清盛はなぜ頼朝を生かしたか——藤本脚本の真骨頂
「平清盛」は、間違いなく、大河ドラマ史上の最高傑作である。誰が何と言おうと、この確信はけっして揺らがない。一年間毎週リアルタイムで欠かさず観ていた。それどころか後半は一週間に何回も――BS放送、本放送、再放送、そして録画したものを――観た。そして翌年からはブルーレイを購入し、毎年全五十話を一回は観るようになって今日にいたっている。これほど嵌まったドラマはほかにない。
なぜこれほどまでに、私はこのドラマに魅了されるのか、惹きつけられるのか、と問わずにはいられない。何年も折に触れそのことをずっと考えつづけてきた。一言でいえば、ドラマとして完璧だから、としか言いようがない。完璧なものはただひたすら美しい。美しいものは人を魅了して止まない、そういうことではないか。このドラマの何が、どこがそれほどまでに「美しい」のか。完璧な脚本の構造、珠玉のような台詞の数々、セットや衣裳や音楽・・・そのすべてを統御する的確な演出、そして役者たちの魂の演技、そのどれか一つが欠けても大河ドラマ「平清盛」は成立しない。すべてが(五十話それぞれのタイトルや紀行までも含めて!)ジグゾーパズルのピースのように、もっともふさわしい位置にピタッと嵌まって、一つの鮮やかな「平清盛」像が浮かび上がる。ドラマの醍醐味を味わい尽くすことのカタルシスは極上のものだ。
「友の子、友の妻」の衝撃
私がこのこと=このドラマの「美しさ」に気づいたのは、物語がほぼ半ばまで進んだ第二十八回「友の子、友の妻」を観たときだった。まずこの「衝撃」について触れないわけにはいかない。何が衝撃だったのか。それは、一言でいえば、この大河ドラマ全体を貫くテーマ、このドラマで問われるべき「問題」が突然目の前に現われた、という驚きである。私はその「完璧な脚本の構造」を目の当たりにして、文字通り驚愕したのだ。まだ物語の半分しか観ていないのに、そのとき確かに、第一回から第五十回までを貫く物語のテーマがその輪郭をくっきりと現わし、全五十話全体を串刺しのように貫いているのを見た、と思ったのだ。それは「なるほどそうか、そうだったのか!」と思わず叫びたくなるような快感が走る感動の瞬間だった。私にとって、すべてはここから始まったと言ってよい。
大河ドラマ「平清盛」のテーマ、この物語全体に通奏低音となって響きわたっているテーマとは何か。それは「なぜ清盛は頼朝を生かしたか」という問いである。「なぜ清盛は頼朝の命を救ったのか、なぜ殺さなかったのか」「あのとき源氏の血を根絶やしにしておけば・・・はたして平氏は壇の浦まで追い詰められることがあったのだろうか、歴史はどう変わっていたのか・・・」という疑問は、日本史を学んだ誰もが一度は抱いたことがあるだろう。その「問い」に対して、この物語は全五十話を通じて、「武士の世をつくるため」という一つの明確な「答え」を与えている。このドラマは、「清盛の志が頼朝へと受け継がれ、武士の世がつくられた」ということ、清盛(平氏)から頼朝(源氏)へと「志」が受け継がれたことによって、朝廷・貴族支配の政治のしくみが根底から変えられ、武士が頂に立つ新しい世が生まれた、ということを私たちに伝えようとしているのだ。頼朝こそ清盛がその「志」を託すべき唯一の存在だったからこそ、清盛は頼朝を殺さなかった、清盛が頼朝を生かしたのは歴史の必然だった、ということである。
まずこのテーマが明らかになった「衝撃」とはどのようなものか、物語の展開に即して示しておこう。それは清盛が頼朝へ裁断を言い渡すシーンで突然やってくる。
