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『半径2mのしあわせ』~ぼくのしあわせが、ほんの少し君に伝わるなら~
みなさんこんにちは。この文章は、「しあわせとは何か?」を日々考えているぼくが、その想いを真剣に言葉にしようと試行錯誤した軌跡です。
初回の今日は、noteに投稿するに至った今の気持ちを綴ります。
そもそも「しあわせ」とは何でしょう。人それぞれ定義があるのではないでしょうか。ぼくが考えるしあわせとは、
「ありのままの自分でいること」
いつでも、どんなときも、嘘偽りのない自然体の自分でいること。それができることが、「しあわせ」であり、それを目指して日々直面する困難に向き合っているように感じます。では、
「ありのまま」とは一体なんなのでしょう?
それを知るためには、自分の内面と向き合わなければいけないと、ぼくは思っています。それもちょっとやそっとの内面ではありません。それは、深い深いこころの奥底に眠る、純真無垢な泉のようなものです。誰にも汚されたくない、無意識下の神聖な場所です。この話は、追い追いしていこうと思いますが、「ありのまま」を知るためには、ある種の努力が必要だと思っているのです。ぼくにとっての努力は、「聴くこと」です。
「ありのまま」を知るために「聴く」
何故、「聴くこと」がありのままの自分を知ることになると思いますか?
皆さんは、人の話を本当の意味で「聴いた」ことはありますか?基準は、話し手が、心の底から「聴いてもらえた!」と思えたかどうかです。これは本当に難しいことです。自分が話し手になった時のことを思い返してみてください。聴いてもらえたと満足した経験がどれだけあるでしょう。
話をするという行為は、自らをさらけ出す行為です。内面にあるものを言葉にして表現する。発せられた言葉はその人の分身のようなものです。話を聴くということは、その分身を「そのまま」受け止める行為です。受け止めることすらしないのは論外として、自分の内に取り込んで、変換してもいけないのです。あくまでも「そのまま」です。だから難しい。
相手の「そのまま」を受け止めるためには、自分の「ありのまま」を知っていなければいけません。人間誰しも偏見というものを抱えています。いわゆる「色眼鏡」です。どうしても自分色で見てしまうから、「そのまま」受け止めるのは難しい。しかもその色は、無意識下で規定されているから自覚できないのです。
「聴くこと」で、自らの偏見に気付く
本当に聴こうとしたとき、はじめて「聴けてない」自分に気付きます。相手が発した分身を撥ねつける何かの存在に気付くのです。「自分だったらこうするのに」「理解できない」など、素直に受け止めることのできない感情は、まさに自分の偏見の正体です。「聴くこと」で自らの偏見に気付き、まずは自分の偏見を受け止める。そしてその先には、神聖な泉につながる道が続いています。
偏見は、神聖な泉を守る門番
偏見とは何でしょう?それは、生まれてから今までに身につけてきた「自分はこうあるべき」という、ありのままの自分とは違うこだわりのようなものではないでしょうか。そう、ありのままの自分ではないのです。ありのままの自分は他人には理解してもらえない。実際にそんな経験を積み重ねるうちに、理解してもらいやすい偽物の自分を作り上げる、それが、偏見ではないでしょうか。生きながら偏見は強固になり、神聖な泉は自分でも見えなくなってしまうのかもしれません。偏見という門は、自分だけでは開くことができません。他者の力を借りる必要があるのです。だから、ぼくは「聴く」のです。
言葉にして表現することの意味
こんなことを毎日のように考えています。はっきり言って他人にはどうでもいいことです。だけど、「どうしても表現したい」と叫ぶ自分がいて、葛藤していました。そんなとき、批評家の若松英輔さんの言葉に出会いました。
「不思議なことだが、真剣に書くことによって、その取るに足りないはずのことが、新しい意味を持つようになる。生まれてきた言葉が、自己の関係を強め、他者とのあいだを架橋するのである」
ぼくは世捨て人ではありません。他者とつながっていたいという、当たり前の欲求もある。もしもこの文章が、他者とのあいだを架橋するならば。たった一人のこころに橋を架けるなら、書いてみてもいいかな、と思ったのです。
最後まで読んできただきありがとうございます。
次回は、半径2mの意味について書いてみたいと思います。
つづく