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「何も知らない」4


部屋に戻り、黒いワンピースを脱がしたアオイさんはとても細く、まさにモデルのようだった。
ガラス張りの部屋では月明かりが薄暗く照らし、僕たちの弱さを包み隠してくれる。

ベッドの上でスラッと伸びた足先から、一つずつ極めて丁寧に、口付けていく。
指先に唇を乗せ、ゆっくりと押し付ける。
薄い皮膚、中を通る血管、支える骨。

美しくて、脆い。
貴女は、こんなにか弱い。

触れる瞬間全てに想いを込める。
まだ名前がつかないこの感情を、自分に留められない分だけ。卑怯な僕は、貴女に注ぐ。

全身に隈無く口付け、美しい鎖骨に差し掛かった頃、アオイさんが口を開いた。

「トウマくん…、私こんな風に女性としての喜びは、もう諦めてたんだ…ズルいかなって。…ありがとう、ごめ…」

ポロポロ零す言葉は、アオイさんの優しさで溢れ、やりきれない僕は泣きそうな気持ちで口を塞いだ。

これ以上喋らなくていいよ、アオイさん。
あなたは素敵な女性だ。ごめん、だなんて言わないで欲しい。
だって僕は今こんなにも貴女が欲しくて息が止まりそうなのに。
何にもなれない僕は、せめて今だけ、貴女を満たしたい。
僕の全てを尽くして、貴女を全肯定させてほしい。

溶け合うキスは二人が飲んだ酒の味がした。
とっくに酔いは覚めていたが、アオイさんの唾液を欲して止まない僕は、何に酔ったのだろう。

いつも狂った客たちに好き勝手されている身体でアオイさんに触れるのは、汚してしまう気がして少し抵抗があった。
僕のせいでなるべく汚さないように、そんな事を気にしながら。

溜息のように漏らす声がもっと聞きたくて、
僕に爪を立てる快感を感じ取りたくて、
今この瞬間はアオイさんを僕の中で守りたくて、
夢中でアオイさんを抱いた。

静寂を取り戻した部屋の中。
僕達はベッドで二人、夜の景色を眺めていた。

「実はね、私セックスしたの結婚当初以来だから10年振りだ…」

「え…10年してないんですか?」

「まぁね、子供が出来にくいってわかって、結婚したこと後悔してたぐらいだからね、うちのひと……ひどい人でしょ?」

月明かりの中、笑いながら話すアオイさんは酷く美しく、僕の胸を締め付けた。
同時に存在が遠く感じ、手を離したら二度と掴めなくなる気がして、確かめるようにアオイさんの身体に触れていた。

「でもね、離婚はしないのよ、出来ないの。あの人本当に子供が好きで、夢だったのよ、何よりも。それを叶えてあげられないのは、私のせいだから……ほんと、結婚って…なんだろうね」

アオイさんは遠くを見つめ、僕なんて見えてないみたいに。
いっそ、いっそ泣いてくれれば。
泣いてくれれば、僕は今すぐ貴女を抱きしめることが出来るのに。

「………アオイさんはそれでいいんですか」

「ふふっ……いい、って言えたら良かったけど…そうもいかないのが人の欲ね……だから、長い結婚生活において今日の私は、初めての反抗期って、ところね」

僕はわからなかった。
その世界に留まり続けるアオイさんの気持ちが。
旦那さんも、この人を傷付けてまで叶えたい夢ならば、他の人と再婚すればいいじゃないか。
アオイさんに責任を感じさせたまま心を拘束し続けるなんて。
…人として未熟な僕には、到底たどり着けない感情なんだと思うと、悔しかった。

「……その反抗期、まだ続きますか?」

月明かりに照らされ、アオイさんを見上げる僕は、きっと情けない顔をしてた。
未来を確かめるには、これが精一杯で。
でも、そんな縋る瞳を見てたのは、僕を照らす月だけだった。

「ふふっ…んー…そうねぇ……」

見上げる僕を一切見ずに、アオイさんは諦めるように笑った。

「……トウマくん、…大人の反抗期って、困るね…」

膝を抱え座っていたアオイさんはとても美しく、こんなにも儚い笑顔で僕を見つめ、あやす様に語りかけた。
月夜の影に隠れ微笑むアオイさんは、僕の心を抉り、どんなサド達の酷いプレイよりも、甘く、忘れられない傷をつけた。

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