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「濃く、苦く、深く~丸福珈琲店小史」10

人とのつながりを大切した創業者の心意気

 5年間で3つの支店を開くと同時に、千日前本店の改装や珈琲の地方発送、百貨店での瓶詰め珈琲や珈琲ゼリーの販売を始めるなど、新たな展開が続いた90年代。この時期の試みが、大阪のみならず、全国に丸福の味を広める契機となった。商品の管理には苦労したそうだが、手作りの濃厚な味わいは好評を博し、遠方から訪れたお客と出会える喜びは大きかったという。
 「先代はもともと東京から店を始めたので、向こうでいろんな商品を置いていただくようになったのを見てたら、“にも支店を!”とハッスルしたでしょう(笑)」とは英子氏。戦前、東京で現在の店の前身である『カフェー ギンレイ』を創業して間もなく、やむなき理由で大阪へ戻った貞雄氏だけに、後年も東京への思いは並々ならぬものがあったそうだ。東京三越の催事に出展した時など、「がんばっていきましたよ。もう、すごいはりきって! その時も、店一軒ができるくらいの荷物もってね(笑)」。膨大な費用や物流費もなんのそので、当時は貨車にどっと荷物を積みこみ、勇んで東上した。とはいえ、商売だけが目的ではなかったようで…。「一週間いってて、ずっと画廊で絵を買ったりして。何をしてることやら(笑)」と、ハイカラ趣味の貞雄氏らしいエピソードを残している。
 無駄使いは嫌いだった貞雄氏だが、使うところには惜しまず使う。東京にいた若い頃は喧嘩早く、どことなく自らの江戸っ子気質を認めていたらしい。大きな出費をした時などは、「江戸っ子は宵越しの金は持たねえんだよ」と嘯いて、家族を煙に巻くこともあった。とはいえ、「“死に金”を使わないっていうのが、先代なんですよね。いつでも“将来的に生きてくる金はどれだけ使ってもいい”って言ってましたね」と英子氏。そう聞くといかにも商売人らしく利害に徹してるように思えるが、この言葉の裏には、たとえ商売につながらずとも、人と人との関係を大事にする貞雄氏の心意気があると捕えていたようだ。

丸福店内イメージ

「珈琲店」の矜持が息づく濃く、苦く、深い一杯

 「何をするにしても、とにかく一貫してましたね、生涯」。何事にも精力的だった貞雄氏だが、さすがに寄る年波には抗えず、平成10年(1998)に逝去。鳥取の米問屋に生まれ、紆余曲折を経て一代で『丸福珈琲店』の礎を築いた、90年の人生に幕を閉じる。英子氏によれば、晩年、体調が思わしくなくなってからは、幼少期や若い頃の記憶をたどることが多かったという。その時まで表には出さなかったが、常に“父を越えたい”という気持ちを心に秘めていたそうだ。「死ぬ間際には、“僕はやっぱり親父を超えられなかったな”って言うんです。でも私は、“そんなことはない。ゼロからここまでしたんだから”といったら、“そうかなあ…”と最後は言ってましたね」。最後の一言に貞雄氏が何を思ったのか、今は知る由もない。
 振り返れば、今池時代からずっと、なお伊夫人と共にカウンターに立ち続けてきた貞雄氏。「昔は、“俺が珈琲を淹れないと”という感じで。従業員もそんなにいませんし。でも、決まった時間に亭主がいてるということは肝心ですよね。今とはまた考えが違うかも知れませんが、私達の蓄積してきたものは、そういうものじゃないかなと思うんです」。ずっと先代を見続けてきた英子氏にとって、その姿が店の信用であるとの思いは今も変わっていない。
 貞雄氏が亡くなった6年後の平成16年(2004)、『丸福珈琲店』は創業70周年を迎えた。記念事業として本格的な焙煎工場などの建造に着手し、平成18年(2006)からは心斎橋、東京・秋葉原への出店を皮切りに、全国各地への支店展開が始まり、丸福の名は全国に広まりつつある。

 濃く、苦く、深々と胃の腑に染み渡る丸福の味を、各地で淹れ続けるのは、もちろん貞雄氏が開発したあのドリッパー。改めてその珈琲を飲んだ時、初めて英子氏に話をうかがった時に聞いた一言が思い出される。「珈琲店と呼べる店でないとだめなんですよ」。この一杯には、創業者の遺した矜持が確かに息づいている。(了)

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