ひとりひとりが北極星
いわゆるプロの表現者ではない、わたしのような「普通の人」が表現するということはどういうことか。最近考えている。そんなとき、先日読み終わった『忘却の野に春を想う』にこんな一節が出てきてハッとした。
「ねえ、おまえ、よっぽど気をつけないと、求心力の虜になっちまうよ」
そのあとにこんな一節も出てくる。
「「声」は場を開くものです。「うた」には神が宿るものです。無数の「うた」は無数の小さき神々を呼び出して、それは無数の世界の可能性を拓くでしょう。だから(略)きっと私たちひとりひとりが歌いださないといけない。私たちひとりひとりが歌の主にならなければいけないでしょう。」
私たちは油断すると「大きな声」に吸い寄せられて、気が付くとそれに縛られて身動きできなくなっているように思うのだ。求心力に身を任せ、自分も中心側にいると感じることは、一見楽で安心に見える。でも、求心力の虜になるということは、自分を失うことと同じだということに気付く必要があるのではないか。「大きな声」に私の全身が侵されていき、全てを乗っ取られていいのか。
求心力に対抗する遠心力が「表現する」ということではないだろうか。「わたしはわたしである」と表明することで、求心力から逃れ、独自の立ち位置を見出す行為。それが、「うたう」というではないだろうか。「うたう」ように表現することで、「わたしはわたし」でいられるのではないか。
しかし、表現することは怖い。怖いのはなぜか。そこには、特別な人しか手を出してはいけない、という思い込みがあるのではないだろうか。誰かが受容してくれる、どんな稚拙な表現でも、「それでいい」と言ってくれる人がいるということは、表現を開放するための重要な要素である気がする。わたしたちは、ひとりひとりが表現者であると同時に、表現者を受容する人である必要もある。思い出すのは、podcast超相対性理論で、渡辺康太郎さんが明かした「夏の思い出」の話(第82回弱さを探索する(その4)残り6分くらいから)。
軽井沢の先輩の別荘に行った康太郎さん。夜、あいにくの曇り空から一瞬見えた満天の星々に感動する。そのときのことをこう語っている。
「で、ポイントは、あの、僕たちは普段からおっきな目立つ星に注意を向けてるっていう、都会にいるとね。で、空を見上げた旅人、僕みたいな旅人が、「あっ」と言うのは、むしろ暗い星々があるっていうことに「あっ」と言ってるんだよね。明るい星じゃない。それは、つまり、暗くても無数に集まって輝いてるっていうその無数の、無名の星々が、僕を「あっ」と言わしてるんだと。だからー、なんかこう、偉大な物語に触れたいっていうよりも、無数の群になってしか認識されていない1個1個に名前がついていないものに、なんか感動するような人生でありたいなっていうのをちょっと思った。その時。」
まさに、「それでいい」と受容してくれる態度。これだなって思う。自分が表に出したいと思ったことを素直に表現すること、その小さき営みを受け入れて礼賛すること。それこそが、「大きな声」に吸い寄せられて、自分を見失うことから抗う「遠心力」になるのではないか。
求心力の虜になるということは、自分が中心の一部であるという勘違いにもつながる。中心と辺縁、マジョリティとマイノリティの分断に加担していることでもある。そうならず、ひとりひとりが自分のいばしょを確保するためには、求心力に抗う遠心力としての「表現者」となることが必要ではないだろうか。
無数の「うた」でいい。無数の星々でいい。一人一人が北極星になって、一人一人が宇宙の中心であること。
素直に「表現する」こと。そして、「表現」を受け入れること。生きづらい世の中を救うのは、そんなことではないか。