クーピーでいえば白(大理石)
大理石
自社で建てたマンションの1階と2階にそのオフィスはある。
事務机やコピー機などのオフィス機器が並んでおらず、黒い壁に木目の板を施した部屋は、シンプルなデスクと椅子が理路整然と配置されている。どうしても出てしまう紙のファイルなどは、見えないように壁面収納で隠されているようだ。一見すると殺風景で無機質な印象だが、センス良く配置された観葉植物などがアクセントになり、シンプルだが程よい温かみ、という演出も施されている。
窓際にはソファが置かれ、セルフスタイルのコーヒーサーバーやスイーツなども充実、いくつかブランコのような籐の椅子などもあり、社員だけでなく、来客も自由に使用できる。
商談スペースは、ガラスで仕切られ開放感があるが、使用する際はスモークがかかり、外側と遮断される仕組みになっている。ファミリー向けの部屋もあり、キッズスペースやおむつ替えなどの装備も充実、社会的に批判のない程度の、防音加工などもされている。
全ての世代の顧客や従業員に配慮された、最新のオフィスだ。
その奥の一室に、伊能はいた。
「王子様よお~」
パソコンに向き合いながら、誰かに声をかける。
社長室…と言いたくなかったので、自分の部屋を「BASE」と呼んでいた。ベース…基地のことだ。ここも落ち着いた木目のオシャレな部屋だ。
そこに伊能はいる。
「俺、おうじじゃないっす、おうじろうっす」
王子様と呼びかけられた男性が、口を尖らせて伊能へ言った。
森田旺次郎(もりたおうじろう)小柄で細身の若い男性だ。
「おうじって、イヤなんすよ」
茶色い髪は柔らかいパーマがかかり、肌も白く、今どきの若者…と称されるだろう。が、別に髪を染めているわけでもなく、生まれつきその色で天然パーマ、積極的に外に出ないため色白なだけだ。
「おお、そうだったそうだった、悪いなおおちゃんよ」
クックと笑いながら、伊能は彼をからかっているようだ。
旺次郎は、眉毛を下げて口を尖らせ、子供のような顔で伊能を見る。
「山之内女史の、あれはどうなった?」
「山のうち…あ、調べてあります。でも、うちの管轄ではないっすよね」
「無いのですが、どのように対処しますか?だよ。いい加減仕事として会話しろ」
「…はい。あの場所は悪くないと思います。すげぇ…いや、かなりの田舎ですが海までの間にいろんな施設もでき始めています」
「うん、それで?」
「うん…と、有料道路の計画がだいぶ前からありますが、一部の住民の反対でなかなか進まないという話が聞けました。それが…有料道路ができると、あの場所はかなり有利です」
「…なんで反対してんの?」
「え…と、あ、そうだ。水です」
「水?」
「少し前まで、神社へ向かう途中にドライブインがありました。それが最近つぶれて…ドライブインってなんすか?」
「あん?高速にあるインターの小さいやつだ。トイレとか飯とか食うだろ?あれ。あの辺は海に抜ける街道だから昔は交通量も多かった。トラックとか観光客が利用してたんだ…。高速があの手前まではつながったし、計画があったから廃業したのか…。」
「写真、見せてもらったっすけど…なんか汚くて古い…。トイレとか入れないっすよ」
「旅行しねぇの?道の駅みたいなもんだろ。地方行けばいっぱいあるよ。土地の名産とか、地方の食べ物あって面白いじゃん。というより、お前んちだって結構な田舎だろうが」
「俺んちリフォームしてトイレきれいっす。ここのは古いし、怖い…。なんか、おばけ出そうっす。」
「おぼっちゃまが…。で、水って何?」
「そこのドライブインは水汲み場があって、無料でポリタンクとかで汲みに来る人もいるくらい。あの辺りは名水だって有名で、一帯は井戸水を使う家もあるし、町中に小さい水汲み場もいっぱいあります。」
「ああ、聞いたことはあるけどな…。道路の工事によってその水がダメになると?」
「はい。土、植物、環境そういう物が変化することで、水が…枯れる?ってこともあるといっている団体がいるので、立ち退きや売却が、思うように進んでいないらしいと」
「どこの管轄?」
「いやえっと…水の元?湧き水だから、山の土地の所有者と、湧き水を管理してる自治体とかが言ってます。ただ、もっと調べれば、どこが大元なのかわからないんです。うちが元だって言ってるヤツ…言っている方が多すぎて。その土地から全部の水が出てるわけじゃないし、山之内様の土地のあたりからは離れているし」
