おでん屋A ~おだし3段活用の3段目|エッセイ(全文無料)
たとえば、おでん屋へ行った。
おでんについては一言ある。
私は小さい頃から大人になってもずっと、おでんなんてタネにろくなもんが入っていないじゃないか、これじゃ腹が満たされないし、ご飯も進まないし、食っても食った気にならんし、したがって食う気にもならんと、暴論ともいうべき持論を常に展開していた。
ある晩、ほろ酔いで街をさまよっていると、そこを通るときにいつも目にする看板がまた見えてきた。これがおでん屋だというのは随分前から知っていた。なんでもそうとう有名な店であるとのこと。
まあ、そうだとしても、私には無縁の話だよ。何の関係もない。
そう考えて、私は何十回もこれの前を素通りしてきた。
ところがこの日は違った。
魔が差したというか、ちょっと食ってみようという気になったのだ。いま思い出してもよく分からない心境だった。「有名店ならば一度入ってみてもよかろう」というのとも違った。自分を見失うほど酔っているわけでもなかった。気の迷いとしか言いようがなかった。
店内にはおでんを煮込んであるのに沿ったL字だったかコの字だったかのカウンターがあり、混んではいなかった。カウンターに座らされた。すでに一軒飲んでいたので、ビールでなく、とりあえず熱燗を注文し、さて何を食おうかと考えた。
何しろおでんなど食いつけないから何をどう注文するという自分なりの段取りも持っていない。新鮮な気持ちで考えなければいけない。まずは無難に練りものでも注文してみようか。
「あと、さえずりって何ですか」
「鯨の舌ですね」
「ほかのこっちは…」
「鯨ですね」
錫の熱燗が来たので、一杯飲んでまずは落ち着こう。
鯨が入るのか、それにしても高いな、と思いながらさえずりを注文した。あとは何を注文したか忘れた。何品注文したかも忘れた。2軒目だったのでそれほど多くは食べなかったと思う。
酒は一度おかわりした気がする。
おでんもわりと悪くないんじゃないの…
さらに少しだけ酔いが回って、いい気持ちになってくる。
何がどうなってんだか分からないけど、おでんも悪くないんじゃないの…もうちょっと食べちゃおうかな、しかし高いし、ほどほどにしておいた方がよいのではないか。
勘定をして、そこそこ払って店を出た。
店を出てからよくよく振り返る。
要するにおでんが悪くなかったんですよ。
ただし、なぜうまいのかはよくわからんじゃないか。所詮、練りものや野菜じゃないか。
……
おだしがしみててそれがうまいんだよと、実はもう気づいていた。
一連のおだし3段活用を経験し、そりゃ大概わかりますよ。
それにしても、こうまで連続してやっつけられるとは。これまで徹底的に避けてきたおでんに、最後の最後、詰められるとはね。
これまで誠に申し訳ございませんでした。これからは食べるよ。
ごちそうさまでした。
*補足*
本記事は「グルメスパート!」(連載エッセイ)の一部です。
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