おばあちゃんのおひざもと
まえがき
おばあちゃんの両親は明治時代、三重県志摩町片田村というところで生まれました。私も小学生の頃おばあちゃんと一度、そして最近になって再び訪ねたことがあります。都会とは無縁な小さな漁村ながら伊勢神宮のおひざもとで、古代から神宮の年中行事毎に鰹や鯛などの漁獲物を献上してきたと聞きます。
今回、おばあちゃんの両親の育った片田村について調べるうちに、ある興味深い事実を発見しました。
この片田村に明治の更に前の時代、慶応元年(1865年)に伊東里き(Ito Riki)、という女性が誕生しました。医師の子供で、小さい頃から和漢の書に親しみ、何事にも積極的で、男勝りな性格の娘であったという記録が残されています。あだなは「おりきさん」だったとか。このおりきさんが、東京で勉強するの兄の世話をするため上京中に、横浜の関内に遊びに行った折り、アメリカ人の落とし物を拾い、そのお礼に夕食をごちそうになったことが、彼女がアメリカへ渡るきっかけとなった、という通説があるそうです。彼女はこの時からアメリカに興味をもち、メイドとして横浜在住のアメリカ人の家庭で働くようになる。そして24歳の時、仕えていた海軍大尉の一家がアメリカへ帰国することになった際、誘われたのか、申し出たのか、一緒にアメリカへ行く事を決める。時は明治22年、1889年のことです。アメリカで白人男性と結婚。長女モヨを出産後、5年の年月を過ごし、相当の富を築いたおりきさんは、明治27年(1894年)、娘のモヨを連れて日本へ帰国、片田村へ戻る。
「村の人々は、垢抜けし、生き生きした顔立ち、すっかり身につけた洋服の着こなし、会話の端々に英語の混ざる喋り方など、片田を出た当時とは見違える女性となって戻ってきた里きに驚嘆し、その評判は村外まですぐに広まった。里きは、村の人々に、アメリカの生活の様子を詳しく話し、中でも「アメリカでは労働賃金が高く、まじめに働けば相当な貯蓄ができる。」という話に村人は魅了された。この話を聞いてアメリカへ行く事を希望した7人(男性3人、女性4人)を連れて、里きは明治28年(1895年)、再び今度は神戸港からサンフランシスコへ渡った。一緒に連れて行く7名にかかる渡航乗船料は、全員分里きが負担した。7人はサンフランシスコへ上陸後、しばらくしてから、男性陣と女性陣に別れ、男性はサンフランシスコに残り、女性はサンタバーバラに移って、それぞれ白人家庭で働き始めた。サンタバーバラへ移ったのは、当時サンタバーバラ郡で農業を営む日本人が多かったからである。各人は労働で得られた収入をそれぞれ片田村に送金し始め、その額は平均して一人年間300円にも上がったそうである。これをきっかけに、片田村では、里きを頼ってアメリカへ移住する人が急増した。その結果、片田村は『アメリカ村」と呼ばれるよになった。この動きは国策で移住した移民とは異なる潮流であり、移民斡旋業者にも頼らない、他の都道府県には見られない特異な現象であった。
片田村からの移民が片田郵便局に送金した額は、明治時代末期から大正時代初期にかけて、当時の片田村の予算の3倍に達したという。また片田村出身のアメリカ移住者は、昭和17年(1942年)の調査では232人で、片田村(当時の人口は約4,000人)の20人に1人が渡米している計算になる。移民らはアメリアに移った後も、故郷の片田村を気にかけ、明治36年(1903年)には八雲神社の鳥居、石垣の建立代として、里きが8円、里きに伴われて渡った7人のうちの1人である脇田きぬが5円を寄付している。」(伊東里き ー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より参照)
おばあちゃんの両親、親戚はおそらく、この伊東里き-おりきさんを頼って片田から渡った移民の仲間なのだろうという推察は、そう外れていないと思います。
おばあちゃんは、こういう歴史を背景にサンタバーバラで生まれたということを知る事は、孫として大変興味深い発見でした。
時代のロマン、精力的なヴァイタリティー、夢、希望、ひたむきさ、そういった精神の一部が自分の中にも綿々と引き継がれていることをひしひしと感じます。
高祖父母(ひいひいおじいちゃんたち)の時代から、曾祖父母(ひいおばあちゃんたち)、おばあちゃん、お父さんお母さん、私たち、そして私たちの子供達、孫、ひ孫たちとの子孫たち。このように命が広く長く繋がっている、そしてそれぞれが人生の流れの中で生きている、ということに深い感慨を覚えずには入られません。
この本を大好きなおばあちゃんの霊魂に捧げます
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