「まあ、立ち退きに良くある頑固おやじの話ね。高速が出来ないと人が来ないって?」
「いや…幹線道路からは外れてますが、逆に利用できるんじゃないすかね」
「利用?」
「こんなのみつけちゃった!とか好きじゃないすか、今どきの子。隠れ家とか、秘密基地みたいなのにすれば…。運命の出会い、とか写真上げてんの良く見るっす。ま、でもちゃんとした中身がないと話題にはならないから、かなりおしゃれとか、それなりのインパクトが必要なんすけど」
と、旺次郎は、流暢に答えた。彼にとって珍しいことだ。頷きながらも伊能は、軽く片方の眉毛を上げた。
「まあな。それこそ宣伝費いらないって言ってたもんな…。って、結構考えてるじゃん。あれぇ、仕事できたの~?」
突然目を丸くして、伊能は子供をあやすような声を出した。
「やめてくださいよ。初めて一人でリサーチしたんすから…。」
と、言われた彼は、顔を赤くしてまた口を尖らせた。
くくっと、堪え笑いをして伊能は楽しそうにからかっている。
だが、ふと真顔に戻った。
「…あれ?どうやって行った、運転出来ねぇのに。色々回ったみたいじゃん。タクシーか?結構かかっただろ、領主書ちゃんと出せよ」
「…いや、あの、まあ…」
旺次郎は急にしどろもどろになった。入社して2年目になるが、まだ、社会のノウハウも、仕事のノウハウも良くわからない。
特に何ができるわけでもないが、大手不動産の社長に付き、今回やっと調査を任されたのだが…。
「森田氏と行ったのか?」
「…はい。」
「なるほど…。今までの話は誰に聞いた」
「父の…知り合いという、組合とか後援会の方とかっす」
「水の話も?SNSの使い方とかは?」
「父が…アドバイスしてくれました。」
森田浩一郎、大きな政治団体の職員として活動し、国会議員の秘書や、関係団体の代表などを務め、最近、ある環境推進委員会の副理事へ任命を受けたらしい。
旺次郎の父で、俵直正の義兄、つまり、喜美江の兄だ。
浩一郎は優秀だった。
森田家の様々な事情をこなしながら、淡々と自身の学力を上げ政治の世界へ入った。結婚して子供を授かり、仕事も家庭も円満で、政治家や周囲の評価も高く、順風満帆な暮らしをしていたが、実は、仕事に没頭しすぎて家庭をないがしろにしてしまっていたようだ。それが原因で、一人目の妻とは離婚し、成人した子供たちと共に海外へ移住してしまった。寂しさの解消と跡継ぎ作成のため、二人目の妻との間にできた子供、それが旺次郎だった。
年齢が遅くなってからできた子供で、相変わらず忙しく仕事にかまけていたので、旺次郎がどんな子かよくわからない。要するに妻にまかせきりだったのだが、大学を出て、どこかの企業へ就職という王道へ進むだろうと勝手に思っていた。だが、悩んでいるようだ、助けてやって欲しいと、ある日妻が眉尻を下げて言った。
しょうがない、せめて就職くらいは自分が見てやっても良いだろう…。
と、国会議員のツテを使って紹介してもらったのが、伊能だった。
相手はどこかのパーティで知り合ったのだという。彼は優秀だ、新しいプロジェクトも始まるところで勢いもある、息子さんも安心だろう、と。
「お父様に頼りきりになるな。自分で考えろよ」
「悩んでたら、母ちゃんが…母が父に言って…。その辺りは知り合いも多いからって…」
「…それは…、ありがとうございますって、お伝えくださいよ」
しゅん…。
そう音が聞こえてくるくらい、旺次郎は肩を落として落ち込んだ。
その姿は、どこか自分の息子、陽彩(ひいろ)の子供の頃に重なって見えて、伊能は一人で恥ずかしくなった。親みたいな感情抱いてんじゃねぇよ、
と、自分に突っ込みを入れる。
全く俺も人が良いよね。
部下が父親を頼って仕事をしてるなんて、言語道断、いつもならすぐにやめさせている。が、強くは言えない。相手は政治関係者だし、国会議員を通して旺次郎はここへきてるし。国会議員とか、政治関係とか、いざというときに頼りになる。と、いうより…使えるかもしれない、一瞬、思ってしまった。
断ればよかったな、自分で見るんじゃなくて誰かに預けりゃよかった。なんとなく、放っておけない雰囲気の奴だったからよ…。
また、怒らせてしまった。
旺次郎は落ち込んだ。だって、一人で調査なんか良くわかんないし。
