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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」4

再びの逆境にも揺るがない商売人の意地

 前回から少し話を遡るが、貞雄氏の修業時代から『丸福商店』開店に至る、1925年(大正14)から1932年(昭和7)頃の大阪は、東京市(当時)を面積・人口ともに上回る日本一の都市として繁栄を極めた。関一(せきはじめ)市長による総合大阪都市計画の下、市営地下鉄や御堂筋など矢継ぎ早の事業によって「大大阪」へと変貌*1。同時期には、大阪資本のカフェーが関東大震災後の銀座に進出。過剰なサービスで衆目を集め、一部に「大阪的」と揶揄されながらも、享楽的な都市の光と闇を彩った 。ただ、昭和も10年代に入ると、不穏な空気が密かに、しかし着実に忍び寄ってきていた。御堂筋が完成した1937年(昭和12)に蘆溝橋事件が勃発、翌年には国家総動員法の公布により、本格的な戦時体制に突入していく。大大阪の華やかな時期は儚く過ぎ、束の間の黄金時代は享楽の「モダン」の記憶とともに退潮していった。

 よくよく貞雄氏はそういう星の下にいたのか、東京で最初に開いた『ギンレイ』(1話参照)と同じく『丸福商店』もまた、軌道に乗り始めた頃に予期せぬ逆境に見舞われる。開店から5年後の1939年(昭和14)、飲食店の深夜営業が禁止され、翌年には砂糖など生活必需品が配給制となって、統制経済で外食の価格も制限され始めた。これが不要不急の珈琲店ともなれば、輪をかけて状況が厳しくなったのはいうまでもない。「そんなん敵国の食べ物ですから、白いパンなんか食べてたら、それこそ非国民ですよ」と振返る英子氏の語気も強まる。

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 “これは100年戦争だ!”などとまことしやかに噂され、いつ終わるとも分からない非常事態にも関わらず、貞雄氏は商売できてもできなくても、とにかくお金があるうちに物資を買いこんだ。生来、買い貯めるのが好きな彼は、コーヒー生豆から砂糖・バターなど諸々をどっと仕入れ、2階建ての家はまるで倉庫のようになったという。すでにそれらは手に入りにくい時期だったにも関わらず、仕入れてくれる先があったのは、彼の実直な人柄によるところが大きかった。

 また、楽しみなど何もない戦時中だからこそ、「丸福で珈琲を飲みたい」という常連客は多かった。彼の性格上、そんなお客たちを放っておけるはずはない。「やっぱり飲みたい人がおるから、店開けなあかん!」と、昼は店に入り、店内に暗幕をはって中から閂をかけて営業し続けた。鍵をかけた扉をコツコツとノックする音に耳をそばだて、「丸福さん、某です…」という声を聞くと外に灯を漏さずにお客を招じ入れ、そっと珈琲を飲ませる。そこでの珈琲の香りと砂糖の甘味を味わうひとときの有難さとは、如何ばかりだったか。当然、見つかれば非国民の謗りは免れない。それでも訪れる何人かのために、彼はご法度の秘密営業を敢行した。もはや彼の人柄というよりは、意地のようなものさえ感じる逸話だ。

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戦時下の苦難を共にした、ご近所さんとの縁

 とはいえ、戦況は日に日に悪化していき、本土への空襲も時間の問題となってきた1944年(昭和19)、いよいよ家族が疎開を余儀なくされる。「全員が一気に死ぬよりは、誰かが残って血を残す方がいい」と考え、英子氏と弟は鳥取へ、妹は婦人とともに実家の富山へそれぞれ避難した。そして、父は家を守るために独り大阪に残った。

 ところで英子氏によれば、この苦難の一時期を語る上で欠かせない人物がいる。親しくしていたご近所さんで、当時、南海電鉄に勤めていた「真鍋さん」だ。「娘さんが私と一緒の病院で生まれて、誕生日が4日しか違わなくて。小学校もずっと一緒。両親同志も仲よくて、いい人でね。だから切ってもきれない間柄」と振り返る。真鍋さん一家も伊吹家と同時に疎開し、家長の彼もまた、独り大阪に留まる役目を負っていた。ところが、この年末から大阪でも激しさを増した空襲によって、真鍋さんはあえなく焼け出されてしまい、しばらく貞雄氏と生活を共にすることになった。このことが、後に続く丸福と真鍋さんの縁の始まりになるが、その話はもう少し待たれたい。

 南海電車はほとんど走らなくなり、動くに動けなかった彼は、家政夫として家事の切盛りをして貞雄氏を手伝った。店には直接携わらなかったが、家と店が目と鼻の先だったため、秘密営業に出た貞雄氏が帰るのを見計らって、彼は食事を用意する。また、食糧難の折、「どこそこで餅米買えるよ」と聞けば即座に遣いに走り、「小豆あるよ」と聞けばそれでおはぎを作る(この時、貞雄氏が「うちはおはぎ屋じゃないから…」と決して売り物にはしなかったというのは彼らしい)。真鍋さんとの夫夫生活(?)は1年に満たなかったが、最も苦しい時期にあって一人より二人の方が心強かったことだろう。

 空襲の最中も、ギリギリまで店を閉めなかった貞雄氏だが、翌1945年(昭和20)3月、事実上の最後通牒ともいえる大阪大空襲は、その強い意志をも折りかねない壊滅的な打撃を与えた。何しろ、ここからわずか半年間の空襲によって大阪の人口が100万人減ったというから、もはや苛烈さは想像を絶していた*2。しかし、『丸福商店』は焼けなかった。貞雄氏も、真鍋さんも。ただ、奇跡的に生き残った二人がそこで目にしたのは、大阪駅から難波の高島屋が見えたと言われるほど*3、何にもない、一面の瓦礫と化したかつての大大阪だった。(つづく)

*1:関一は大正12年、第7代の大阪市長に就任。一橋大学の学者であった関は都市政策理論の研究を通して得た全ての知識や持論で「総合大阪都市計画」を発表。現在の大阪の姿はほぼ彼の計画によるもので、その先見の明は高く評価されている。
*2:小山仁示『大阪大空襲-大阪が壊滅した日』(東方出版 1985)によれば、昭和19年12月の人口が244万人だったのが終戦後には111万人に激減。昭和15年の325万人からするとわずか1/3となった。
*3:上掲書、p2

(『甘苦一滴』4号から一部改稿)

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