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勘違いに気付かせてくれたのは、唯一無二の私のカラダ

「ごめんね。乳がんになっちゃった」

癌と診断されたことを夫に告げるとき、私の口から最初に出たのは、謝罪の言葉だった。「なんか管理が行き届かなくて、すみません」なんて、業務連絡するくらいの感覚だった。
それくらい、私は自分のカラダに無頓着だった。

「何?誰が?」

聞き返す夫に、私は苦笑いしながら答えた。
「私が・・・」
そう告げた瞬間、夫の動きが止まった。
凍り付くような沈黙。

「なんか、ごめんね。」絞り出すように呟く。
夫が思い出したように大きく息を吸い、黙って私を抱き寄せた。

「私が死んだら、夫も死んでしまう」なんていうことはない。
パートナーの後を追うように旅立たれる人もいなくはないが、夫はそういうタイプではない。
と私は思っている。
こればっかりは、確かめようもないけれど・・・

別段、私達が不仲というわけではない。
むしろ子供や友人たちが呆れるほど、仲の良い。
あまりに仲がいいので、旅先で不倫カップルに間違われたことさえあった。

だから私がいなくなったら、夫はきっと寂しくて悲しくて、辛い時間を生きることになると思う。
そうは思うものの、カラダが動きを止めないかぎり、夫の命が続いていくことは間違いない事実だ。

私のカラダと夫のカラダ。
別々の2つのカラダ。

死を目の前に突き付けられて、初めて私はカラダがなければ自分は存在できないのだと理解した。わかっているつもりでいたけれど、実は全然わかっていなかったと、そのとき悟った。

カラダを基準に考えれば、私は私、それ以外はみな他人だった。

人生の大半を共に過ごし、この先もずっと一緒に生きていくだろう夫が相手でも、それは同じ。
私のカラダが感じる全てを夫が感じることはできないし、夫のカラダが感じること全てを、私が知ることもできない。
私達は、生まれるのも死ぬのもバラバラの、別々の存在だ。

それなのに関係が近くなればなるほど、相手の感じることを、まるでわかったような気になってしまうのはなぜだろう。
そして自分が感じていることをわかってくれない相手に、怒りすら覚えてしまうのだから質が悪い。

私はずっと勘違いしていた。

夫が感じていることを、夫以上に理解していると思っていたし、夫も私のことをわかっていて当然だと思っていた。
だから深夜に帰宅する夫に合わせて夜床に就き、朝は子供に合わせて起きる生活で、自分がどんどん疲れ切っていくのをわかっていながら、いつになったら夫は「そんなに頑張らなくていいよ」といってくれるのだろうと思っていた。
無理を承知でカラダを酷使したのは、いつかこの辛さをわかってくれる日がくる。それまでの辛抱だと、思い込んでいたからだ。

だから私は病気になった。
病気になれば、もう頑張らなくていい。
疲れ切った私は、とうとう休む理由を手に入れた。
眠って眠って眠って、申し訳なさを感じることなくカラダを休めることができたのは、いつ以来だっただろう。

カラダがもう十分というまで休みきったところで、私は自分がとんでもない状況にあるということに気が付いた。
治療は病巣だけでなくカラダ全体を痛めつけに、さらにその効果は未知数だというのだ。
どれだけ悔いても悔やみきれない気持ちが込み上げた。

さらに追い打ちをかけたのは、夫と診察を受けたときだった。担当医には、再三にわたり家族を連れてくるようにいわれていた。それを先延ばしにしていたのは、こうなることがわかっていたからなのか。
医師が夫を呼んだ理由に、私は二重にショックを受けることになった。

1つ目は私が聞かされていたより、診断結果がよくなかったこと。
しかもその説明は、終始夫に向かってされた。
1人で受け止めるには酷だという配慮で、私を思いやってのことだったのだろうと思う。
それでも私は、自分のカラダのこれからを、私を抜きに話し合われていることに、「こんなのおかしい!」と叫びたかった。
私自身が、こんな風に扱われるのが当たり前になるような生き方を選んできた。この事実を前にして、心の中に様々な感情が荒れ狂った。
後悔、不安、情けなさ、そして何より自分の愚かさに、私は震えるほどの怒りを覚えた。

2つ目は、「こんなになるまで、どれだけ奥さんに無理をさせたんですか」という医師の言葉。

これには、もう笑うしかなかった。
私は、夫の子供ではないし、使用人でもない。
ところが実際の私ときたら、カラダが感じていることを、子供のようにわかってもらいたいと望み、使用人のように、コントロールされることを求めていた。
私は、自分では何も決められない、自分カラダに責任を持つこともできない存在なのだと言い渡されて、それにひと言の反論もできなかった。
夫が、医師の言葉をどう受け取ったのかは、いまでもわからない。
その日、どうやって帰ったのか、夫がどんな様子だったのか、何一つ覚えてはいない。

自分以外は、みな他人。

そう言い切れば、ただ書いているだけでも、苦しくなるほどの悲しみと寂しさを感じる。本当はそんな風に思いたくはない。夫は、私にとって他人ではないし、私だって夫にとってそうではないはず。けれど、それでも私は自分に言い聞かせる。自分以外は、みんな他人なのだと・・・
自分のカラダに責任を持つのは、自分しかいない。
どれほど愛情があったとしても、誰もその責任を肩代わりできないし、させてはいけない。

それぞれの心が、別々のカラダに収まっている。
私にわかるのは、私の心とカラダだけ。
痛くても、壊れても、乗り換えることのできない、誰にとっても唯一無二のカラダ。

それぞれのカラダに閉じ込められ、決して1つになることのできない私達だけれど、あの日抱きしめられた温もりと安堵は、別のカラダがあったからこそ感じられたものだった。
あの時、言葉よりも雄弁で偽りのないカラダが私を包み、震えながら「生きろ」と、ただそれだけを伝えるのを、私は確かにこのカラダで受け取ったのだった。


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