今の報告で良かったのか、父親を頼ったことは言わなきゃよかっただろうか、でも、嘘はつけない。すぐ顔に出るからだ。社長はパソコンで何かを調べ始めたようだ。一体、何をそんなにやることがあるのか。彼はいつも忙しそうに、様々な情報を仕入れ動いている。
もういいじゃん、社長なんだしさ。でっかいマンション建てて金もあるだろうに…。
旺次郎は、伊能のことをなんとなく心配している。
水か…。
新規事業計画でも水の問題が課題だった。循環させ、無駄遣いのないよう、環境に優しいを売りにしている建物は面倒だった。
いくらでも湧いて出るんだし、どうでも良いんだけどよ…。雨が降れば増えるし…。でも、降り過ぎて最近は問題になる。
日本だけではなく各国で洪水だの、逆に渇水だのとニュースにもなってきている…。立派な資源だとか、貴重なものだとか…。
資源…。
伊能は無言で手と目を動かし、増々集中し始めた。そうなると周囲は声をかけられない。旺次郎は、そんな様子をぼおっと、眺めていた。何をしたら良いのかわからなかったからだ。
電話も持たせてもらえない、パソコンもいじれない、運転もできない…。
なんで俺、ここにいるのかな…。
「え?五木不動産?」
大学時代の友人は目を丸くした。「おめでとう、すげぇじゃん」
そう言ってくれると思ってたのに、彼は、眉根を寄せて自分を睨んだ。
「お前、ほんっとにずるいな。なんだよそれ。馬鹿なくせに!」
すぐにわかったのだ、父親のコネだ、と。それでも、今まで一緒に勉強して来たし、出かけたり、女性関係も紹介したりして遊んだ友人なのに…。
その日から、あまり連絡が取れなくなった。就職活動に集中したいからという理由だった。
「君と違って、僕は優秀じゃないからね、五木不動産の森田様」
言い方に少し腹が立ったけど、しょうがない。まあ、いいや。みんなも大変な時だし。就職が決まったら機嫌も直るだろう。そしたら、お祝いしてやろう。何が良いかな…。
「え?良いの?じゃあさ、ブランド財布が良いなぁ」
「俺も、できたら靴が良いんだけど」
「良いね、スーツも買えちゃうよね、王子さまならねぇ」
友達だと思っていた。でも、それは自分だけで…。ことあるごとに金をせびられた。
バイトの給料前で…、持ち合わせがなくて…、親の仕送りが減っちゃって…。良いよ、俺出せるよ。それが、友人を助けることだと思っていたが、ある日、仲間内の女生徒が言った。
「王子くんさ、みんなに馬鹿にされてるんだよ、気づいてないでしょ。みんなお金持ってるし、陰で笑ってる。もう、おごったりしなくて良いよ」
「でも、友達だしさ…。困ってたら助けてやりてぇし」
「友達か…。う~ん。卒業祝いでみんなで沖縄行くんだよ?王子くん、聞いてないでしょ」
「え、聞いてない…まだ…」
「行っちゃダメだよ。旅行代とか、いろんなものせびられるよ。そのつもりだから、断りな」
「行きたい…。俺だって行きたいよ!お前勝手なこと言うなよ」
「お金を取る相手としか思ってないよ。気づきなよ!良い場所に就職決まったんでしょ?その研修があるからって、君たちとは遊んでられないんだって言ってやりな」
「…なんでだよ」
「ごめんね、王子。もっと早く…。あんな馬鹿な連中だって知らなかった。
あいつが好きだったから言えなくてさ…ああ、むかつく、あんな馬鹿に」
一番の親友…と思っていた男と付き合っていた女性だった。
彼女が就職活動を理由に会わないうちに、その男と彼女の友人が浮気して大騒ぎなったのは知っている。
「許してやってくれよ…。就活うまくいかなくて、あいつ悩んでたんだ。」
そう言って男を救ったつもりだったが、彼女は言った。
「…だから、何?じゃあ、私も悩んでたら浮気しても良いんだ。悩んでた?はあ?みんな同じような状況なんだけど。自分だけ不幸だなんて思ってんじゃねぇよ…」
なんて気の強い女だろうと思ったが、自分は悩んでる方じゃなかったから、何も言えなかった。後で良く考えたら、浮気した方が悪いんだし、彼女が許すってのは違うかもしれない。彼女は仲間内でも話したが、気づかないお前が悪い、あいつはそういうヤツ、だったら離れればいいのに。
お前も旺次郎と一緒だな…。周囲はそう言った。そこで、旺次郎へのくだらない行為を知ったのだという。
「笑ってんだよ。みんな、しょうもない顔して笑ってる。人が嫌な思いしてるのに、大学生にもなってさ。よし!私も沖縄行かない。だから王子も頑張って断って。あんなやつら捨てちゃお。」