頼朝は清盛に二度会っている。初対面は、上西門院統子の殿上始の儀に参列したときである。統子の蔵人に取り立てられていた頼朝は、その宴の席で清盛への献杯を命じられた。頼朝は、清盛と初めて「あいまみえた」この日を「私にとって忘れられない日」だったという。頼朝の目に清盛は「大きく」見え、その存在感に圧倒された。緊張のあまり手が震え盃から酒を溢れさせてしまった頼朝に、清盛は「やはりもっとも強き武士は平氏じゃ、そなたのような弱き者を抱えた源氏とは違う」と言った。このとき清盛は、微笑みさえ浮かべ嬉しそうに優しい目で頼朝を見ていた。そのことがずっと不可解だった頼朝は、ある日義朝に「平清盛とはいかなるお方にござりますか」と尋ねる。すると義朝も嬉しそうに、清盛と初めて会った若き日の競べ馬のエピソードを語って聞かせる。清盛の謎めいた言葉は、このとき競べ馬に勝った義朝に「もっとも強き武士は源氏だ。貴様のような情けない者を抱えた平氏とは違う」と言われた言葉をそのまま(もちろん平氏と源氏を入れ替えて)返したものだった。このとき初めて頼朝はあの日の清盛の優しい目と微笑みの意味を理解した。そして、父義朝と清盛が、若い時から志を同じくしてともに闘ってきたかけがえのない「友」である、ということを知ったのだ。
二度目の対面は、「平治の乱」後、捕らわれの身となって清盛の館に身を寄せていたときである。すでに元服し十四歳となっていた頼朝の処遇をめぐって、清盛のまわりではさまざまな思いが交錯していた。母の宗子は、若くして亡くなった家盛の面影を頼朝に重ね、断食までして命乞いをする。宗子を心配して頼盛、重盛らも清盛に助命を嘆願する。その一方で、信西の弟子西光は、必ずや首をはねるように、とわざわざ釘を刺しにやってくる。
清盛は、宗子には「情に流されるわけにはいかない」とやんわり返し、西光には「言われるまでもない!」と強い口調で断定した。平氏の棟梁として、論理的にも状況的にも、頼朝を生かしておく選択肢は、はじめから清盛の頭にはなかったはずだ。しかし清盛の最終的な裁断は「伊豆への流罪」となった。死罪から流罪へと、清盛はなぜ「心」を変えたのだろうか。清盛は、頼朝を前にした裁断のある瞬間に、自分でも思わぬ「言葉」を口にしたのだ。
まず清盛は、義朝との一騎討ちの顚末を語って聞かせ、義朝が残していった源氏重代の太刀髭切を頼朝の目の前に差し出した。父義朝が清盛との一騎討ちに破れ、髭切の太刀を残して去ったことを知った頼朝は、そんな父の弱々しい後ろ姿を見たくないと振り切るかのように、早く殺してくれ、と叫ぶ。頼朝はこのとき、財にものを言わせ朝廷に取り入る平氏をまやかしの武士、武の力で東国の武者たちをまとめあげ朝廷と真正面から向き合ってきた義朝(源氏)をまことの武士とよび、「もう見とうございませぬ。まことの武士がまやかしの武士に負けた。さような世の行く末を私は見とうございませぬ」と言って、清盛が手にしているその髭切の太刀で一刻も早くこの首をはねるように、と訴えた。
このとき清盛の目には、弱々しく覇気のない背中を見せて去っていく義朝の姿が、頼朝にだぶってはっきりと見えていた。そして清盛はその義朝に――目の前の頼朝に――思いの丈をぶつけるように言葉を重ねていく。「お前はそれで気が済むだろう。ただ一心に太刀を振り回して、武士として生き、武士として死んだ。そう思うておるのだろう。」「だが俺はどうだ。俺はこの先を生きてゆかねばならぬ。お前のおらぬこの世で、武士が頂に立つ世を切り開いてゆかねばならぬのだ。それがいかにむなしいことかわかるか。・・・いかに苦しいことかわかるか」。「だが俺は乗り越える。・・・乗り越えてこその武士じゃ。醜きことにまみれ、この世の頂に立つ!途中で降りた愚かなお前が見ることのなかった景色を、この目で見てやる!そのときこそ思い知れ。源氏は平氏に負けたのだと。あのつまらぬ乱を起こしたことを悔やめ。おのれの愚かさをののしれ!」。次第に激昂していく清盛は思わず髭切の太刀を抜き「俺はお前を断じて許さぬ!」と義朝=頼朝の目の前に突き刺した。そして一気に裁断を下した、「誰が殺してなどやるものか。まことの武士とはいかなるものか、見せてやる。・・・源頼朝を――流罪に処する。遠く伊豆より、平氏の繁栄を、指をくわえて眺めておれ」と。
