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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」1

 先日、お知らせしました通り、今回から『甘苦一滴』の連載記事「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」の再掲をお届けします。

 その前に、丸福珈琲店について簡単に。丸福珈琲店は、全国有数の喫茶店数を誇る大阪で、創業70年を超える老舗。俗に”なにわストロング”とも称される、深煎りの濃厚なコーヒーで親しまれています。近年は各地に支店ができて全国的に知られる存在となりましたが、その独特の味がいかにして支持を得てきたのか。創業者の生い立ちから遡っています。多少の改稿・補足はしていますが、時系列などは2001年当時のままですのでご留意ください。

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 もしも、貴方が関西にいて、絶望的にコーヒーに飢えていたとしたら、迷わず丸福珈琲店に行くことをお勧めする。なぜなら、その欲求を最も直截に、濃密に満たしてくれるからだ。

 原色のモザイクにも似た大阪・ミナミの繁華街にあって、戦前から続く老舗珈琲店の本店を訪ねると、常務取締役(当時)の伊吹英子氏が、深い琥珀色の空間に迎えてくれた。取締役というと堅苦しいが、話好きで気さくな“喫茶店の奥さん”である。「うちはこれしかないですけど」。供されたコーヒーは、創業以来、自家焙煎の深煎り豆を独自の器具で抽出する方法を貫いている。濃く苦く、深々と胃の中に染み渡る、重厚な味の喚起力は一度飲んだら忘れない。とにかく濃い。すみずみまで濃い。どっしりと広がる高密度の旨苦味こそが、丸福珈琲店の醍醐味である。

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 何にせよ、これほど味の記憶と直結する店は、そうそうあるものではない。「『珈琲店』と呼べる店でないとダメなんですよ」との言葉通り、この稀有なコーヒーは丸福の存在そのものといってもいい。近年は、催事や地方発送を通じて全国に知られるようになり、濃厚な味わいは、いまや大阪の味として好評のようだ。「でも味の管理が大変です。お店に直接響きますからね」と、若干の葛藤も垣間見えるが、遠方からの来客に出会える喜びも大きいという。一方で、不況と言われる90年代末に3つの支店を出店。お世辞にも楽な状況とは言えないが、「その時、お店にちょっとした勢いがあったんですよ。初代が生きてる間に、という思いもあったんですかね。お金があったわけでなく、何かそういうノリが」と、にこやかに言ってのける。ノリで乗りきれるかいな!…ツッコミの一つも入りそうだが、厳しい最中にも明るさを失わないのが、浪速の商人のノリなのかも知れない。

 ただ、英子氏の言う“勢い”の裏には、創業から60年以上の積み重ねがあることを忘れてはならない。「結局、コーヒーは嗜好品、自分達の納得する味を提供するだけ」と自信を持って言わしめるのは、3年前(1998年)に亡くなった創業者の、店に対する断固たる意志を知るからこそ。それゆえに丸福の名は、コーヒーへの渇望を満たす一杯と共に記憶されるのである。創業から60余年、走り続けて世紀をまたぎ、大きな転換点を迎えている丸福珈琲店。その最初の一歩は意外にも、1920年代の東京から踏み出された…。

鳥取の腕白少年、商売人を志す 

 「貧乏は嫌いでしたけど、節約は好きでしたね。でも、使うところには使う。将来的に生きてくる金はどれだけ使ってもいい、っていつでも言ってました。竹を割ったようなというか、一貫してたんですよ。あれが明治の人というのか、今から見ると稀少価値でしたね」。丸福珈琲店の創業者・伊吹貞雄氏をこう評するのは、常務取締役(当時)にして長女でもある伊吹英子氏。商売人としての初代の気質は、丸福の珈琲の味に似て一本芯の通った実直さをうかがわせる。

 伊吹貞雄氏は、1908年(明治41年)鳥取の米問屋の三男として生れた。問屋とともに料理旅館も営んでいたという生家は、当時としてはかなり裕福な家庭だったようだ。幼稚園にも通い、子供の一人一人に乳母さんがついていたというから、その水準の高さがうかがい知れる。とはいえ、商家だけに商いの勉強に精を出したかというとそんなことはなく、子供時分は屋根に上がるわ、蔵に潜り込むわで、典型的な末っ子ぶりを発揮していた。学校帰りに蔵へカバンを放り投げて遊びにいくなど茶飯事で、乳母さんにも「とにかく貞雄だけは目を離すな」と目をつけられていたほどだった。