実際に、彼女は沖縄へ行かず、その間に、全員のことを大学の掲示板に書き込みをし暴露した。旺次郎は慌てたが、今まで話したこともない学友たちが、良くやった、と声をかけてくれたので驚いた。どうやら、いろんな人間たちに恨みを買っていたらしい。
しかも、どこから伝わったのか、友人の内定した企業へ知られてしまい、取り消しや不採用になったと後から聞いた。彼らは、旺次郎たちのせいだと学内で騒いだというが、もう、誰からも相手にされなかった。
友達ができなかった…。
なんとなく卒業まで過ごした。彼女が時々就活の様子を伝えてくれたり、お茶に誘ってくれたおかげで、少し寂しさはまぎれたけど。
「いろいろ、サンキュ…。」
卒業式にそれだけ言った。彼女は、口角を少し上げて微笑んだ。
「うん…。大丈夫だよ。きっと、見つかるから。」
「…何が?」
「友達」
「…無理じゃねぇ?俺…バカだから」
「ううん、違うよ。人をいじめるヤツが馬鹿なんだよ。きっと現れるから。年齢も職業も、もしかしたら国も違うけど、なんか分かり合える人」
「…なんでそんなことわかるんだよ。占い師か」
「わかんないよ。でも、そう思ってた方が幸せじゃん。何も近くにいる同級生だけが友達じゃないよ。これから社会に出るし、世界が広がるじゃん」
と、彼女は晴れやかな顔で笑った。
ドキン
自分の中で鳴った音に旺次郎は驚いたが、彼女とはそのまま会っていない。ただの大学の同級生だ。女の人とか、彼女とか、あんまり興味がない。というか、付き合うことが良くわからなかった。
友人たちは、飲み会やサークルでパーティなどに良く行っていた。
自分も時には誘われて参加してはいたが、楽しくもないし、乗り気じゃなかった。後でわかったことだが、政治関係者の息子がいる、という客寄せパンダ的な役割だったらしい。
それでも、何人か関係を持った女性もいたが続かなかった。
会っていてもうまく話せないし、楽しめない。しゃべると馬鹿にされたからだ。子供みたい、と。
大概、何かプレゼントした後に離れて行く。誕生日、クリスマス、付き合って何ヶ月記念日…。ブランドのバッグや、アクセサリー、意味の解らない美容グッズ…。旺次郎は、そういうものなんだろう、と思って文句は言わなかった。けんかとか面倒くさいし、そんなんで喜ぶなら別に買うし、買えるから。でも、ある時、離れて行く女性に言われたことがある。
「お父さんは立派だけど、あんたは残念だね」
残念…?
大手不動産屋の社長は、自分を見て唇の端を少し上げた。色のついた眼鏡の奥の目は、ただ、怖かった。
やめてやろう、そう誓った。
と、いうよりすぐ首にされるだろうと思っていた。残念、なんだから…。
「旺次郎、って呼ぶけど良いか?」
「え…あ、良いっす」
「違う」
「え…と、はい」
「よし、そのあとなんて言うの?」
は?何だこいつ。偉そうな態度取りやがって。父ちゃんに言ってすぐやめてやろう。こっちから願い下げだ。
「名前」
伊能は尚も続けた。知ってるだろうよ、めんどくせぇな。旺次郎は、へっ、と腰を曲げ、笑いながら手をポケットに突っ込んだ。
なめられてたまるかよ、と…。
「なんなんすか?親父に言いますよ?あんたも会社も大丈夫すかね。俺は、どこにでもいけるんすよ、あの親父が一言いえば…」
左頬の衝撃が痛みに変わるまで、数秒かかった。自分が今どこにいて、どういう体制で、目の前にいる人物は誰だったか…。気が付くと床に横たわり、先のとがった、テカテカに光る靴が目の前にあった。
「な…んだこれ…?」
人に殴られることは初めてだった。どんなに悪口を言われても、けんかとかめんどくさいし、馬鹿だったけど、父ちゃんも母ちゃんも優しかったから…。顔が熱くて、心臓がそこにあるみたいにドクンドクンと動いている。
え?これ…ってなんだ?ジンジンして…なんか…
「い…ってぇ…ひぃ、いたい!」
「名前…言え」
「や、いやだ…なにすんだよ、マジで親父に…」
今度は太ももに、とがった靴がめり込んだ。
「い…って!痛い。ひえぇ、殺されんじゃん!もうやだ、帰る」
「おお、殺してやるよ。一人も二人も変わんねぇからな…ああ、三人目か」
と、言いながらゴロゴロろ転がりながら逃げる旺次郎を蹴り続ける。
死ぬ…死ぬ…三人目?助けて、親父…誰か。
気か付くとそこは、子供が遊ぶような、小さなカラフルな椅子と、大きなスポンジでできた積み木のようなものがあった。
小さいベッド?…。なんだここ?
