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「一生懸命歩くヒト」

私の家の裏庭には、二羽にわとりがいます。
イヌの散歩に出る時、正門は使わず、鶏たちの視線を浴びながらこの裏庭を通るのが決まり事です。
鶏たちは「コッコッコッコッ」と鳴きながら、異形の者でも見るかのように、ギョッとした顔でこちらの様子を伺います。

「ほら、いくよ」

持っているリードを軽く引き、四つん這いで待つイヌに合図を送ります。
足元を確認しながら進みだすと、芝の上、ゆるく握りしめた両手がゆっくりと私の後をついてきます。
片開きの裏門は開閉する際「キィ」と鳴り、その度鶏たちは狂ったように騒ぎ出します。
私達の日課を知っている人がもしいれば、酷くばたつく羽の音や、今にも絞められそうな鳴き声を聞き、“また始まった”と思うでしょうか。
でも大丈夫、これはただのイヌの散歩なのですから。

裏門を出ると、となりの大きな公園につながっています。
我が家の手入れされた芝とは違い、折れた鋭い枝や、歩行を邪魔する木の根があちこちに出ている地面。
鬱蒼とした木々に囲まれたこの地帯は、晴れた日でも地面の土が少し湿っています。
最初はここを通るのを嫌がったイヌ。それもそのはず。そこら中に生息するダンゴムシ、蟻の行列、枯れ葉の下で蠢くミミズ。どれもこれも、うちの子の苦手なものばかり。
頑なに動かない様子に痺れを切らした私は、強く引っ張っていたリードを手放し、イヌを置いて先に進みました。

(1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、、)

十歩ほど進み、湿った地帯が終わったあたりで立ち止まる。
弾み出しそうな胸を抑え、一息ついてからイヌがいる方向へ振り返ります。
そこには、薄暗く茂った木々の下、ダークウッドな世界にポツンと浮かぶ肌色のイヌ。
おすわりの体勢で、不安げな表情を浮かべ、私を見つめていました。
約八~九メートル。ここまで離れると、ちっぽけな君がさらにちっぽけに見える。

「おいで」

私が声をかけると、ちっぽけな君は一度だけ小さく身体を震わせました。

「裸でずっとそこにいるつもり? 虫に食われるわよ、お前の薄い皮膚なんて」

続けてこう言うと、イヌは少しだけ怯えた表情になり、おずおずと四つん這いの体勢になりました。
はじめの一歩、その一歩を踏み出そうと勇気を振り絞ります。

(……グジュ)

先に右手が着地し、次に左手と右足。
あぁ、とても嫌そう。嫌なのね、その感触。
かわいそう、かわいそう。

「ちょっと、リードを引きずったら汚れるじゃない。ちゃんと自分で咥えて来なさい」

数歩進んだところで、私からの注意に動きが止まる。
イヌは少し考えてから、同じ歩数だけ後ろに戻ると、脇に垂れたリードを口ですくい上げ、今度は私を見ないまま、自分の足跡を辿り果敢に前へ進んできます。
その姿がまさに犬のようで、私は少し関心してしまいました。
立ったまま様子を伺う私の足元まで到着すると、四つん這いのまま上がらない首でリードを渡そうとしてきます。それでは私の手元まで届かない。これは教えてあげないといけません。

「それじゃリードが届かないわ、おすわり」

差し出されたリードは受け取らずに、きっちりと指示を出す。
イヌはすぐに理解をしたようで、スムーズにお尻の位置を下げると、今度は高く顔を上げ、しっかりと私へリードを渡すことができました。

「いい子だね」

イヌの前でしゃがみ、頭を撫でてあげます。
強張っていたイヌの表情がだんだんと緩み、次の瞬間には泣きだしそうだったので、褒めるのを止め、私たちは散歩を再開しました。

目的地は公園を抜けた先にあるコンビニ。
私たちはいつも同じコースを散歩します。
これが一番安全で、長期的に続けられるイヌの散歩という日課だからです。

湿地帯を抜けた先は、フカフカの枯れ葉、青々とした芝、イヌにとっても最高の散歩コースとなっています。
ここは普段から人が来ず、夜中は野外セックスの聖地として知る人ぞ知るスポットなのです。

