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私は作品じゃない
高校生のとき、父に「お前は何をやらせてもうまくいかない。失敗作だ」と度々言われたのをよく憶えている。
『親が絶対だ』という考えを幼少期からもっていたため、高校生のときは本当にそうなのだと思っていたが、大学に入って色々な友人ができ、ようやく父が間違っていることに気がついた。
小説家・詩人のヘミングウェイはこんな言葉を残している。
「人生について書きたいなら、まず生きなくてはならない。」
当時高校生だった私は、父の言葉を鵜呑みにして己の作品性を定義づけ、そこから生きることを放棄していたように思う。本当に自分を何かに定義づけたいなら、生き続けなければならない。
そこで、先ほど思いついた私の言葉を残そう。
「人は作品ではない。」
自己は他人にも、自分にも定義づけられるものではない。
自分の子どもであっても定義づけてはいけない。
『作品』とは、変化することのない、無機物である。
人に『作品』としての定義を押し付けてしまえば、その人は最悪そこで歩みを止めてしまう。
老若男女問わず、歩みを止めてしまうのは生きることを放棄しているようなものである。
人を『作品』と勝手に定義づけてしまう人は、それこそ進歩しようのない『作品』と同等である。
最近やっと心の中で父を批判できるようになったのは、皮肉なことだが私が父を『作品』と定義したからだと考える。
確かに、それでは先ほど言ったように理論上私も歩みを止めた『作品』と同等になってしまう。
しかし、もう何年も会っていないことや、これまでされてきたことを鑑みると許されるのではないかと言い訳をしたい(父を作品とすることで過去のこととして忘れたがっているのかもしれない)。
歩みを永久に止めてしまった人は、『作品』となる。
決してそうはならないよう、日々学び、進歩を積み重ねていきたい。