「叫んでも泣いても無駄だ。防音だからよ、誰も来てくれねぇよ…」
死んだ…。俺死ぬんだ。こんなところで。なんで?何もしてねえのに、ふざけんな、まだ20代だ、死んでたまるか。どうすればいい…
今、何をしろって言われた?
「ももも、森田…旺次郎です!」
伊能の蹴りが止まった瞬間、おむつ替え用のベットの下に転がり込んだ。ここなら蹴られないかもしれない。旺次郎は必死だ。
「んで、なんて言うの?」
まだ続くのかよ!名前言ったろ!何を言えば良いんだ…。
小さくなり震えながら旺次郎は必死で頭を回転させた。
「K大出身、背はあまり大きくないです、でもでも、金はあります、親が政治関係だから…」
「知ってるよ馬鹿が、どうでもいい!」
「ヒェッ、だって、えっと…」
「出て来いよ。逃げてんじゃねぇ」
「イヤだ!嫌です。」
「やめんのか?ああ、初日で無理だったって?親父さん泣くな。息子をどうか、って頭下げて言ってたのによ」
親父…ああ、くそ!なんだよ、こんなヤツに俺を、こんな蹴ったりする…
「こ、こ、こんなことして良いのかよ、犯罪だろ?」
「何が?」
「殴ったり蹴ったり、しちゃダメなことだ!」
「だって、何もわかってない馬鹿なんだも~ん」
伊能は、へへっと、笑ったようだ。
「…は?」
なんだこいつ、マジでやべぇ奴じゃん。人をいじめて楽しんでやがる。
いてぇ、顔、いて…あ、そうだ。
「ひ、人をいじめるヤツが馬鹿なんだ!俺は馬鹿じゃない!俺だってわかる。こんなことしちゃいけないんだぞ、しゃ、社長だろ!知らないのかよ」
…。
伊能は何も言わない。部屋は静まり返り、ブィン、ブィン…。空調の音だけがわずかに聞こえるだけだ。
あれ…?
旺次郎は、ベッドの下からおそるおそる顔を出す…。もしかしたら、もういないかも…。その瞬間、ワイシャツの胸元をグイッと掴まれ、そのまま引きずり出された。
「わひ、ひい…ごめんなさい」
「違う…」
「ヤダ…こわい、もう隠れません!殺さないでください!死にたくね…」
身体をよじり、足をばたつかせ、旺次郎は思いつく限りの抵抗を試みたが、伊能の力はそれ以上だ。そんなに大柄な人でもないのに…。
殺される…母ちゃん…!
「よろしくお願いします!」
…は?
伊能が旺次郎の胸ぐらを持ち上げると、顔が30㎝ほどの距離に近づいた。
「本日より、こちらへ配属されました森田旺次郎です。どうか、よろしくお願いします。」
低く静かに、だが、威圧的に伊能は言う。
睨まれているし、息がしにくいけど…旺次郎は伊能を真正面で見つめた。
色のついた眼鏡は有名なブランドの物で、髪の毛は…緩いパーマ…、顔は…カッコいい系…。
「ほ…んじつより、こちらへ、はい…ぞく?された森田旺次郎です。よ、よろしくお願いし…ます」
伊能の、目を見つめて言っていた。
というより、目を逸らすことができなかったのだ。小さい頃、良く父親に取引先に連れて行かされた。建設業者、運送業者などだが、どこかの事務所に行った時、部屋の隅にタヌキや鳥のはく製があった。
旺次郎は、動き出しそうなそれらが怖くて、父親にしがみついていたら、そこの社長は、ひげが生えた口で笑いながら言った。
「はっはっは!おおちゃん怖いか?タヌキとキジだ。もう死んでるから怖くないよ。山には野犬とか熊もいるんだ、そんなことじゃあ、やられちゃうぞ。いいかい?もしそいつらに出会ったら、絶対目を逸らしちゃダメだ。その瞬間飛び掛かってくるから。相手の目を見ながら、ゆっくり、ゆっくり後ろに下がって逃げるチャンスを見つけるんだ…」
狩猟を趣味にしていると言った。山?犬?熊?なんでそんなところにわざわざ行くのか旺次郎にはわからなかった。
山なんか行かなきゃ熊なんていないし…。野犬?犬?チワワみたいの怖くないし、山にいるわけないだろう?と、子供ながらに思って、そんなことは忘れていたのだが…。
今、目を逸らしたらやられる。
本能的にそう思っていた。
「プッ…」
旺次郎の、チワワのような潤んだ目に、伊能は思わず噴き出した。なんだよ、そのキュルキュルした顔は、アイドルか!
