さなコン3一次選考通過作品へのコメントについて
先日「第3回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」通称さなコン3の最終審査結果が発表され、一次選考通過作品に対するフィードバックコメントの公開がありました。
私の通過作品は以下のものです。
そして、私の作品へのフィードバックコメントについては、誰でも書けるような、なんら具体性のない一般論だけを一行だけで書いた、くだらないものでした。
こんなものはフィードバックとして成立しておらず、意味がありません。まず、なにが「一発ネタ」に当たるのかを明示する必要があります。そして「このサイズ」がどういうサイズなのかも言及しなければなりません。「なら」がどのような意味を持っているのかもわかりません。つまり、一発ネタとしては長すぎるのか、あるいは上限に対して短すぎるのでもっと長くしたほうがいいのかが曖昧であるということです。「追加の捻り」に関してもこんなものは誰でも知ってる一般論です。読者の感想ならばかまわないと思います。しかし、審査員によるフィードバックコメントとしては、あまりにもお粗末です。このようなレベルのコメントしか書けない人は、審査員としての資質がありません。もちろん、今回の事態は基本的に運営の問題であると考えていますが。
簡単にですが、上記のコメントを参考にして、私なりにすこし書き直してみましょう。
どうでしょうか。
先ほどの一行コメントよりはマシなものになっていると思います。まあ、この程度のことは私が自分で書けるので、わざわざフィードバックをしてもらうべくもないのですが。審査員からもらったコメントを書き直すという行為に失礼さを感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、あちらが失礼なことをしているので別に構わないでしょう。(無許可の翻案として著作権侵害を訴えてきてもそれはそれで構いません。あの程度のコメントが自身の著作物だとあなたが考えるのであれば。)
しかし、ここまで言葉を尽くしても、誰でも書けるようなレベルです。作品について具体的に言及しているだけでまだマシですが、ほとんど一般論です。また、このコメントは作品を矮小化しています。べつに矮小化してもよいのですが、私はそんなレベルのコメントを審査員に期待していません。
さて、この件は私が意図的に暴力的な言葉でタグを荒らし、さまざまな立場の方が言及せざるを得なくなり、小さな炎上状態にもなりました。暴力的な言葉に傷ついた人もいらっしゃるかもしれませんが、これは絶対にやるべきことだったと私は考えています。たった一人が小さな不満を漏らしただけでは、多くの人が問題意識を共有するに至りません。私が極端なことを言うことで、柔らかにでも批判できる人が増えます。まあ、クソみたいなトーンポリシングもされましたが笑。受賞作品についての言及よりもフィードバックコメントへの言及が盛り上がってしまったことは悲しいことではあるかもしれませんが、このコメントシートを出して炎上しないと思っていた運営の意識が低すぎるだけです。
この問題の要点は上記のツリーに書きました。
また、以下のツリーも重要な指摘であると思いますので、リンクを貼ります。
ここからの展開として、最も大切にすべきことは、審査員の一人であった人間六度氏の対応です。
短文コメントを書かれた人限定で、読んでコメントを書いてくれるというものです。私もお送りして、コメントを書いていただけました。全文引用します。
とても有り難いコメントだと思いました。ただし、私は一言「嬉しいです! ありがとうございます!!」と言って素直に有難がれる人間ではないので、返答を書きました。
このあと、人間六度様より返信もいただいたのですが、そちらの掲載許可はいただいていない(聞いてもいない)ので、全文は掲載しません。少しだけ要約すると、戦うべきは文学賞ではなく不条理な世界そのものである、と言っていただけました。これは本当にそうだと思います。哲学者の永井均氏が「世界の真理」について書いているのだと言っていますが、私もそうです。私は小説を通して、「世界の真理」について書こうとしています。それこそがXのプロフィールに書いてある【演劇SFを哲学する】ということの真髄であります。その意味では、この作品がやっていることはあまりにも小さい。けれども書かなければならない作品でした。文学賞の課題文という小さな不条理への小さな抵抗を、逃してはならないと思いました。単純な言い方をすれば、いつかジンテーゼを書くためのアンチテーゼと言ってもよいでしょう。
しかし、だからといって、そんなことは分かっているから人間六度様の指摘が蛇足だと言うのではありません。
本当に素晴らしいコメントをいただいたと思っています。それは、大前提として作者がやろうとしていることに対する尊重があるからです。これは褒める貶すという次元の話ではありません。どれだけ褒めようとも、どれだけ貶そうとも、その前提にリスペクトがあるべきです。そうではない批評の営みがあってもよろしいが、それはそのような踏み躙りー躙られる関係を有難がる人だけでやればよいのです。私は絶対に有難がりません。
その上で、どのような読みの上ではこの作品が足りていないかを、ちゃんと指摘しています。とても誠実だと思いました。