この台詞には、同じ未来を見て青春の日々を共に闘ってきた友義朝への心底から沸き上がる「怒り」と、その友を永遠に失った「悲しみ」に溢れている。この清盛の「思いの丈」に説明は不要だ。どうして、平治の乱など起こしたのか、信西の挑発に乗ってしまったのか、もう少し待つことはできなかったのか、ともに武士の世をつくるというあの約束はいったいどこへいってしまったのか・・・。義朝のいない世界をこの先ずっと一人で生きていかなければならないという嘆き、寂しさ、孤独・・・、清盛は目の前の義朝=頼朝に向かって、そうした「思い」のすべてをぶつけるしかなかった。しかしその「思い」を乗り越えて、必ず武士が頂に立つ世を切り開きそこに一人立つ、そこからの景色をこの目で見る、という「決意」を露わにする。きれいに散っていくことだけが武士の矜持ではない、醜いことにまみれても「志」を貫くということ、それが清盛にとってまさに「まことの武士」のあり方、「武士であること」の証だった。
そして思わず「殺してなどやるものか」という言葉を言い放つことになったのだ。おそらく義朝への溢れる思いに身を任せていたとき、清盛には目の前の頼朝が本当に義朝に見えていたはずだ。そうした清盛の心象風景を頼朝と義朝を入れ替える映像で表現した演出は見事だった。「殺してなどやるものか」という言葉には、どうあがいてももう二度と共に闘うことのできない義朝に、武士が頂に立ったときに見える「そこからの景色」を見せてやりたいという気持ちがそのまま表われている。この瞬間に、義朝とともに見た夢の在りかを、武士としての「志」を、頼朝へと「繋いだ」のだ。その清盛の思いは、頼朝にも確かに伝わっていた。それはこのシーンが、「私はただぼんやりと、その大きな背を見送ることしかできなかった。ただその背に、わが父義朝の果たせなかった志までも負うていることだけはわかった」という頼朝のナレーションで終わることからもわかる。清盛にとって、頼朝はまさしく「友の子」であった、ということだ。
清盛と頼朝――二人を繋ぐ物語
清盛が若き頼朝と最後に対峙するこのシーンは、物語の「テーマ」が浮き彫りになったというだけではなく、そのテーマを「伝える」ためにどれだけ脚本・演出が緻密に組み立てられているかということが同時に明らかになったという意味でも「衝撃」だった。
第二十八回は、ドラマ全体のほぼ折り返し地点にあたる。物語の前半では、王家と武家という二つの出自の間で揺れ動く多感な少年時代を過ごし、源義朝と佐藤義清(のりきよ、後の西行)というかけがえのない友と夢を語り合い、兎丸と「世の中をひっくりかえす」という約束をし、頼長には中二病の鼻をへし折られ、後白河とは「双六遊び」に興じ「遊ぶように生きる」ことを競い合う因縁の仲となり、信西とは対立しつつも新しい世をつくるために共闘し・・・すなわち、さまざまな人々との関係のなかで清盛は成長し、「武士として生きる」というアイデンティティを少しずつ確立していく。そして、義朝を失ったまさにこのとき、清盛は青春に日々に別れを告げ改めて自らの「志」をはっきりと見定める、「武士の世をつくる」のだ、と。頼朝への「裁断」には、父忠盛や義朝だけではなく、頼長や信西のように、立場や考え方は違ってもこの腐り切った世の中をどうにかして良い方向へ変えようと一所懸命に生きてきた人々の「志」をも背負う「覚悟」が表われている。ここから清盛は、たった一人で孤独な闘いに挑んでいくことになる。
そして第二十八回以降、物語は清盛と頼朝の「生」を同時並行的に「対比」しながら進んでいく。それはなぜか。清盛から頼朝へと「志」が受け継がれるとはどういうことか――この物語のテーマの意味——を示すために、二人の「生」がどのように繋がっているのかを丁寧に描く必要があったからだ。清盛が一身に背負っているその「志」の意味を、頼朝がはっきりと理解し自ら引き受けることになるには、長い時間が必要だった。頼朝は伊豆で「清盛とはいったい誰か」「清盛のいうまことの武士とはいったい何なのか」を考えつづける。それは、まさに自分自身の存在理由を、自分自身がこの世で成すべきことは何なのか――すなわち自らのアイデンティティ=志――を探し求めることであった。