 まるで勉強した憶えなどなかった腕白少年時代から、商売人への転機をもたらしたのは、1918年(大正7年)富山で起った米騒動だった。ご存知の通り、第一次大戦の煽りをうけた米価高騰に対して、魚津の主婦連から全国に飛び火した騒動は、米問屋である彼の生家をも巻き込まないはずはなかった。このため、小学生だった彼は大阪へ移り、高等小学校(現在の中学校)卒業ととともに、船場で丁稚奉公に出ることになった。大阪・船場といえば、豊臣時代から始まった歴史ある商いの街。すでに大正の世とはいえ、「天下の台所」から続く伝統を受け継ぐ厳しい世界だ。食事の時間、場所の序列はもとより、藁一本、米一粒を無駄にしない基本姿勢を叩き込まれ、徹底的にもののありがたみを染みつけた修行時代が、貞雄氏の商売人としての土台となったことは確かだろう。すでにその頃には、お使いでもらったお駄賃をコツコツ貯めることを覚えていた。2、3年は電気店に入り、活発な性格から可愛がられたようだが、ほどなくして同級生の母親が経営する割烹の店に移ることになる。 

 丁稚から板場見習への転向は、同時に飲食業に入るきっかけでもあった。「自分は生涯一人で何かやっていきたい!」という意思を、多かれ少なかれ抱いていた貞雄氏にとって、手に職を持てる板場仕事は丁稚のお使いよりはよほど楽しかったに違いない。それは、この頃に凝っていたという「発明」にも伺える。電気店で機械を触った経験からか、夜毎その作業に没頭し、創作はかなり本格的なものだったという。ただ、ほどなく無理が祟って蓄膿症を患い、常連客の特許局職員にたしなめられるなどは、彼の熱中癖を物語る逸話だ。この職人根性(?)が、後に丸福オリジナルの珈琲抽出器具の「発明」につながることになる。

東京から始まった「丸福珈琲店」への道のり

 割烹の女主人は、実の息子にさえ容赦なく厳しかったそうだが、親元を離れていた貞雄氏にとっては、母親代わりでもあった。だが、板場仕事と「発明」製作で旺盛な独立心を養いつつあった彼は、この主従関係での甘えを肌で感じるようになり、「このままでは自分は伸びない」と考え始めた。随分気に入られていたにも関わらず、飽くなき向上心をもって、即座に東京へ単身修行に出ることを申し出る。1929年(昭和4年)のことである。

 東京では一転、品川近辺の西洋料理店に見習いで入った。ここで、彼は一生の交わりを持つ先輩に出会う。東京で過ごした20代は、彼と競うように腕を磨き、将来、店を出すための資金作りに懸命で、互いの金庫を見せあって切磋琢磨の日々を送った(先輩の店は、東急不動前駅の近くに喫茶店として残り、実家の蕎麦屋『丸福』も同地にある)。折しも昭和大恐慌の只中。なお伊夫人とともに、がむしゃらに働いて働いて働いて、贅沢を決してしない。「貯めるなら使うな、使わなければ貯まる」。船場で培った商魂で、大不況下の1931年(昭和6年)頃、東京・武蔵小山にカフェー『ギンレイ』を開店させたのは、貞雄氏の固い意志の成せる業という他ない。戦前の話ゆえ、『ギンレイ』を知る手掛りは英子氏が所有する一枚の写真にしか残されていない(写真)。

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 唯一確かな武蔵小山という所在を頼りに品川歴史館を訪れたが、昭和10年前後の商店街一覧に喫茶店が1軒、飲食店が2軒確認されるに止まり*1、その存在を確認する資料は得られなかった。ただ、当時そこが武蔵小山銀座と呼ばれ、新興商店街の発達が最も早かった郊外都市だったことを考えると、その立地には十分頷ける。お抱えのコックに、着物姿の女給たち。まだあどけなさの残る貞雄氏の表情には、しかし確かな達成感を読み取ることができる。棚には洋酒がずらりと並ぶ、レストラン調のカフェーだったという『ギンレイ』。外観から往時のモダンな空気が匂う、この瀟洒なカフェーこそ、丸福珈琲店の本当の始まりだったことを知る人はごくわずかだ。

 しかし、いよいよ軌道に乗り出した2年後、大阪から一通の手紙が届く。差出人は、誰あろう割烹の女主人からであり、突然の同級生の訃報を伝えるものだった。この手紙が、大阪との縁を決定づけようとは、貞雄氏はまだ知る由もなかった。(つづく)

*1 名倉俊衛『ふるさと 小山の 村から街へ』(1991)所収の「武蔵小山商店街商店一覧(昭和10年前後の頃)」による。ただし、『ギンレイ』の住所が判然としないため、必ずしも商店街に立地していたとは断定できない。

(『甘苦一滴』創刊準備号・1号から一部改稿)

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