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うつ病とともに十年以上。

先日こんな記事を上げたんですが。

もうちょっといろいろ細かく書ける部分をちょっとづつ書き留めていこうと思います(正直いって思い出せるかどうか、という話とか、様々な要素があった部分をきちんと書けるかが心配なので、書けそうな部分から)。

初発の状況、ざっくりと

そもそもの最初のうつ病発症時は、10年以上も前、まだわしがギリギリ20代だった頃。職場でちょうど人事異動があり、あまり想定していなかった部署に異動があったときでした。
(それまで異動はあれど、スライド的に動いただけだったので実質の業務はあまり変わらなかったのでした)
今までの部署と全く所属も仕事内容も勝手も異なり、右往左往するしかない。教わろうにも、何をどう聞いたらいいのかすらもうわからない。マニュアルだと言われて渡された冊子を見ただけでは、どこをどうするべきなのか、さっぱりわからない。今までの部署とは扱っている内容もシステムも異なる専用端末。(※弊社はそういうところなのです、お察しください)
先輩にあたる人物に、以前いた部署でちょっと問題があった人物が居りまして、「この人と同じ部署か・・・」と内心落胆してしまった部分もある。
せめてどうにか役に立とうと電話を取れば、電話越しにお客様から飛んでくる罵声(これは前の部署でも普通にあったけれども)。
そして職場内にたちこめるタバコの煙。(喫煙スペースが職場内にあったので、分煙になどなっていなかった)タバコ苦手なんです、ええ。

異動後だいたい一か月目になるかならないかで、帰りの道で理由もわからず涙を流していました。泣く、ではなくて、涙だけ勝手にだばだば出てた。
これはいわゆるうつ状態なのでは?と(過去に読んでいたいくつかの本の内容等と照らし合わせて)思った結果、とりあえず検索で出てきた近隣のクリニックへ手あたり次第電話をかけ、(最初の数件は断られたが)どうにか受診予約を取り付けた。
己の不調がどうにかよくなればいいと思って受診したので、最初は幾つかの薬をもらっていったのみだった。
覚えている限りで、そのとき処方されたのは確か「ソラナックス」とか「トレドミン」か「コンスタン」、その辺だった気がする(もう資料が手元に残ってなかった)
しばらくこの病院で薬をもらって飲んではいたものの、効いているのかわからない状態が続き、結局主治医に仕事がどうしてもつらい旨を伝え、病休の診断書をもらう形になった。(このときはまだ、自分でかろうじて「もうだめだ」の判断ができていた様子)
結果的に数か月とかそのくらい病気休暇を取ることになりました。確かそんくらい(うろおぼえ)
きちんと治ったかといわれると、疑問符を浮かべるレベルの状態であったことは確か。それに、以降も通院・投薬はずっと続いていたので。

この前後に身辺に起きていたこと

実はこの当時、家(というか部屋、マンションの一室)を購入して間もない頃だったりする。と言っても全部自分の持ち分ではなく、妹との共同購入という形。しかしローンはわし一人でまかなえてしまったので、支払い分はすべてわしのみ、という状況。
(この「家」についてはひと悶着あるのだが、それはまたいずれ)
そしてその時期(異動前)は、元の職場の時点でそこそこ残業が多く発生していた。といっても世間一般の社畜さんのような午前様とかではないので、全然マシなレベルであるが。(そういう部署も存在するのだが)
業務上のシステム移管とかそういう面倒な時期と重なったりしたせいでもある。
この時期から変な時間に眠気が押し寄せたりしてはいたものの、単なる寝不足だろうとか軽く考えていた。もしかしたらこの当時から既にうつ状態の兆候があった可能性もあるが、あくまで想像の域を出ない。

まあその引っ越して間もない新居に、何が悲しくて親しくもない上司等の訪問を受けねばならんかったのか、と(※連絡ができない状態が続いていたので、ある意味仕方ないのだが)。

このときの異動は結局一年でまた異動になってしまったんですよね。(職場との面談で「合わない」という旨は伝えたのと、よほど適性がなかったと思われたため。元の部署系列に戻された、ともいう)

確かこのくらいの時期に、前の部署のときの友人から「ここの病院いいよ」とオススメされたクリニックに転院。ちょっと距離はあるものの、女医さんでお話がしやすく、今もずっとここのクリニックに通っている。教えてくれた彼女に感謝。

あとそういえば前の部署で色々あったときに過呼吸発作的なものが一瞬出たことがあったな。知識で知っていたから自力でどうにかしたけども。
(※趣味の一つに「『家庭の医学』を読む」というのがありまして)

