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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」7

日本初のエスプレッソコーヒー?

 終戦から、日常を取り戻しつつあった丸福珈琲店。街はまだ復興半ばといった、一九四八年(昭和23年)頃、貞雄氏は大きな買物をした。「先代は何でも第一号が好きでしたから」と言う英子氏に聞くと、意外にもエスプレッソマシンだという。知り合いの商社から話を聞いた貞雄氏は、当時にしておよそ100万円を惜しげもなく投じたのだ。珈琲自体が貴重であり、ましてやエスプレッソなど言葉すらまだなかった時代である。”日本で初めてエスプレッソマシンを置いた店”になっていたかもしれないが、残念ながら、ガスの供給が少なかったり、水圧が足りなかったりで、実際の営業では実現することはなかった。「その時にうまくいってたら、今の抽出器具は使ってなかったかも知れないですね」と英子氏。若い頃から機械いじりに没頭した貞雄氏だけに、この新奇なマシンに強く興味を惹かれたのも頷ける。   

 ところで、エスプレッソマシンこそ導入できなかったが、終戦直後から店を訪れていた新国劇のスター・辰巳柳太郎氏は、店内に陳列してあるデミタスカップでよく珈琲を飲んでいたとか。「うちの味は、感じとしてはエスプレッソですよ。泡こそ出てこないですけどね」とは英子氏の評。丸福独特の濃厚な珈琲のファンだった御大、来るたびに違うカップでじっくりと味わっていったそうだ。

丸福店内ヨコ - コピー

多忙を極めた従業員住み込み時代

 閑話休題。店を再開した翌年、一九四七年(昭和22年)頃に英子氏の伯父が復員。貞雄氏夫婦と3人で店を切り盛りしていたが、店が大きくなるにつれて従業員も増えていった。「その頃は従業員もみんな住み込み。男女共々、多いときは15人くらいの大所帯で、正月もお盆も一緒でした」と振り返る英子氏。自身も高校に通いながら、下校したら店の手伝い、従業員が出かける時には常についていく…友達と遊ぶ約束などしようものなら、貞雄氏の叱り声が飛んできた。「自分の家の仕事は手伝いに来るのが当然という感覚。他所さんの子を預かってるから、私が見張り役みたいなもんで、好きなとこに行けるとかはなかったですね」。宿題なども店ですることが多かったようだが、英子氏にとって心強い味方だったのが、当時、大学生だった、化粧品メーカー・マンダムの会長・西村氏(故人)。「勉強も店の合間を縫ってするもんだから、そこへ“やったろか?”と寄ってきて教えてくれた。家庭教師みたいね(笑)」。彼も、この後、亡くなるまで本店に通った常連の一人だった。
 とにかく忙しかったということもあるが、従業員は募集したわけではなく、いわゆる丁稚奉公で修業に来た若者たち。遠くは名古屋や東京から、多くは喫茶店の跡取りとして、貞雄氏に託されたわけだ。ちょっと変わったところでは、鳥取の寺の住職から紹介された中学を出たての少年もいた。「これが真面目な子で。誰より早起きで、一日中仕事の虫みたいによう働く。父も感じるところがあったようで…今の私の妹の旦那です(笑)」。

 この間、かつての活気を取り戻した店は、相次いで移転した隣接店から建物を譲り受け、フロアを徐々に拡張。結局、実に6軒分の建物がつながって、一九五七年(昭和32年)頃に現在と同じ床面積まで広がった。「なんや目まぐるしくて、20年ぐらいアッという間に過ぎて…」と振り返る英子氏。一九五八年(昭和33年)には自身も結婚。住み込みは15年ほど続いたが、伊吹家にとって慌しくも、最もにぎやかな時代だったかも知れない。
 ちなみに、一九六〇年(昭和35年)頃、 丸福珈琲店は貞雄氏の故郷・鳥取に出店*1。この時、責任者として当地に赴いたのが、先回で登場した、ご近所の真鍋さんだった。おそらく、終戦後、鉄道会社を辞して商売を転々としていたのを知って、誘いをかけたのだろう。その真鍋さんはすでに亡くなられたが、今も2代目がしっかり跡を継いでいる。(つづく)

*1 鳥取の丸福珈琲店は、惜しくも2014年に閉店。その後、2016年に『鶴太屋珈琲』として復活。照明器具や棚などの調度品は以前のままに受け継がれている。

(『甘苦一滴』7号から一部改稿)

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