猫とケア 熱帯魚と相互障害状況
我が家に来て、もうすぐ3年。猫のこと。
最近甘えた声で主張する。
「餌くれ」「遊んでくれ」
「朝だぞ、起きろ」
「ドア開けろ」
「バスルームに入れろ」
時に「特に用はないが、なんとなく」
という場合もある。
まっすぐこちらを見つめ、
甘えた声で「にゃおん」と鳴く。
来たばかりのころは、
物静かな印象だった。
家から一歩も出ず、
特にかわりばえのない毎日を過ごしているように見えて、
実は本人なりに、さまざまに学び、変化しているのだなとしみじみ思う。
人も猫も、日々変化している。
今日と同じ明日はない。
特に犬や猫の場合は、同じ愛玩目的で飼育されている爬虫類や魚類等に比べて、生活環境を共にする中で、お互いに変化してゆくことが感じやすい。
そう。
一方的でなく、お互いに。
この「お互いに」というのが意味深い。
きっと、飼い主が愛犬、愛猫たちを家族の一員と感じるのも、
そこに相互的な係りというのがあるからなんだと思う。
ケアし、ケアされる関係。
アメリカの哲学者ミルトン・メイヤロフが1970年代に提唱した「ケアリング」の概念。
メイヤロフは人と動物のみならず、
芸術家と作品のように、人と物の間にも相互性を伴うケアが成り立つと考えた。
ケアを生み出すには対象に対するコミットメントが必要である。
毎日の営みを通じ当事者間に生まれるものが、つまりケアなのだろう。
「孤掌鳴らし難し」じゃないが、関係というのはお互いの間に生まれるもの。
ケアに満ちた関係性を希求するのは人の性。
自分の生に意味を見出し、毎日を生きる勇気を持つため、共感のきっかけを求めるように。
しかし単に求めるだけでは手に入らない。
行動と観察、
そして相互的介入が不可欠だ。
そんなこと考えながら、
さっき沸かしたお湯でコーヒーを挿れる。
フィルターに褐色の粉が膨らむ。
香ばしい香りが漂う。
今朝は快晴。
乾いた風がカーテンを揺らしている。
娘が庭のオリーブの木で鳴いていた蝉を捕まえてきた。
ギャーと虫籠で暴れるクマゼミ。
虫を飼う事と、猫を飼う事との違いについてふと思う。
猫は「家族の一員」と呼ぶ人はいるが、
例えば熱帯魚を飼っている人は、その一匹、一匹を「家族の一員」と思っているのだろうか。
確かに、餌をやるときに水面に寄ってくるのを眺めれば多少愛しく感じるだろう。
でも、熱帯魚にしろ爬虫類にしろ、昆虫にしろ、飼う人は「家族の一員」を求めているというよりは、むしろ都市化した自己が無意識に「自然」を求めていると考えられないか。
眼前に小さな野生がある。飼い慣らされし野生。
その小さな水槽に閉じ込められた世界の住人との距離、互いに通じ合えない状況。
我が国における盲ろう教育の第一人者でもある心理学者、梅津八三は、かつてそれを相互障害状況と呼んだ。人と人との間に共通認識を生み出すための信号を作り出すために、さまざまな仕掛けをしつつ、行動体制の変容を図ってゆく。そういえば、梅津の行動体制変換の話に例示されていたのも、人だけでなく、チンパンジーやサソリといった動物のケースだった。
熱帯魚の話に戻る。
水槽内のコントロールしえない状況に対し、
こちらから接近していく。
観察し、想像し、そして推論する。
それを続けていくうちに、いつしか見えるものが変わっていく。
同じ魚が違って見えてくる。
ある時、飼い主は自分は以前と違う人になっていることに気づく。変わったのだ。
コーヒーに氷を3つ入れる。
カラカラとグラスに当たる涼しげなキューブたち。