そして清盛が自らの「志」を見失いそうになって苦悩ししだいに暗闇のなかへと落ちていく過程にまるで呼応するかのように、頼朝は「きのうがきょうでも、きょうがあしたでも、あしたがきのうでも、まるで変わらない」日々を過ごしながら、少しずつ日向の方へと導かれていく。そしてある日明るみの只なかに立ちすべてを覚る――ついに「武士の世をつくる」というその「志」を摑みとるのだ。後半生の清盛の「孤独な闘い」は、頼朝が伊豆で挙兵を決意し、苦悩しながら清盛の「志」をはっきりと理解するまでの「孤独な闘い」ときれいに重なっている。
こうして、前半から後半へと大きく展開(転回)する物語全体において、「清盛はなぜ頼朝が生かしたか」という問いに、「清盛の志が頼朝へと受け継がれ、武士の世がつくられた」という応答を与えていくという物語の構造が浮かび上がってくる。そのことがはっきりとわかるのが、ドラマ全体のほぼ折り返し地点にあたる、この第二十八回なのである。「清盛から頼朝へ」というテーマと構造は、たとえばなぜこの物語が一貫して頼朝の口から語られるのか、を考えることで、よりいっそう明確になる。
第一回の最初のシーンを思い起こそう。物語は、壇の浦の勝利を告げる政子の晴れやかな声が響くなか、「私が平家の滅亡を知ったのは、父・義朝の菩提を弔う寺の立柱儀式の席だった」という頼朝の静かなナレーションから始まる。頼朝は、歓喜に沸き立ち平家への恨みを口にする家来たちとは対照的に沈痛な面持ちで、「やめえ!平清盛なくして、武士の世は来なかった」と声を荒らげる。そして「おかしなことを口走ってしまった、と自分でも思った。自ら平家を滅ぼしておきながら何を言っているのだと。しかし私は知っていたのだ、海に生き、海に栄え、海に沈んだ平家という巨大な一門。その平家一門を築き上げた男、平清盛こそが、誰よりもたくましく乱世を生き抜いた、まことの武士であったことを・・・」という確信に満ちた心の独白がつづく。改めて第一話を見返したとき、すでに冒頭でこの物語全体のテーマがはっきりと示されていたことに、驚愕した。「平清盛」は、最初から最後まで一貫して、源頼朝がナレーターとなって物語が進んでいく。この第一話の冒頭のシーンに呼応するかのように、最終回もまた頼朝の、しかし今度は希望に満ちた声で、「平清盛なくして、武士の世は、なかった・・・!」と詠嘆して終わる。物語の始まりと終わりは、中盤の清盛と頼朝の二度目の邂逅、そして終盤の頼朝の覚醒と相俟って、全体のテーマと響きあっている。
さらに最終回では、止めをさすかのように清盛から頼朝へと直接「言葉」が渡され、「武士の世」をつくるという「志」が受け継がれたことが明確になる。清盛は死の間際、生霊となって西行のもとに現われ、平家一門の人々と頼朝に遺言を残していた。壇の浦の戦いで平家が滅亡したあと、西行は一人鶴岡八幡宮に頼朝を尋ねる。若き日の西行=義清のことを義朝から聞いて知っていた頼朝は快く迎え、しばし時を忘れて語り合った。頼朝が西行にたいし「京随一のもののふと呼ばれたお方」という言葉を口にしたとき、西行は「お戯れを・・・京随一、いや、日本一のもののふとは誰のことか、お手前はすでにご存知のはず」と返した。そしていよいよ清盛の「遺言」を言い渡すという場面で、二人の三度目の(幻想の)対面が実現する。西行が「頼朝」と呼びかけたとき、すでに頼朝は西行に清盛の姿を見その声を聞いていた。「わがせがれどもがきっとそなたを討ち取る。そしてそなたが首をきっとわが墓前に供えようぞ」と清盛が言うと、「さて、そうは参りませぬ」と頼朝が返す。清盛は「そう言うと思うたわ。しからば頼朝、まことの武士とはいかなるものか、見せてみよ」と頼朝に微笑みかける。二人の表情は、爽快で晴れやかだ。十四歳の頼朝にまことの武士とはいかなるものか「見せてやる」と言ってその命を救った清盛の「志」は、いま確実に頼朝に受け継がれた。人は生きているうちに志を遂げることなどない、すべての人が志半ばで死んでいく、しかしそれは必ず受け継がれていく、誰に?それを受け継ぐにもっともふさわしき人に。五十話すべてを貫くテーマがここで、「見せてみよ」という言葉に結実し、物語は終わりを迎える。頼朝が清盛の生涯を語るという構造、頼朝がナレーターであることは、このドラマにとってまさに必然であったのだ。
