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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」3

創業から息つく間もない盛り場の賑わい

 1934年(昭和9年)に開店した「丸福商店」今池店。現在の本店とは所在が違うが、大阪での”発祥の店”は、実は今もほとんど姿を変えずに営業を続けている(現在は「コーヒーショップ 伊吹」に改名)。筆者は実際に店を訪ねてみたが予想外に狭い、というよりむしろ細いと言った方が正しい。間口を入ると店内は右奥に向って鋭く尖っていき、左右の壁に据付のテーブルとスツールが交互に並ぶ(写真)。10人座れば足のやり場もない店に、かつてお客がひしめき合った情景など、いまや想像できないほど昼間の店は静かだった。

コーヒーショップ伊吹画像 - コピー

 一年の不遇を経た貞雄氏にとって、開店後の日々は息つく暇もなかった。新世界と飛田新地に挟まれて立地した店は、朝から晩まで来客がひきも切らなかった。朝7時には、近くにある木津公設市場から早朝の仕事を終えた人々が、半ば店を開けさせるようにして顔を出し始める。昼には界隈の勤め人や、新世界から流れてくる客がやって来たかと思えば、宵の口ともなれば入れ替るように飛田の遊廓が賑わい出し、夜の更けるまで生々しい人間模様を照らし出す。当時は少しでも手間を減らすために、ゆで卵の殻も煙草も全部「ああ、下、下」で対応。お客は大量の殻を踏んで歩く(今でも床が灰皿代わりだ)。夜の店内は一気にいかがわしさを増し、酔客の相手もしながら営業は深夜にまで及ぶ。24時間、人の流れがたえない街ゆえ、当然、夫婦二人が店にかかり切りである。

 しかし、忙しないのは丸福ばかりでなく、大阪の街自体も目まぐるしく動いていた。開店と同じ年に梅田-難波間の地下鉄開通、3年後に御堂筋が完成し、大阪は黄金時代を迎える。モボ・モガが心斎橋を闊歩し、道頓堀には赤い灯、青い灯が百花繚乱。街はモダンの空気一色に染まっていた。一方で新世界は、1912年(明治45年)に通天閣とルナパークが完成して以降は土地問題に見舞われ、すっかり大衆向け遊興街へと変貌していた。高塀に囲まれた遊廓だった飛田新地(大正7年完成)と新世界を結ぶ通り一帯は、当時一、二を争う盛り場といわれたが、やはり他とは異質な空気が漂っていたようだ。「今の新世界一帶ほど、不規則極まる享樂街もないであらう。その發展には、少しの理想も計畫もない。…晝のうちはまだしも、夜になると、表通りの明るい照明に引きかへ、一寸横町へ入ったが最後、鼻をつままれても分からぬやうな暗黒が口を開けている」*1。現在の飛田は遣り手婆の呼込みも寂しい限りだが、それでも淫媚な迫力を秘める情景に、この土地の来歴が垣間見える。

あくまで”珈琲店”として日々研究に邁進

 まさに混沌とした界隈だったが、当時まだ幼かった英子氏にとっては、新世界は格好の遊び場だったようだ。忙しい両親が小銭を持たせてくれ、妹を連れてよく動物園などに出かけていたという。中でも、彼女は「ラヂューム温泉」*2 が印象的だったようで、「中に小さな劇場があって浄瑠璃をしてたり、今でいう健康ランド。もう、ものすごく広い円形の温泉で、子供にしたらまるで遊ぶためのお風呂だった」という。

 この頃、新世界の各興業館は、昭和大恐慌を転機に民間に売却され、界隈には遊戯場や旅館、料理店が次々に建ち、とりわけカフェーが目に見えて急増していた *3。この頃のカフェー・喫茶店は線引きが曖昧なところがあるが、それを判じる一つの手がかりとして、店のメニューがある*4。カフェーといえば、「女給」が象徴的存在だが、飲食店の形態として見るなら、この違いはより分かりやすい。当時、大阪で人気を誇った〈美人座〉〈ユニオン〉〈赤玉〉といったカフェーのメニューには、まず肉・魚など洋食がずらりと並び、ついで洋酒のリストが占めている。対して、珈琲専門店の先駆といえる〈パウリスタ〉(1917年道頓堀に開店)や〈ブラジレイロ〉(1929年梅田に開店)では、何をおいてもまず珈琲が先頭にあり、紅茶、ココア、ジュースと続く、お馴染みの順番。もちろんトースト、サンドイッチ、パフェと脇を固める顔ぶれも同じく揃っている。

 「たまたまうちは珈琲専門店で商売してたから、珈琲好きなお客さんが来はったんやろうね。珈琲、紅茶、ココア、ソーダ水、メニューはそんなもんでしたよ。だから、あんな小さな店でも流行ったんと違いますか?」。英子氏の記憶にあるのは、まさに後者のメニュー構成だ。それでも、さすがに最初は貞雄氏も不安だったらしく、洋食店で培った料理の心得もあったため、しばらくは飲食店という業態だった。これが、出す食べ物は何でも売れたが、最大の当たりを取ったのは鍋焼うどん。とにかくすごい勢いで売れに売れ、営業中はひたすら、うどん、うどん、うどん。かつての名物メニューの思い出は、晩年まで貞雄氏の語り草になったという。

 とはいえ、食べ物でいくら儲かっても、彼にとって丸福はあくまで珈琲店。そのために店を出したんだという思いが強く、どんなに疲れていても、家では珈琲の研究を進めていた。元々が発明好きとあって、自家焙煎をするために、知り合いの板金屋と二人で手回し焙煎機を試作。さらに、今も丸福珈琲の味を支える金属製のドリッパーも開発していた。銀座で飲んだ珈琲の感激から時を経て、本腰入れて珈琲屋の道を歩き始めた貞雄氏。ようやく目指すべき目標が固まるとともに、その先には大きな逆境も待ち受けていた。(つづく)

*1 北尾鐐之助『近代大阪』(創元社 1932)p346
*2 当時、異色の大規模温泉として評判をとった「噴泉浴場」のことで、日本初輸入のラジウム泉が話題となったため通称となった。(橋爪紳也『モダン大阪-通天閣と新世界』(NTT出版 1996)、p114)
*3 1942年(昭和17年)の新世界界隈の状況は、遊技場(撞球・射的)70軒、特殊料理店89軒、カフェー51軒、大衆喫茶154軒となっている。(橋爪、p173)
*4 当時のメニューは、大阪の「ケンショク『食』の資料室」にて閲覧させて頂いた。 ※下は〈ブラジレイロ〉のメニューの写し

ブラジレイロメニュー1

ブラジレイロメニュー2

(『甘苦一滴』3号から一部改稿)

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