セナのCA見聞録 Vol.2 訓練 - 不調
週末はたいていトレーニングフライトが入っていました。
まだ制服が支給されていない段階なので、私服に訓練生用のIDカードを首からぶら下げての乗務。
アメリカ国内の様々な場所へ日帰りで飛び、ブリーフィング(出発前のミーティング)から実際の機内サービス、到着までを実地で経験しました。
シカゴから一時間くらいの近い所へ飛ぶときもあれば、西海岸のように5時間近くかけて飛び、そのままとんぼ帰りで戻り夜中にタクシーで帰ってくる人もいます。
私の初めてのトレーニングフライトはペンシルバニア州のフィラデルフィアでした。お客様に質問されることひとつひとつに対し、何も答えられなくて、全部乗務員に質問攻めという、なんともお粗末な仕事振りでした。
行きのフライトでの出来事
乗客の搭乗中に機内の窓際上部の照明部分からシューッと白い蒸気のような煙が出ていて、その真下に座っているお客様から「この煙は何ですか? 大丈夫なんですか?」と質問されました。
私は自分自身がその煙を見て不安になってしまい、異常なのだろうか、火事ではないだろうかと内心ハラハラしながら「少々お待ちくださいませ。ただ今確認してまいります。」とその場を離れ乗務員に聞きに行きました。すると、「このエアバス機種にはよくある結露で、特に外の気温の高い夏場にはエアコンを入れるとよく起こるものだから、全く心配することはないわよ。」と言われ、まず私が安心し、その情報をお客様にまたそっくり伝えるといった具合でした。
この直後にはもっとびっくりしたことが起こりました。
通路を機内後方に向かって歩いていると、既に着席している若い男性客から「すいません、今日の機内映画は何ですか?」と聞かれました。「えーっと、」とポケットからメモを取り出して確認しようとした瞬間、突然その男性がひくひくと大きく痙攣を始めたのです。はじめは「ハー、ハー」とオーバーアクションで大笑いでもしだしたのかと、「何?」とは思いながらもさほど気にもとめず、映画のタイトルをチェックしていたのですが、その間にも瞬く間に全身を海老のように前後にそらせ、ひどい痙攣発作に発展し、私はすっかり気が動転してしまいました。
第一発見者となってしまった私は、すぐに一番近い機内後方のギャレーに走り、「大変です、54Bの席でお客様がひきつけを起こしました。」と乗務員に報告し、それからはドキドキしながら経過を見守りました。付き添いの窓際に座っていた中年の女性は、この男性がひきつけを起こす持病を持っていることを十分に承知していたらしく、特に慌てた様子もなく至って落着いていて、衣服をゆるめたり枕を頭の後ろにあてたりして介抱していました。数分して様子が落着つくと、付き添いの女性はこの若い男性とゆっくり会話を始めました。そして私達乗務員に「実はロサンゼルスを出るときも一度起こしたんです。今日はこれで二回目なのです。」ともらしました。結局この男性客は救急隊員によって機内から外へ運び出され、飛行機は遅れて出発しました。
制服を着て初めてのトレーニングフライトはフロリダ州のオーランドでした。
早朝のフライトです。朝4時前に起床し、5時半にはコンピューター室でこの日のフライト情報を印刷しました。睡眠時間は三時間ちょっと。まだ眠っている同室の子を起こさないように気を付けながら、元気に真新しい制服に着替えました。六時に訓練センター側で手配してくれたタクシーで空港に向かい、車中きれいな朝日を眺めながら、私は初めて制服を着て仕事をする嬉しい気持ちに明るさが増したように感じました。
一ヶ月も過ぎたある日、朝目が覚めるとどうも調子が良くありませんでした。
それでも普通どおり授業に出席しましたが、10時をまわったころから頭痛がひどくなりました。その日は救命ボートの使い方を教わる日で、私はボートを取り囲んでメモを必死でとっている皆のじゃまにならないように、近くにいたクラスメートの背中に隠れてしゃがみこみ、教官の目にとまらないように休ませてもらいました。
どうにか一日の授業を終え、夜になって熱を測ると38度ほどあり、頭痛もまだとれませんでした。心配した友達が教官に電話連絡し、明日は午前中病院へ行くように、ということになりました。