あ、もういっこあった。
一応付き合ってた(と思っているがどうだったのか)人と別れましたね、そういえば。時期をすっかり忘れてましたが、家買ってからだ、うん。
相手に全く先が見えなかったってのと(聞く限りずっとニートだった)、家を買う時点で妹が「私、結婚しないから!」とか言ってたんですよね。じゃあこっちに付き合ってる相手がいるのも後々面倒だなぁって思って、さっさと別れたんですよ。
まあ妹は、その数年後に家から出ていって結婚したけど。あいつ、自分の言葉にすら責任持ってないな。いっそうらやましいな。

再度異動、再発。

以前居た部署と似た系列の部署に配属されたものの、まったく同じ仕事ではない、前任からの引継ぎがあまりにも雑(担当者に聞いても無駄なことが多かったので最終的に問い合わせなくなった)、(それまでにも窓口業務はあったのだが)かなり窓口での対応が多く求められる、少々気難しいお客が多くて扱いがとても大変、などと、今考えたらまた体調崩すフラグてんこ盛りじゃないですかやだー。

予想どおりそんなに時を経ないまま、ろくに仕事もできない状態に陥り、これはだめだと長期病休に入る。
当初はマジでなんも部署の業務内容が頭に入っていかないので、家で泣きながら(当時ちょっと関連のある仕事についていた)母に聞いたりしていたのだ。
この時期は周囲に恵まれた部分が大きかったのだけども、それでもうつ病にはなるのだ。一度発症してしまうと、ふとしたことで再発する可能性も高くなる、気がする。
寛解、というかどうにか持ち直して職場復帰はしたものの、当然のように現在に至るまで通院・投薬は続いている。
この頃はメインの薬がおおよそ「パキシル」だったような気がする。腰椎椎間板ヘルニアのほうで「サインバルタ」も処方されてたので両方だろうか。

この時期に起きたこと

お猫様をお迎えしました。上の記事参照。
え、世話できるの!?とか思いつつも、どうにかこうにかしてました。(かなり雑だったとは思うけれども)
猫をお迎えしたからと言って、うつが良くなるわけではないけれど、小さな命を守ろうと思うことそのものが、「生きる」こと自体へのモチベーションに強く繋がっていたと思う。(リスカやODをしていないのも、猫が居る=自分がお世話をしなければ死んでしまう、という責任がよぎったのもある)
発病以前からずっと消えない希死念慮を抱えながらもどうにか生きているのは、この小さな家族のためだと今も思っています。

あと母が一時期こちらの家に来て働いていた(こっちで働き口を見つけて、週末に一都県挟んだ自宅へ帰る、という生活をしていた)。つまり、この時期は母のバックアップ(強制尻叩きともいう)があったのだ。

別部署に異動、再々発までの間。

しばらく前述の部署に居たが、さすがに長いと異動になってしまった(あまり長期で同じ部署に居られない弊社なのだ)。
今度の部署はある意味自分にうってつけの部分も多い、つまり適応しやすいタイプの部署だと思えたのだが・・・。
異動してきて最初の年にいきなり突発性難聴で入院
主な原因はストレスらしいんですが、当時そこまでのストレスを感じていなかったので自分でもよくわからない。(今考えると、目まぐるしく対応する窓口業務と電話対応部分だろうか、とか思わんでもない)あ、今はきちんと聞こえてます。初動が比較的早かった(金曜夜に気づいて、月曜受診、火曜日に入院したよ)のも運がよかった。
その数年後に、今度は階段で足を踏み外し足首の靭帯損傷。入院こそしなかったものの、複数の靭帯がいってたらしくがっちりギプスで固定、体力がなさすぎて家からほぼ出られないレベルに陥る(松葉杖で歩くのもギリギリなレベルだった)。
で、2年ほど前に一度、完全にどうしようもなくなってうつ状態に陥りました。
・・・今療養中なのに、計算が合わなくね?と思った人。正解。
いいえ、ここからまだおかしくなるんですよ。
このとき、どうにか一年ギリギリくらいの間で、職場復帰までもっていくことはできました。できてしまったんです。
ただ、明らかにこれは仮の復帰だと、自分でもわかっていた。明らかにまだ壊れているのを部品が足りなくて騙し騙し動かしている、そんな状況です。

結局避けて通れなくなってしまった、家族の話

家族の話題をメインで出しますが、私は母に病気の状態を毎回ギリギリまで隠していました。理由は簡単、「(扱いが)面倒だから」に尽きます。
現在は、母自体は別のところに住んでいるので、まだ平和なのですが・・・。(※母子家庭育ちなので、母親の話題が大半です)
で、このときは病気休暇が半年を過ぎたくらいの頃に言わざるを得なくなりました。
で、その際、ついにケンカ(口論)になりまして。
私の部屋をどうにかする、という話になりました。
フォロワーさんはご存じの可能性もありますが、立派なオタク趣味で汚部屋の住人です(物が圧倒的に多い)。そしてうつ状態が続いて掃除まで意識がいかない。そりゃもう大変ですね。正直なところ、母をこの状態の自室に入れたくなどなかった。
趣味にそもそも理解がなく、ヒステリー気味の母がどうなるか。
まあ当然、「こんなものは全部ゴミだ、捨てろ」って言いだしますよね。(実際に言われたよ)

