人が人をどうやって救うんですか?」
「このプロジェクトの名前が何か覚えてますか?」
「IRORI……でしたよね?」
「そう。イロリはフラナ、つまり生体エネルギーの補充を行う装置です。地球のニホンで使われていた暖房装置から名前を取りました。火で暖を取るように、装置に近づいて補給を受けることができるんです。見て下さい」

 アロンはディスプレイの中の一つの点を指で触れた。画面右端のウィンドウの表示が切り替わり、数値がいくつも動いている。

「この拠点、つまりこの個人の生体エネルギーの10%がイロリとして使われています。総体エネルギーが低下するとイロリの維持が難しくなり拠点自体の生命にも危険が生じるので、その場合は拠点に対しエネルギーを補充するか、イロリの機能を一旦放棄させ解放します。でもイロリの拠点でなくなると救済対象の人と同様に私たちから勝手に支援ができなくなります。ですからなるべくイロリ拠点のまま維持できるよう対策を講じます」

「フラナの10%を使用しても、拠点になっている人間本体には悪影響はないんですか?」
「影響がないとは言えませんが、人はフラナを一部しか使えていませんし、フラナの存在そのものに気が付いている人もまだ少ないんです。つまり余剰分を利用させてもらっているわけです。ですがフラナの10%を振り分けるために脳の活動の一部はどうしても使う必要が出てきます。都市部の人は電子機器の使用頻度が高いため脳の入力処理機能の使用率も高くて不安定になりがちです。ですから電子機器の使用頻度が低い人や休息時間が長い人を拠点とする場合が多いです。必然的に病気療養中の人や引きこもっている人が多くなります」

「どうやって救済対象の人間にイロリへ接触させるんですか?」
「拠点自身が察知して対象を呼び寄せます。だから私たちの任務は拠点の整備と管理だけです。あとは拠点が救済対象を見つけます。もちろん優先順位があるので、どの対象を優先するか誘導することはありますけどね」
「拠点が機能しないことはあるんですか? つまり、対象を助けようとしない場合はどうするんですか?」
「ありませんね。地球の人は本来必ず仲間を助けます」
「そんなに善良なんですか?」
「ただ……」
 アロンは目を伏せたまま続けた。
「それは本来の性質です。実際には様々な理由や要因で人の行動は変わってしまいます。人はとても複雑で繊細です。ガーディアンとして守護するために側にいても、見たくない状況を見せられ続けることも多い。彼らが血を吐くほど苦しんだり凍り付くほど孤独に貫かれていても、ただ見ているだけしかできないこともあります」

 アロンはわずかに口角を上げて笑みを作ったように見えた。

「この仕事をしていると人の持つ本来の性質を信じることができます。彼らは傷ついている人を見ると必ず手を差し伸べる。それをしっかりと理解し、記憶に刻みつけておくといいですよ。トキ、あなたがガーディアンとして派遣される時にきっと役に立ちます」

 トキは画面上に点在する星のような無数の光を見つめた。

「だから閑職にまわされたとがっかりしないで下さい」
「そ、そんな風には思っていませんっ」
 トキは顔が熱くなるのを感じて下を向いた。

「今日はまず赴任の手続きから行います。その端末でよいので指示手順通りにオリエンテーションを終えて下さい。その後作業内容を説明します。遠隔で作業をしているメンバーもいるので同僚は私たち二人を含めて六名います。彼らとの定時連絡があるので私は一旦隣の部屋に行きます。オリエンテーションが終わるまでには戻ります」

 アロンはトキの目の前の端末のディスプレイを操作して画面を切り替えると、立ち上がって出口へ向かって歩き出した。

「あの」
 トキは声に出した直後に少し後悔したが、意を決して尋ねた。
「アロンさんはガーディアンとして地球に?」
 アロンが振り向いて微笑んだ。
「ええ、そうです」
「それじゃあ何故……」
 脱落という言葉が浮かんでその先を言いあぐねているとアロンが話し出した。

「このプロジェクトを立ち上げるために離脱しました」
「じゃあこのシステムを?」
「私が作りました。これで究極的な救いにはならなくても少し元気になって前へ進める人は多いのです。人はすぐ側にガーディアンがいることを全く知りません。心から助けを求めればすぐにでも全力でサポートする存在がいることを知らないんです。それでどんどん心を削っていく。助けを求めることができるレベルまでたどり着くために、まずは補給を受けて回復して欲しいんです」

「……がんばって早く仕事を覚えます」
 アロンが笑みを深めてトキを見つめた。
「このプロジェクトが軌道に乗ったら、私も再度ガーディアンとして赴任希望を出す予定です。トキと私のどちらが先に赴任できるか競争しましょう」
「えっ、そんなズルいです。Aランクと競争なんて」
「ランクは関係ないですよ。他部署からも転属要望が来るので高ランクはむしろ不利かもしれません」
 トキは一瞬言葉の真偽を疑ったが、ただ慰めるために言っているようには思えない。
「俺が先に地球に赴任します!」
「じゃあトキ、一日も早く作業を覚えて戦力になって下さい。言っておきますが大人数を常に管理する必要があるのでこの業務はとても過酷です。覚悟して下さいね」
 アロンはニッコリ笑うと部屋を出ていった。

 ディスプレイでオリエンテーションスタートと書かれたボタンが点滅している。トキは背筋を伸ばし深呼吸すると、点滅しているボタンをタップした。

 


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