ああ…もういいや。伊能はバカバカしくなって、旺次郎を放った。
「情けねぇ顔してんじゃねぇよ…。良いか、取引先、会社の連中、山ほど敵がいるからな。挨拶も出来ねぇ奴と一緒にいるなんてのが噂になったら、お、れ、に、傷がつくんだよ。覚えとけ!おい、こいつに社会のマナーとやらを教えてやれ」
と、言って伊能は部屋を出て行った。最後は秘書のような立場でいる女性に吐き捨てて…。
「森田…さんですよね?よろしくお願いします。」
女性社員は丁寧に頭を下げる。その姿がきれいで、旺次郎は驚いた。こんな俺にまで?若いし、そんなに年齢も変わらないだろうし…。社会人てのはこれが普通なのか…。
「はぁ、めんどくさ…。」
そんな、旺次郎を横目に、明らかにイヤそうな顔をして女性がため息をついた。
「え?」
「ああ、いえ、なんでもございません。まず、すごいですね。社長直々に教えてもらえるなんて。」
少し口角を上げ、きれいな姿勢のまま女性は続ける。旺次郎は少し息ができるようになった。
「…ああ、まあ父ちゃんが…」
「はい、この業界でトップを目指したいと熱望しておりまして、どうかここで働かせてほしいと、父親へ頭を下げました。」
「…は?」
「その後、お父様はどういう…と聞かれてからお話してください。勝手にぺらぺらしゃべらないように。」
「だって…嘘じゃん」
「嘘ではありませんか」
「嘘じゃないすか…その後話が続かねぇし、なんて言うんだよ。無理だよ」
「続かないですよ、です」
「めんどくせえな。もういいよ。俺、馬鹿だから出来ない。帰って父ちゃんに言うわ…」
「しかも、社長とどこで知り合ったとか、コネだとか!一切言わないでください。噂は広まり、社長の立場が悪くなります。あなたが言うのではなく、社長が言います。言っても良い相手、知られては良くない相手、社長が判断しますので、あなたは自分から言ってはいけません」
「なんで?俺の唯一の武器じゃん。親父が政治関係者、だからここにいるんだよ」
「…武器?」
女性は、奇麗にメイクされた上品な顔を旺次郎へ向け、ぎろり、と睨んだので、うっ、と、旺次郎はたじろいだ。やられる…。本能的にそう感じた。
「何が出来ますか?」
「…は?」
「パソコンは得意ですか?」
「できない。じっと座って何かするのが苦手だから…」
「スマホは見ませんか?読書は?」
「ゲームはやる…。本も、まぁ読める」
「なのに、なぜパソコンはできないのですか?じっと座って作業をするという意味では同じです。できないんじゃなくて、やろうと思ってないだけです。勉強してください」
なんだこいつも、ヤな奴じゃん。勉強?だって学校じゃないし…。
やろうと努力してきたつもりだ。学校も行ってたし、授業も聞いてた。
ただ、ノートがうまく取れなかった。
黒板の文字がうまく読み取れないのだ。歪んだり、二重、三重に重なって見えたり、写そうとしてノートへ向かうと、人の何倍もの時間がかかって、黒板が消されてしまい写せなかった。
親に言う前に友人に相談すると、馬鹿なんだよ、の一言で終わった。
なんでわかんないの?そんなこともできないんだ、簡単じゃん…。
小学校では何とか乗り切ったものの、中学では如実になり、もう、ノートを取ることは諦めた、というより学校を諦めたのだ。
チカチカ へ続く