壊れている状態の心をさらに停止させた状態で、だいじだった物(確かに乱雑に部屋の中に置かれているのはよろしくないとはわかっていたが)を捨てる・売るものに分けていく悔しさ。泣く泣く、ではなく、涙を全部動くためのエネルギーに変換して動いていた。実際は泣きながらだけども。
あのときに、私の「母親をだいじにしようという気持ち」は完全に殺した。
現在どうにか表面上は普通に振舞っていても、絶対に消えない痕が残っている。全く、将来がとても楽しみですね。
それと、己自身についても。「要らないものを捨てろ、というのなら、母から見たら今の私自身が確実に要らないものだよな。気に食わないんだろな」と、認識をさらに強めた。
なるほど、これでは今まで自己肯定感なんて育たなかったのは仕方ないな、とかそういうことをぼんやりと考えながら、さてどうやってこの部屋で死のう、これ以上汚すと後が面倒だからブルーシートでも用意しておこう、などと比較的明瞭に思い描いていた。もともとあった希死念慮がどんどん強まっていった時期だ。明確な自殺企図だ。
今思い返すと、この時期が一番危うかっただろうと思う。家にいる小さな命だけが、私の救いだったよ。これは今に至るまで変わらない。
この状態を維持したままでも結局、どうにか職場への復帰が叶ってしまった。

発達障害の診断をしたよ

またこの病休からの復帰直前あたり、以前から気になっていた発達障害の検査を受けました。診断といっても、とある大学での研究に使われる資料になるんだとかいう話でした。
まずは通っているクリニックで専門の方(カウンセラー?)にお話をしたり、家から母子手帳や学生時代の通知表を資料に持参したり。あとは専門の方が、私が幼い頃についての話を母に聞いていました。
そしてその研究をされている大学で、様々なテストを受けました。知能テスト的なもの、と言えばいいのかしらん。「WAIS-Ⅲ・AQ」て書いてあるな。
結果は後日、クリニックの先生から受け取りました。
クリニックの先生曰く発達障害に得点的には1点足りないレベルの状態」ということでした。
先生、それっていわゆるグレーゾーンってやつでは・・・?
傾向としては「自閉症スペクトラム」の分類になるようです。一昔前で言うとアスペルガーも自閉症もこちらに該当する、って言ったほうがわかりやすいかもですね(他にも様々なものが一緒になったのが自閉症スペクトラムという近年の新たな分類)
が、つい先日投薬開始したのはADHDの薬なので、おそらくどちらの傾向も持っている、と思ったほうがいいのでしょう。多少効いてる感じはする。
また、先生に当時「でも、どちらかというと、すごく傷ついている、という印象」と言われたのが強く残っています。

もしかしたら、いつできたのかもわからない傷がまだたくさん残っていて、ふとしたはずみで傷口が開いてしまうのかもしれない。時限爆弾のように、何も無くても突然爆発してしまうようなモノかもしれない。
忘れたかった過去の記憶は、どこかしらに傷としてずっと残っているのか。

ともかく、認知機能水準としてはおおむね「平均から平均の上」という状態だったものの、中での差が大きい、という凸凹が数値的に明らかになりました。客観的判断、だいじ。
ただでさえ、母からは「あんたはトロい」「どんくさい」「気が利かない」「空気が読めない」と常々太鼓判を押されていたのですが(すべて幼少期から言われてきたものです)。それも当然の結果だったよ。
作動記憶と処理速度、特に処理速度は低くてねー(平均の下から平均)。動作が鈍いのは仕方ないと思えたよ・・・。
処理速度はかろうじて平均に引っかかっているレベルなので、知識や意見が頭の中でグルグルしてはいても、それが外に出てくるまでの反応が遅い。昔のパソコンのようですな。ずっと砂時計が出てる感じ、だろうか。
その速度をどうにか底上げするために、職場では「周囲にアンテナを張り、早めに判断を出して動く」ことをやっていたので、消耗が激しいのです。

しかし、当時の状況考えたらかなり悪めのコンディションで受けたはずなので、今同じ検査受けたらもう少し違う結果が出るかもしれない。などと思ってみたりしました。さすがに再度同じ検査は受けられないだろうけども。

