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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」8

創業者を支えた夫人の愛すべき人柄

 少年時代の丁稚奉公から戦争を経て、現在へとつながる『丸福珈琲店』の地歩を築いた貞雄氏。その行動の端々に、根っからの商売人、職人気質がうかがわれるが、彼に負けず劣らずの働き者だったのが、なお伊夫人かもしれない。話は少し逸れるが、創業者を支えた夫人についても触れておきたい。
 娘である英子氏によれば、母親を一言で表すなら“純真・無垢”。「今時、どこかにいたらお目にかかりたい、と思うくらい優しくて、かわいらしくて。文句一つ言わない従順な人でしたね」。子供時代は叱られたこともなく、大らかで、ちょっと天真爛漫な性格だったという。貞雄氏が下世話な話をしても、「なあに、それ?」とおっとり聞き返され、「2回言うもんちゃう!」と言った本人が逆に照れるような始末。店を拡張するにあたっても、石橋を叩いても渡らない貞雄氏に対して、「せっかくだから、どうなの?」と問う夫人の言葉で、結局3軒隣の店まで譲り受けたそうだ。

 それこそ夫婦喧嘩など全くなかったそうだが、貞雄氏が勝手に怒りだすことは日常茶飯事だったとか。そんな時、彼は店を飛び出し、決まって神戸へ出かけた。「 “どこへいらっしゃるの?”と聞く母に、“いちいち聞くな”って言って、勝手に出て行くんです。月に何回かありましたね」と振り返る2人のやり取りは、英子氏にとって忘れられない思い出になっている。ふらっと出かけた貞雄氏は、何をするでもなく街をうろうろして、楠公さん(湊川神社)の境内のベンチにごろりと寝転がる。空をジッと見ながら反省して、大阪に帰ってくるのが常だった。「何時間か歩いたら気持ちが収まったって、まあ我が儘ですわね。その間、母は死にもの狂いで働いてるんですよ(笑)」。

 まだ今池にいた時代、2人で切盛りしていた店はお客の列ができることも珍しくなかったが、残ったなお伊夫人は全て一人で対応していたわけだ。それでも、反省しながら帰ってくる主を咎めることはなかった。バツの悪そうな顔を見ても、 “あら、お父さんお帰りなさい、どこ行ってらしたの?”と、笑みさえ浮かべる。貞雄氏が、“忙しかったんやな~”と言うと、“まあ、暇よりいいわよ”といった具合。「傍で見てて、”エーッ!?”となったけど、それで余計に反省するんですって。私なら絶対、怒鳴るけど(笑)」。頑固者ゆえ、その時は素直になれなかった貞雄氏だが、“うちはやっぱり、お母さんが偉かったかな…”と後年、よく英子氏にもらしていたそうだ。

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常連客にも親しまれた着物姿の女将

 神戸は伊吹家にとって思い出深い土地ではあるが、そもそも貞雄氏にとって、お気に入りの街だった。「怒った時だけでなく、父は本当に神戸が好きで、よくふらっと出かけてましたね」と言う英子氏も、両親の仕事中など、たびたび神戸にいくことがあった。日本有数の港町で、大阪にはない異国の雰囲気に触れられるのも魅力だったのだろう。当時、『上島珈琲』と取引していた関係もあり、神戸を訪れると好物の中華料理を食べ歩いたり、骨董屋回りをしながらさまざまな場所を見て歩き、自らの肥やしにした。本店に置かれているデミタスカップや調度品なども、その折に収集した品が多いという。

 エスプレッソマシンの話が示すように、貞雄氏は新しもの好きでハイカラな一面を持っていた。服装にも気を遣い、戦前からお決まりのテーラーを持ち、仕事以外でもネクタイをしめ、スーツをぴしっと着こなす洒落者だった。「砕けた格好は見たことなくて、姿勢正しいし、行儀いいし、堅苦しいし(笑) 」。しかも、自分の服はもちろん、家族の服もすべて選んだそうで、時には神戸で、なお伊夫人の下着まで求めることもあったとか。「母は生涯、着物で通しましたよ。父がしっかりしてないとダメな人だったんでしょうね」。

 貞雄氏亡き後の晩年は、着物姿で店に立ち、お客さんからも親しまれたなお伊夫人。愛すべき人柄と草創期からの尽力がなければ、現在の『丸福珈琲店』の姿も、違ったものになっていたかもしれない。それは英子氏のこんな言葉からもうかがえる。「母は私の誇りです。私の子供も、“うちのおばあちゃんみたいなおばあさんになりたい”って言いますよ」。(つづく)

(『甘苦一滴』8号から一部改稿)

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