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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」5

いち早く戦後の渇望を満たした”本物の珈琲”

 焼け野原になった大阪の街は、まさに絶望的な光景だったことだろう。ただ、その中にあって、奇跡的に貞雄氏の自宅と今池の店が残っていたことだけは、唯一“希望”と呼べるものだった。

 終戦を告げる玉音放送を聞いてから2カ月後、貞雄氏は何より心配していた家族を迎えるべく、疎開先へ向かった。当然、電車の切符など取れる状況ではなかったが、そこは元南海電鉄の職員だった真鍋さんがいる。伝手を頼って、闇切符を入手できたのだ。幸いにして全員無事に大阪駅へ帰りつき、大八車を押して今池まで戻る道のりが、伊吹家の新たな日常の始まりとなった。そして、戻ってきたのは家族ばかりではなかった。一緒に疎開させていた店の物資がまだ残されていた。その到着を待って、丸福商店は暗幕を取り払い、いち早く再開した。

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 終戦直後といえば、まともな珈琲などもちろんなかった。巷では大豆などで代用(通称トーヒー)していたなか、丸福には本物の生豆が大量にあったのだから、珈琲に飢えた客の押し寄せる勢いは凄まじかった。店の前には長蛇の列ができ、近所の西成警察署から警官が人員整理に来たほどだったという。「私が中学1年生くらいだったかな。列の最後尾に札を持って立つんですね、“ここで終わり”と。キリがないでしょ。けど、父が“いつまでたっても終わりがこうへん、どないなってんねん!?”となって見にきた時、私はどんどん列の後ろに回されて、ずーっと後ろの方までいってしまってた(笑)」。まだ自由に食料を売買できず、なにもかも統制下だった当時、人々は珈琲だけでなく、食べること全てに渇望していた。店には砂糖もあれば、バターやジャムもあるとなれば、この騒動もうなずけるというものだ。

  中には抜け目ない者もいて、丸福で抽出した後の珈琲カスをもらいうけ、ミルクホールで使ってひと商売していたという。「ミルクコーヒという形で新世界でしてはったのが、よう流行ったという話ですよ。また、うちの豆ガラは後からでもまだよく出るんですて。そんな風に使えるから、捨てる前に別のところにまとめてあげてた」。現在では、そんなことは保健所が許さないだろうが、戦後という時代では使えるものは何でも使うのが当たり前だった。

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焼け野原で出会った心機一転の場所

 そんな状況だから、貯えていた物資もすぐになくなる。そこで貞雄氏は、神戸に住む華僑を頼って、砂糖などを買い付けていた。当時、山の手にあった中国人街を訪ねるたび、「なぜか分からないが、とにかく彼らは何でも持っている」と英子氏の幼心にも強烈に印象に残っているという。「片言でね、“イブキサン、ヨクキタネ”とか、“キョウハイクラモッテイク?”みたいな感じで、持てるだけ分けてもらって。後から聞いた話だと、子供がついていくと警察があまり疑わなかったらしい。だから両親が交互に行くたびに私がついていって、結構、砂糖が重いんですけど、でも何食わぬ顔して手にぶら下げてね」。まさに戦後史の知られざる一面を知る思いである。貞雄氏がどこでそのような取引先を持ったのかは分からないが、商売に厳しい華僑の人々を相手にしても、その信用は揺るぎないものだったようだ。

 そうこうしながら丸福商店は戦後すぐに営業復帰したが、敗戦という一つの区切りに立って、貞雄氏は改めて店が少々小さすぎることに思い至る。そもそも、とにかく賑やかな盛り場ですぐに商売が成立つという条件だけで決めた場所だ。多忙にかまけていたが、「ここは生涯商売する場所じゃない」とは意識の片隅にあった。それが、この再開の時期に実感として現れたのだろうか、彼が焼け野原をうろうろしてたところ、たまたま売りに出ていた10坪ほどの元料理旅館の土地を、持主に譲ってもらうことになった。その人柄にもよるのだろうが、運も併せ持った人なのだろう。そこに建てられたのが、現在の『丸福珈琲店』の千日前本店である。東京のカフェ『ギンレイ』から二度の移転を経て、私達の知る「大阪の丸福」が居所を定めたのは、まだ終戦から間もない1946年(昭和21年)のことだった。(つづく)

(『甘苦一滴』5号から一部改稿)



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