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「嘔吐恐怖」3
「あの、実は僕…」
僕は酒の臭い漂うこの空気に酔ってしまったのだろうか。今日初めて出会った女性に、物心がついた時から抱える“嘔吐恐怖”について話してみようと思うなんて。しかしそんな気の迷いも一瞬にして打ち消されるほど、明らかに具合の悪そうな女子が僕たちの元へ助けを求めに来た。
「うぅ…恵那やばい気持ち悪い、一回吐きたい…」
「吐けない? トイレ行く?」
恵那と呼ばれていた彼女は、項垂れる女性が小さく頷いたのを確認すると、彼女の身体を支えながら部屋を出ていった。
残された僕は、今目の前で繰り広げられた光景を、平然と対応する彼女の姿を繰り返し思い出していた。
普段なら女性の嘔吐シーンで脳内が埋め尽くされパニック寸前になるはずだった。自分のところで吐かれたら、トイレへ行く前に崩壊したら。そんなことばかり考える僕は、その恐れがある人間に近付くだけで貧血を起こし、いっそのこと狂ってしまいたいと冷静な自分を呪うだろう。それなのに、先ほどの彼女のあの頼もしさ。「吐きたい」と助けを求められ、相手の状態を確認した後、寄り添いトイレへ案内する勇姿。僕の中では有り得ない行動だった。
彼女は一体なんなんだ。先程まで彼女が座っていた座布団を見つめながら、そんなことばかり考えていた。
「あれ、あたしのビール来た?」
平然とした様子で帰ってきた彼女が、何も無かったように酒の確認をしてきた。
僕は彼女の状態を瞬時に確認する。瞳の充血は。衣服の汚れは。独特な酸っぱい臭いは。
どれをとっても異常は確認できない。最初と何ら変わりのない彼女の姿がそこにあった。
「来てなくない? ビール」
「あ、そうですね。さっき聞こえてなかったのかも」
「えー最悪。すいませーーーん!」
人を吐かせた後に、まだ飲み続けられるんだ。
真っ直ぐに手を挙げ店員を呼ぶ彼女は、僕の唯一の光だと、確信に近いものを感じた。こんな人が存在するんだ。存在できるんだ。僕だって同じ人間。
平然を装い、トイレに引き連れられた女性の心配をしてみる。
「あの…さっきの女性、大丈夫でしたか?」
「あー大丈夫でしょ。ちゃんと吐けたし」
事実を知ってしまった。やっぱり吐いたんだ。同じ空間に吐いた人がいる。恵那さんはそれを間近で見届けた。僕の予想は当たってしまう。僕にとっての最悪の想定は、人々にとっていつだって普通のことなんだ。
この同じ部屋の中に、吐いている人がいるという信じたくない想像が現実となり、僕の鼓動は少しづつ早くなっていた。
「…恵那さんは、介抱してたんですか?」
「介抱なんてしてないよー、口に指突っ込んだだけ」
僕は言葉を失った。自分のものだって汚くて仕方ない吐瀉物を、ましてやそれが他人のものなんて。喉の奥からこみ上げる汚物が、自分の手に浴びせ掛かるかもしれないのに。そんな恐ろしいことを彼女はこなし、今こうして平然と酒を飲み直している。もしかして、グラスを持つその指は甘酸っぱい液体をまとったのかもしれない。だがそれが、取り立てて騒ぐことではないのだと、彼女の様子から伝わってくる。
「汚くないんですか」
「え?」
「吐いたものを触れるかもしれないのに、汚いと思わないんですか」
苛立ちを含んだ言い方をしてしまった。そうしたいわけじゃない。それでもなぜか、僕にとって異質である彼女を前に僕は憤りを覚えた。
「あーあんまり思ったことないかもなぁ…ほぼ水分だし、洗えば平気でしょ」
「でも…っ」
「なに? 君は潔癖症か何か?」
「いや、違います」
「じゃあ何でそんなに突っかかるのよ」
彼女に問われ、冷静さに欠けていた自分が急激に恥ずかしくなってきた。具合の悪い人を助けた彼女に対し、執拗に「汚くないのか」だなんて。普通の人間は、少なくともここにいる人たちは、そんなこと微塵も思わないのだろう。だからこうして酒を煽り、無責任に潰れることができるのだ。僕はそいつらを心底軽蔑し、同時に、なぜ僕はそうなれないのだろうと羨んでいる。そんな自分の陰と不意に対峙することとなり、熱くなる頬を見られないよう、俯き顔を隠した。
「…すみませんでした」
「別にいいよ」
「………」
「………」
恵那さんの気分を害してしまったと、激しく後悔した。昔からそうだ。この話題になると周りが見えなくなる。だからこれらの全てを避け、僕の世界には存在しないものとして平穏を維持している。しかし今日、僕とは正反対の恵那さんと出会い、自分自身が心底情けない存在だと改めて痛感した。もう嫌だった。この飲み会も、理解できない恵那さんも。吐き戻す生物が存在するこの世界が。それらを汚いと恐れる自分自身が、一番。
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