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あこがれは敵か味方か|エッセイ(全文無料)

 今年は、やったぞ、行動を起こした。そう胸を張れる一年だった。文筆愛好家として第一歩を踏み出し、今後も書き続けていこうという意志を持つことができている。まだまだ歩みの始めも始め、まさに第一歩にすぎないようだが、すでに私は大切なものを得たような気がする。あこがれとは何だ、敵なのか、味方なのか? 考えてみた。

第一歩の振り返り

 今年2024年も半ばを過ぎてから、私は慣れないSNS操作の困難を乗り越えて文筆愛好家として書き始めた。ここが私としてはまずもって大変だった。
 そしていくつか物を書いてみた。
 ここまでのことだけを考えても、今年は大変充実していた。我ながらよくやったと褒めてやりたい気持ちでいっぱいである。
 しかし、振り返ってばかりではつまらない。今後も書き続けていくにあたり、次の一歩を考えていかなければ面白くない。

次なる一歩

 これまで私はエッセイという形で物を書いてきた。これはこれで望んだ形式である。今後もエッセイを書き続けていくであろう。
 ところで私はぼんやりながらも「こんなものを書きたい」という、漠然としたテーマがすでにある。これを書くためには虚構のストーリーを作り出すことが必須だ。このことは前からわかっている。しかし、これになんとなくとっつき難さを感じたまま、ここまで来た。
 ストーリーメイクという意味で、私には「あこがれ」が3人いる。ドストエフスキー、ゲーテ、手塚治虫の3人だ。
 ドストエフスキーとゲーテは、私が文筆に興味を持つきっかけとなった作家である。その意味で、これらをはずして私の文筆は考えることができない。
 手塚治虫は私が若いころ好きでよく読んでいた漫画家である。
 私は漫画に詳しいわけでなく、せいぜい子どものころ人並みに読んでいたという程度にすぎない。当時気に入った漫画家や作品がいくらかあって、そのうち、年を経てなお忘れることができない漫画家の筆頭が手塚治虫なのだ。
 ただ、手塚治虫の漫画本は以前処分してしまって以来、手もとに持っている作品がないぞ。電子書籍を読める環境にも私はない。
 ならば再度漫画本を集めて、読まなければいけない!
 私はあらためて手塚治虫を探して、集めてみることにした。

手塚治虫を再読

 実際漫画本を探した際の苦労はここでは置いておくとして、好きな作品は大方集めることができた。
 さて、集めたら読もう。
 ジャングル大帝、アトム、火の鳥、アドルフに告ぐ…
 面白い! ほんの数ページ読んだだけでも面白い…。
 もっとも私は漫画がかきたいわけではない。私に絵などかけない。だから手塚治虫の絵の魅力やコマの使い方といったものには、文筆愛好家としては関心があまりない。ただファンとして楽しんでいるだけだ。
 一方で、手塚治虫のストーリーメイクについては、強い関心を持たざるを得ない。私の好みの限りでいえば唯一無二の人であるから、私の手塚治虫へのあこがれは、すべてこのストーリーメイクという点に向けられていると言っていいだろう。
 毎日興奮し、寝る間を削って手塚治虫作品を再読した。こんなに興奮したのは若いとき以来久しぶりである。
 これは大いに勉強になったのではないか。
 ところが、どうだろう、これに少しでも刺激を受けて、あるいはその勢いを借りて、多少なりとも何か書いてみようとしたが、思うようにはいかなかった。
 書けない…どうしても書けない!
 私は打ちのめされ、ペンは萎縮した。

書けない、どうしても書けない!