私の家からコンビニまで徒歩で約十分。公園を横断せず端っこを通るだけなので、大きな公園だろうとそこまで時間はかかりません。
それなのに、イヌは歩くのがとても遅い。いつも倍以上の時間をかけて散歩をします。
私は普段から早歩きで、それでもイヌのスピードに合わせてゆっくりとしたペースで歩いても、リードが弛むことはほとんどありません。
これは、きっともう治ることはないキズが傷んでいるのだと思います。
化膿した傷を庇い、不器用な四足歩行が、一層不格好になっている。
散歩から帰りシャンプーの時間、手の皮がズル剥け、膝は滲む血が止まらない時がありました。
かわいそうだけれど、私はその姿が大好きで、ずっとそのままでいて欲しいと思いながら、膝に寝かせたイヌに薬を塗ってあげるのでした。

そんな日々が続く中、とうとう痛みは頂点に達し、散歩ができなくなってしまいました。
それでは本末転倒。焦った私はイヌの手と膝用にカバーを作ってあげました。
地面との接地面には硬いレザーを、カバーと皮膚の接地面には弾力のあるゴム製のパッドを縫い付けました。傷にはたっぷりと薬を塗ったガーゼをあて、丁寧に丁寧に包帯で巻き、イヌの手を作ってやります。

それ以降、傷が悪化することはなくなりました。
毎日の散歩にも行けるようになり、私としても一安心です。
けれど、やっぱりだめですね、骨格がだめなのでしょう。不格好に変わりはない。
イヌとして走り回れる日が来るのは、いつになることでしょう。

コンビニの付近まで到着すると、木の茂みにイヌを隠します。
フェンスの金具にリードをつなぎ、身体がすっぽりと隠れる場所へイヌを置いておくのです。

「待て、いい子に待っててね」

そう告げると、私は一人公園を出て、目の前にあるコンビニへ向かいました。
毎日毎日来たって、そんな欲しいものは無いのです。
決まって買うものはミネラルウォーター。たまにスイーツを買うこともあり、そういう日は帰宅したあとにイヌと一緒に食べるのです。決まりごととなっているため、コンビニのビニール袋の膨らみで気づくイヌは、帰り道、心なしか歩みが弾んでいるように見えます。

買い物を済ませ、イヌのもとに戻る。
遠目からイヌがいるあたりのフェンスに目をやると、見慣れた赤いリードが見えない気がしました。私はいつも決まった位置にリードをつなぎます。嫌な予感がしました。
急いで駆け寄り木の穴を確認すると、そこにいるはずのイヌの姿がスッポリとなくなっていました。
私は青冷めます。全身の血の気が引き、今にも倒れてしまいそうでした。

「ルイー! ルイー!」

私は当たり一面に届くよう、力の限りイヌの名前を呼びました。
冷や汗がこめかみをつたいます。

「ルーーーイ!」

あの子は鳴かないから。静かで大人しいところが大好きだけど、鳴かないことをここまで悔やんだことはありませんでした。
逃げた。逃げたのでしょうか。
幸せな日々は、もう二度と戻ってこない。
家までの道を探し回りながら、こみ上げる何かを堪えられる自信がなくなります。
もうだめ、泣き崩れそうになったその時、かき分けた草むらのその奥に、イヌの姿を見つけました。

「ルイ!」

急いで駆け寄り、イヌを抱きしめます。
止まったまま停止していた心臓が息を吹き返し、張り裂けんばかりに身体を揺らします。

「…どうしたの、なんで居なかったの、心配するじゃない…っ」

「ごめんなさい…人が来たんです、人が来て僕と目が合った。その人は悲鳴をあげすぐにどこかに行ってしまったけど、警察を呼ばれるんじゃないかと思って怖くなったんです…怖くて、早く僕たちの家に帰りたくて、無我夢中でここまで来て隠れていました…」

――――

…というのが、引っ越しの理由です。
長くなってしまいすみませんね、大きな家を手放す理由って言うから、こういうことです。
公園に隣接しているこの家を気に入っていたけど、脅威ができた今、ここでは暮らしにくい。長らく住んだこの街にも、お別れの時です。
私はイヌとの散歩を辞めることなど、考えられません。
イヌに適度な運動は必要で、イヌとして健やかに暮らすためには、首輪とリードをつけたありのままの姿で自然の風にさらされる必要があるのです。

私はイヌを飼う人、飼い主なので一生懸命働きます。
働いて、大事なイヌとの生活を優先し生き続けるのです。

一生懸命歩くヒト。
一生懸命歩く人。

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あまね@ SM短編
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