翌朝、私は一人でタクシーに乗って指定された病院へ行って診察を受けました。
診察室にお医者様が現れて、「どうしましたか、今日は?」と口を開いた瞬間、なんと私はその場でしくしくと泣き出してしまいました。自分でも驚くばかりでしたが、どうしようもなく泣きたかったらしいのです。シクシク泣く私に困惑したお医者様は部屋を一旦退出し、コーラを持って戻ってくると、「これを飲んで少し落ち着きなさい。」と私に渡しました。私は「Thank you.。」と有難く頂戴しながらも、「なんで具合が悪い時にコーラなの。」と苦笑いがでました。
単に心細かったのだと思います。お医者様の「どうしましたか」というごく当たり前ですが、いたわりの気持ちを感じられる一言にピンと張っていた気が緩んだに違いありません。しばらくして落ち着いたところで診察してもらうと、おそらく目頭にプチっとできている局所的な帯状疱疹、ヘルペスが原因だろうと言われました。専門医を照会するのでこの眼科の先生に再度診察してもらうようにと言われ、その日は訓練センターへ戻りました。
翌日の午後には第二回目のTK試験が控えていました。私は訓練センターへ戻ると、教官に診察の結果を報告するため、職員室へ出向きました。私の話を聞き終えた教官ダニエルは「明日のTK試験は延期してもいいよ。一週間遅れて始まったクラスに来週から編入できるよう手配をすれば、卒業も一週間遅れるがCAになることはできる。明日の朝、眼科へ行ってそのまま午後の試験を受けても構わないが、もし体調が優れないせいで試験に落ちたら日本へ帰らなければならないよ。そんなリスクを負ってまでもTK試験を受けるかい。どうする?」と判断を迫りました。
私は迷いましたが試験は明日で、いつまでも悩む時間はありません。体調は万全ではありませんでしたが、それよりなによりも今一緒にがんばっている同期とどうしても一緒に卒業したい気持ちが強い私は、「結果は全て私自身の責任です。リスクを承知の上で明日の試験は受けさせて下さい。」とお願いしました。
翌朝眼科の先生に診察してもらうと、昨日言われた通り帯状疱疹だと診断されました。処方箋をもらい、薬局で薬を買ってからタクシーで訓練センターへ戻る途中、踏み切りの前で遮断機が降りました。スムーズにまっすぐ帰ったとして、ちょうどお昼休みの始まった頃に寮に戻る予定が、この列車のせいでお昼休みの終わる時間に戻ることになってしまいました。
アメリカの電車がこんなに長いとは知りませんでした。貨物列車だったのですが、何百車両あるのか分かりませんが、通過し終わるまでに15分以上もかかりました。「なんでこういうことっていうのは、いつも急いでいるときに起こるんだろう。」とタクシーの中で私は手に汗握る思いでじれったく列車が通過するのを待ちました。
ようやく寮に戻ると、もう皆バスに乗るために階下へ行っていて、部屋には誰もいませんでした。私は大急ぎでテキストと筆記用具をかばんに詰め、バスへと直行しました。ぎりぎりで間に合いました。12時半きっかりにバスは出発しTKセンターに到着すると、私は自動販売機でアイスティーとクッキーを買い、喉に押し流して試験室へ向かいました。そして頭痛を抱えながらテストを受けました。結果はその日のうちにすぐに出て、全員が合格しました。
訓練期間中に辛い思いをしていたのは私だけではありませんでした。同室の子とうまくなじめないとトレーニング半ばで日本へ帰りたいと泣き出した子もいましたし、トレーニングフライト中に怪我をしてしまい、日本へ帰って治療をすることを余儀なくされた子もでました。その度に皆で助け合ったり、励ましあったりして乗り越えてきたことでチーム中にある種の連帯感が育っていきました。短いようで長い、長いようで短い慣れない共同生活、そしてきついスケジュールのなかにあってはいろいろな面で不調をきたす場面があったのです。私は何度、成田を出発する前に送ってくれる車の中で、「九割終えて半分来たと思いなさい。」と最後まで気をぬかないように諭してくれた父の言葉を思い出し、自分を鼓舞したことかわかりません。