また、作品の講評などにおいてありがちな、「あなたは〇〇(その賞のジャンルとは異なるもの)に向いている」というものがあります。フィードバックコメントにおいてもありましたし、演劇の講評においてもよくあります。その土俵で勝負してきたことへの尊重もなく、他のジャンルへ追い出そうとするものです。そもそも「〇〇に向いている」なんてのは作家が言うことではありません。そういうのは編集者の仕事であって、そうでなければ素人の感想であって、作家がそんなものを測れると思っていることが傲慢です。
そして、人間六度様のコメントは、それには当てはまりません。
これもやはり、あくまでやろうとしていることへの尊重はしているからです。そのうえで、こちらでは評価しづらいが、評価してもらえる場があるかもしれないと促すのは、とても誠実なことだと思います。
「○○に向いている」といったことは、つい言いたくなってしまいますし、絶対に言ってはいけないわけではありませんが、やはり、どうしてこのジャンルで挑戦しようとしてきたのか、それは絶対に考えなければなりません。
たとえば戯曲賞においても「この戯曲は映像向きだ」という選評がちらほらと書かれますが、こんなものもほとんど印象批評に過ぎません。最新の岸田國士戯曲賞でもそのようなことは書かれていましたが、他の作品にも当てはまるものであり、まったく説得力のない稚拙な選評でありました。そもそも、劇作家であるあなたがいったい映像のなにを分かっているのかという話でもあります。
繰り返し誠実という言葉を使いましたが、ほんとうにこれに尽きます。
ほんらい短文の不誠実なコメントを書かれた人に対してのケアをすべきは運営です。
明らかに、いち審査員の業務からはかけ離れています。しなくてもいいものです。それをあえてすることは、作品をつくるということに対して誠実に向き合っているからにほかならないと、私は思います。
ただ、もちろん、同じことができない審査員が不誠実であるというのではありません。ひとにはそれぞれの可処分時間があり、読む速度も書く速度もさまざまであり、これを実行できることはひとつの特権でもあります。
また、このことはほとんど顔の見えない作家同士だから成立していることでもあり、たとえば高校演劇の審査員と高校生という関係である場合、そうした個人的な対応がグルーミングに繋がる危険性も無視はできません。(実際にそうしたやりとりを禁止している地域があります。)
いずれにしても、重要なことは、審査員という権力を持った側が、"同等の立場で"反論することが不可能な作家に対して評やコメントをする場合は、いくら尊重しても尊重しすぎることはないということです。(「同等の立場」が意味することは、例えばその反論をフィードバックコメントが掲載されている記事に併記することなどはほとんど不可能であるということです。)
そして、一般論としてこのような対応が素晴らしいと言うべきものではありませんが、あくまでも個別的なものとして、人間六度氏の対応はとても誠実なものであり、コメントに関しても作家を尊重しており非常に素晴らしいものであったということです。
(念のため言及しておきますが、様と氏を書き分けているのは意図的なものです。)
そして、私は今回の件で、希望を感じました。
ひとつは、リンクを貼ったTokyoNitro氏によるポスト。
もうひとつは、審査員である人間六度氏の対応。
TokyoNitoroさんが、私以外のひとが、明確に「トーンポリシング」であると指摘してくれたのは、ほんとうに凄いことだと思っています。これが演劇界であれば、二次加害をするか、黙認するかが、ほとんどです。アクティブバイスタンダーとしてあれる人は、ほとんどいません。演劇界の人間は基本的には「勝ち馬」にしか乗りません。よほど広く炎上したものにしか何も言えないということです。指摘があったとしても、野次馬のようなものばかりです。あるいは単なるヒーローごっこです。そうではないものに出会えたことは、私にとってとても大きな意味を感じるものでした。
もちろん、小説を書いている人のあいだでは、あまり人間関係が濃密にならないということもあるでしょう。濃密な人間関係の前で立ち尽くし、黙認してしまう。それはあると思います。
しかし、本当にそれだけでしょうか。
やはり、小説を書いている人のほうが、「言葉」というものにしっかりと向き合っているように思うのです。もちろんそのようなものは人それぞれでありますが、これは、私はそのように界隈に希望を見いだせるということです。同時に「言葉」というものにしっかりと向き合っている劇作家などというものは、ほとんどいないと私は思っています。これは何故か、おそらく、演劇というのは言葉に向き合わなくても面白いものが作れてしまうからです。
……SF界のホモソーシャルな話を聞く度にうんざりします。もちろん文学賞の選評でもひどいものもあります。私が選評の素晴らしさに憧れた日本SF大賞でも、近年とてもくだらない選評がありました。SFでもある程度の影響力のある批評家の発言や行動に悲しくなることもあります。私は、濃密ではない人間関係すら、そこでは築きたくないと感じています。お金がなくて入れないがいつか入りたいと思っていたゲンロンのSF創作講座にも、入ることはないと思います。基本的にはもうなにもかもうんざりなんです。
それでも、です。
演劇界で希望を感じられることなんて、ないから。
少しでも感じた希望を、私は大切にしていきたいと思います。
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