アマリリスとスズラン【うたすと2参加作品】
霧のような雨が、音もなく夜の噴水広場に敷き詰められた煉瓦の上へと降り注いでいる。
わたし以外に誰も照らさない街灯の光が、ただ静かに濡れてぼうっと煙っている。
腕の中に抱えたあなたへの花束は、すっかり濡れてしまいながらも、かえって瑞々しさを増しているかのように、一日を終えようとする街に帳を下ろす闇の中で、純白の輝きを保っている。
今のわたしの気持ちも、同じ。
あの頃から、あなたへの気持ちは、萎れることなく、同じまま。
◆
この広場で出逢った頃のあなたは、どこにでもいる、夢を目指して田舎から出てきた青年だった。
まだ何者でもない、何者の影響も受けていない、何者も演じたことのない、役者の卵。
わたしはあの頃から、今も何も変わらないままの、花売り。
あなたは言った。「ぼくはまだ芽も出ていないような若造だけれどーーいつか、華やかで彩りに富み、多種多様に咲き誇る、アマリリスの花のような役者になるんだ」
わたしは言った。「わたしは派手でも華やかでなくても、慎ましやかな小さな白い花を付け、贈った相手の幸運をささやかに祈る、スズランの花が好きなの」
あなたは言った。「今のぼくにはきみを幸せにしてやるだけの実力も財力もない。だけどいつか、成功して、きみを幸せにしてみせる」
わたしは言った。「そうなったらどんなに素敵なことかと思うけれどーーわたしは、今の生活のままでいいの。そうーーあなたと二人で歩めるのだったら」
あなたは若さゆえの情熱で、勢いのある若手の劇団に籍をおくと、果敢に様々な役に挑戦していった。
脚本からひとつひとつの人生を読み込み、自らの内側に流し込み、台詞や動作に落とし込み、ひとりの人間の人生に溶け込んでいく。
その姿を見守るのが、わたしは好きだった。それが評価されようとされなかろうと、役作りに打ち込むあなたを見ていられれば、それで幸せだった。
今のわたしの気持ちも、同じ。
あの頃から、あなたへの気持ちは、萎れることなく、同じまま。
◆
そしてあなたの夢は、努力は、情熱は、ついに実を結んだ。
大きな舞台で抜擢された主役を見事に自分のものにして公演を成功させただけでなく、その演技を認められ、選ばれた役者にしか与えられない誉れある賞を授かった。
今頃、街の中心部の劇場では、彼が栄冠を手にした授賞式が晴れやかにフィナーレを迎えている頃だろう。
あなたが公演を終えるたびに、わたしはスズランの花束を渡してきた。その花言葉のように、『再び幸せが訪れますように』と、ねぎらい祝福するとともに、次もまた成功することを願いながら。
今のわたしの気持ちも、同じ。
あの頃から、あなたへの気持ちは、萎れることなく、同じまま。
◆
名もない役者の卵から、わたしの知らないたくさんの人からも褒められるようになったあなたのもとに、ひとつのオファーが届いた。
「主演、しかも王立劇場の舞台で。この役で認められれば、本当に、子どもの頃からの願いが叶うんだ。……またとないチャンスなんだ」
そうこぼすあなたの顔は、何故か、曇っている。
「主人公は、大切な人を喪い、絶望に打ちひしがれ、誰も信じられなくなった哀しい男。そんな難しい役どころに人生を賭けて臨むために、しばらくの間、没頭したい。……独りぼっちになって。きみと離れて、きみを喪ってーーその絶望を、その辛苦を、その孤独を、すべて演技に注ぎ込みたいんだ」
わたしはーー
賛成は、しなかった。
反対も、しなかった。
ただ、二人で暮らしていた部屋の玄関に、いつもそうしていたように、白い花を飾った。
そして、あなたは部屋を出ていった。
今のわたしの気持ちも、同じ。
あの頃から、あなたへの気持ちは、萎れることなく、同じまま。
ただ、あなたの夢を応援したい。
ずっと変わらず、心からそう思っている。
だから、
だからこそ、
役者としてのあなたを、邪魔したくない。
雨はまだ、わたしと花束だけを濡らし続けている。
あなたはきっと、ひっきりなしにあなたのもとにやってきてあなたを称える人々のせいで、きっとすぐには抜け出せないことだろう。
わたしは一言、「おめでとう」と呟く。
そして、こぼれ続ける水滴を、瑞々しく滴らせた花束を、街灯にくくりつける。
これが、わたしからあなたへの、最後の花束。
どうか、あなたの人生が、これからも輝かしくありますように。
わたしのいないところでも、スズランの祝福がありますようにーー
◆
すっかり雨のやんだ夜の街並みを、逸る気持ちのまま、足早に駆けていく。
終わったらすぐに行くからと手紙で伝えたのに、すっかり足止めをくらってしまった。
あの頃のぼくは、きみに宣言した。
いつか成功して、きみを幸せにしてみせる、と。
若さゆえの無謀な約束だったけれど、きみも今のままでも幸せだよと言ってくれたけど。
今のぼくの気持ちも、同じ。
あの頃から、きみへの気持ちは、萎れることなく、同じまま。
絶対に成功したくて、大切なきみを遠ざけてしまったけれど。
ぼくはやり遂げて、ひとつ上のステージに登り詰めることができた。
だから、次からはーーどんな役が来ようとも、環境を変えることなく、演じきることができると思うんだ。
不幸な役どころも、哀しい場面も、きみと二人幸せを手にしたままでも表現してみせる。
授賞式で受け取った、華やかな大輪のアマリリスの花束を、誰よりも、自分自身よりも、きみに受け取ってほしいんだ。
二人出逢ったあの広場が、視界に入ってくる。
すっかり待たせてしまってごめん。
今、会いにいくよ。
【終劇】
◆
……幕が降りきると、水を打ったように静まり返っていた客席から、わっと歓声が巻き起こった。
地響きのようなそれを耳にしたわたしは、成功を確信し、胸を撫で下ろす。
相手のために身を引くことを決め、成功を収めた恋人とすれ違ってしまう、悲劇のヒロイン。
わたしはこの役を演じきるために、この悲恋の脚本のように、現実の恋人と一時的に距離を置くことを決めた。
でも、それも、今日で終わる。
あなたに会いに行こう、
すれ違ってしまう前に、
スズランの花束を持って。
わたしはそう決意する。数えきれないほどの鈴を一斉に振ったかのように、鳴り止まない拍手を聴きながら。
(了)
こちらの楽曲「ブーケ・ドゥ・ミュゲ」から着想を得て書きました。
「うたすと2」という企画への参加です!
文字数オーバーしてしまいましたがお許しください!
もう一作品参加していますので、こちらもよろしく!