職場復帰、そしてあっという間の再々発。

リハビリ出勤もしたのに、結局一年足らずでうつ再発です。再々発?
ある意味想定はしていた。それくらい前回の状況(主に母とのひと悶着)がひどかった。
そして職場に復帰してからの周囲の状況がかなり変わっていた、というものもある。復帰後の周囲からのプレッシャー、メンタルヘルスに無理解な上司、残業こそ少な目ではあるものの日中の怒涛の激務、と、あっという間に体調ズタボロ、メンタル壊滅。いやー早かったですね。
再々発の長期病休に入る前に、何度かどうしても動けない日が出て休みを取らざるを得なくなっていたんですが、その都度都度上司にネッチネチとお小言を食らったり(多少のお小言はわかるけども、仕事させてくれ)、提出しても最終的には突っ返される診断書を提出させられたりしていたら、そりゃあストレスもマッハですよねー。
実際に動けなくなる状態のときは、うつ状態に他の体調不良も重なるときだったので、腰椎・頸椎のヘルニアで通っている近所の整形外科の先生に診断書をお願いしたものの「受診日と休みに入った日が違う」(休んだ初日は当然全く動けず、翌日に通院せざるを得なかった)と書類を突っ返されたりしておりました。いや、「病気の休みの初日と受診日は違うが、それでも診断書は必要なのか」と問い合わせたよね!?それでも必要だって言っておいて、提出させたあとそのまま戻されてくる診断書の料金が割と悲しかったです。マジで。無駄な出費にもほどがある。(なお、そのときの休みは最終的に有給消化という形になってました。最初からそうしたいっていうたよな?診断書無意味じゃない?)
そんな状態で、むしろ一年近くもよく保ったのではないか。ぶっちゃけ、さっさと長期病休に入るべきだった、とか思わないでもない。

実際、途中で休みがちになった段階で、「せめて一年は保ってくれ」と自身の体調に言い聞かせてました。結局どうにもならんかったがのぅ。

そして現在へ(病気により長期休養)

結局休みに入ってしまって、しょげながらもどうにか日々過ごしているところです。(なお部屋は未だに腐海に沈んでおる)
突然に沈み込んで動かなくなったり、べそべそ泣いたり、今日はそこそこ体調がいいのでは?と思われるときにはなるべく外に出て歩いたりしながら、回復を図ったりしています。
体力をつけることも、お日様の光を浴びることも重要な任務なのです。

そういう状況で、必要な書類提出のたびに職場にどうにか向かっていくわけですが、割と毎回「元気そうだね」と何気なく言われるのが地味に苦痛
そりゃ外面は元気そうに見えるでしょうし、なるべく当日真っ当なコンディションになるように頑張ってきてますからね。でもこれは、あくまでも一時しのぎ用。今までどうにかやっていた、そんなことすらも人並みにできなくなっています。
そういうことは、一部の方には全く伝わらない。
なんなら、「元気そうに見えるのに、まだ復帰できないの?」まで言われますからね・・・大事な書類の上に涙と鼻水をまき散らすところまで想像がつくんですが。お客様の電話でパニック起こしますけどいいんですか。
いや、言ってくるかたには悪気はないと思いたいのですが、結構コレ堪えるんですわ。悪気がないだけに余計つらい。
これは復帰したらしたで、段階を踏むとか無く即現場復帰で前と同じ量こなせって言われるのが目に見えてるなぁ。(前回の復帰時が割とそうだった)
(どうにかゆっくりやろうとする横に仕事積んでくる上司だったからな)
産業医からの意見、伝わってないのかな・・・というレベルで通常運行。うん知ってた。そういう弊社だって。

現在のところは、薬が色々変更になって「イフェクサー」「エビリファイ」それと昨年暮れぐらいからADHDの薬「ストラテラ」を飲んでいます。今のところ、どん底まではいかないでどうにかなっている感じ。

今後とか、どうしよう、とか

正直なところ、今の状態で弊社に居続けてもまた無理がでる可能性が高いとは思うのですよ。かといって、転職には不利な条件が整いすぎている・・・年齢、ローン、病気・・・いやこれ人生そろそろ詰みじゃない?
己の得意分野もいまだに謎で、役に立てることなんてあるのか?としか思えないので、「お前にはコレが向いてるんじゃね?」みたいな強みがあればいいんですがね、全く何も思いつかないね。うん。
どこかで拾ってくれる神様でも居ないだろうか、とか、あとは宝くじに夢を託すくらいしか思いつかない。他力本願にも程がある。

前述のとおり、発達障害の心理検査によって己の特性はある程度わかってきても、それをどう生かしたら真っ当に人並みに動けるようになるのか、そのあたりはまだまだ手探りのままです。

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こんな状態でもいつか、光が見える日なんて来るんだろうか、なぁ。

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