 あこがれの作家である手塚治虫の世界に没入し、作品を味わったこと自体は、ファンとしては楽しいことに違いない。人生最大の悦びのひとつといってよいかもしれない。
 しかし、それに学び、近づこうと考えた途端、こんなに苦しい相手はないと気づいた。
 いえ、私は何もあなたに肉迫しようなんて考えていなかったんですよ、たかが文筆愛好家として、ほんの勉強のため、あこがれのあなたに少しでも近づけたらと思って、それで読んだだけなんですよ…
 冗談半分でこんな言い訳を口にしてみたところで、もうどうにもならなかった。
 これはあこがれの人と同じようにやれるつもりになって、やろうとし、当然できるはずがなくて、夢想状態から現実に引き戻されたというだけの、まあ、よくあることである。だがそれが分かったとしても、ちぢこまった私の気持ちが解放される道理はなかった。
 どうにかしようとして、気分を新たに、もう一度読んでみる。やっぱりその面白さには変わりがない。最高に面白かった。ジャングル大帝のラストなど、ごく最近読んで涙したうえでのさらなる再読なのに、またもや涙を止めることができなかったほど。そんなやさしかった君が、無二の親友と思っていた君が、どうしてそんな冷たい顔をして私の前に立っているのか?などと角度を変えて嘆いてみても、果たして何ともならなかった。
 これは乗り越えなければならない壁だ。希望があるかどうかもわからない、とてつもなく怖い壁だ。

勇気と志を持って

 冷静になって整理してみる。
 あこがれの存在なのだから、容易に並べるはずがあるまい。
 ところで「私は何もあなたに肉迫しようなんて考えていなかったんですよ」……これは本当か?
 私は手塚治虫を目指し、これに並ぶべく、近づいていこうとせざるを得ない。だって好きなんだから。容易でない、不可能に近いとわかっていても、向かっていかざるを得ない。敵わないと分かっていても突撃せざるを得ない、玉砕するとわかっていても突っ込んで行かずにはいられない。
 この玉砕を知りながら、走る私の顔には笑みが浮かんでいなかったか。私の気持ちは高揚していたのではないか、その胸には恐怖など微塵もなかったのではないか。
 そしてあえなく敗れる。こてんぱんにやっつけられる。
 私はがく然として、ペンをすべて投げ捨てて、ふて寝をする。それでも翌日にはまた怖いもの見たさでページをめくり、胸躍らせて、そのストーリーにわくわくし、ついに絶望の底から再起してやあやあ吾こそはと叫ぶのである。
 これは「胸をお借りしたいので、どうぞよろしく」という低姿勢では決してなく、本気で肩を並べにいく、命をもらいますと明言しながら近づいていくということである。そのくせその背を見ることもできないまま、返り討ちで半殺しの目にあい、かといって元の場所に戻ることもできず、誰もいない荒野で独り、長く横たわることになるのだ。そして立ち上がったら、あこがれの敵を探り、見つけてはまた吸い寄せられていく。
 立ち上がるときは震えが止まらない。
 向かっていくときは、夢中で、何が何やらわからない。
 そして返り討ちにあえば己のつまらなさに望みを失う。
 少しして、また立ち上がる。
 この繰り返し。
 そこから逃れられるとすれば、それは志を諦めたときだけだ。

 おっと、興奮しすぎでしょうか。
 要するに、言い訳の余地を残した低姿勢ではなく、遠く及ばずとも恥じるまいと決意表明をしたわけである。

 なお、やはりあこがれの対象であるゲーテの全集も集めつつある。ゲーテは詩や小説などのほかに、エッセイとして文学論なども書いている。そこで若い詩人たちに向けて言葉を残している。詩の才能よりも技巧よりも、前進する生の精神をもって支えとせよと。大づかみでいえば、こんなような意味合いの言葉を残している。(※)

 あこがれの敵の口から、たとえ一言でも言葉を聞きたい。
 それを聞くことができるまで、立ち上がる勇気を持っていたい。
 うん、ペンを持つ握力よりも、怖くても立ち上がれるように、まずは足腰を強くしていこうか。

[注]

※ 参考文献:文学論「さらに一言、若い詩人たちのために」/ゲーテ全集13 新装普及版 潮出版社



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