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「推すこと」について

先日、友人といわゆる「推すこと」について語り合った機会があったので、そのことについてつらつらと書いていこうと思います。

いわゆる「推す」という行為は、一方的です。その一方的であることに心地よさがあるのです。

一方的(こちらは対象を好きで応援しているが、その対象からは認知されていない状態)ということは、関係を続けるも終わらせるも自分次第であり、自由かつ安定しているということになります。

「推す」という行為が終了する場合というのは、自分が推す対象を変える「推し変」やそもそも「推すこと」を辞めるなどです。いずれにしても自分の決定によるもので、他者の意思は介在しない。つまり自由であるということになります。

推している対象のスキャンダルや引退(推している対象が次元を超えた存在であれば、コンテンツの終了)などの場合もありますが、どちらかというとイレギュラーなケースであるといえます。

「推すこと」と「恋愛」の違いについて

「ある対象に自分の好意を注ぐ」という共通点から、「推すこと」「推しごと」と「恋愛」はしばしば比較されがちかと思います。違いは言わずもがな「対象からの認知、好意があるかどうか」です。

語弊はあるかもしれませんが、「恋愛」は「お互いに推すこと」と言えるかもしれません。

それはつまり、相手も自由に「好意の対象を別に移す、または一方的に関係を終了させることができる」ということになり、「推すこと」に比べると、とても不安定なことに思えます。

「変化」を求めるのか、求めないのか

「推すこと」は安定しています。安定していると表現するといいことのように思えますが、安定とはつまり、「変化」しないということでもあります。

変化しないということはどういうことなのでしょうか。
具体的に例を挙げると、友人はある「推し」にドハマりし、だいたい軽自動車1台分のお金と、おそらく多くの時間を費やしたそうです。その時は幸せだったそうなのですが、ある時「掛けたお金と時間に見返りがない」(もちろん楽しかった時間が見返りと言えばそうなのですが)ということにハタと気づき、そこから「推し活」から「恋活」に活動をシフトしていったそうです。

きっと逆のケースも多くあることでしょう。急な別れなどで恋愛に傷ついた人が、いわゆる「推し活」にハマるというケースはよく耳にします。

人は「変化」を求めて「恋活」をし、「安定」を求めて「推し活」をするのかもしれませんね…「安定」のある限りなく「推し活」に近い恋愛が「理想の恋愛」と呼べるのかもしれません。

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