「平清盛」が清盛と頼朝を繋ぐ物語であることは、五十話を貫きドラマを織りなすあらゆるプロットに見いだされる、といっても過言ではない。すべての出来事が絡みあい響きあい一つのテーマを奏でているということが、さまざまに散りばめられた伏線‐回収の鮮やかさからもよくわかるのだ。以下では、その中から「髭切の太刀」と「一本の矢」について簡単に触れておこう。
「髭切の太刀」の消息
武士と刀は切ってもきれない関係にある。この物語では、清盛が父忠盛から譲り受けた宋剣と源氏重代の太刀友切が、武士のアイデンティティをめぐる問い——武士とは何か、武士はなんのために刀を振り回すのか——を呼び覚まし考えさせる象徴的なアイテムとして、終始重要な役割を果たしている。
保元の乱のあと、清盛と義朝は青年らしい軽口をたたきあうなか、お互いの武勇を称えあう。友を切るとは縁起が悪いからこの機会に名前を変えようと思うと言う義朝に、夜を撤して戦ったそのむさ苦しい無精髭を見て、清盛は「髭切にせい」と言う。こうして友切は、清盛の提案で髭切へと名を変え、ここから「強く生きる」という義朝の武士としての「志」を色濃く帯びたまま、数奇な運命を辿ることになる。まず平治の乱で袂を分かつことになった清盛と義朝は、宋剣と髭切で一騎討ちを戦い、敗れた義朝は髭切を河原に置いて去る。ここで髭切は義朝から清盛の手にわたるのだ。そしてすでに述べたように、平治の乱後の裁断で、清盛はこの太刀を頼朝の目の前に突き立て伊豆への流罪を言い渡す。こうして髭切は再び「源氏」の御曹司のもとへと差し戻され、その傍らに置かれたまま深い眠りにつく。この眠りを強引に覚まし、「武士とは何か」という問いを否応なく頼朝に突きつけたのが北条政子である。
政子は、髭切の太刀をめぐる頼朝のアンビヴァレントな態度——遠ざけつつときに激しい感情をぶつける——に俄然興味を掻き立てられ、どうしようもなく頼朝という人物に惹かれていく。政子と頼朝はいわば真逆の生き方をしていた。「きのうがきょうでも、きょうがあしたでも、あしたがきのうでも、まるで変わらない日々が永久に続く」、そう思って廃人のような日々を送る頼朝にたいして、「あしたときのうはけっして同じにはならぬ。きのうは変えられぬが、あしたはいかようにも変えられる」「あしたを変えるはきょうぞ、今このときぞ」と政子は言う。そしてこの政子によって頼朝の「あした」が「鮮やかに変わるその刹那」がやってくる。政子と頼朝の邂逅がいかに必然であったかがわかる。
頼朝に恋心をつのらせながらも、父の思いをくみとり嫁ぐ決心をした政子は、婚礼の日それでもどうしても「言っておきたかった」ことがある、と頼朝のもとに駆けつける (第四十二回「鹿ヶ谷の陰謀」)。政子は勝手に館に上がり箱の中から髭切の太刀をとりだし、驚いて止めようとする頼朝と揉み合いながら、雨の降りしきる庭先に降り立つ。頼朝が地面に崩れ落ち、太刀を手にした政子が傍らに立つ。この構図を見たとき鳥肌が立った。第二十八回の頼朝と清盛のあの場面と同じだったからだ。清盛の位置に政子が立ち髭切の刃を突きつけながら、溢れる思いをぶちまける、あの時の清盛のように。「遠く伊豆より平家の繁栄を指をくわえて見ておれ」と清盛が言ったのは「まことこのような暮らしをせよということなのか」。「ほかになにがあると申す」力なく返す頼朝に、「ならばなにゆえ、この太刀を渡されたのじゃ、武士の魂を忘れるなということではないのか」と力強く政子は断言する。その言葉にはっとする頼朝の耳に、あのときの清盛の声がよみがえる、「誰が殺してなどやるものか、まことの武士とはいかなるものか見せてやる」と。清盛は「武士の世」をつくるという志を、源氏重代の太刀を介して、頼朝へと伝えていたのだ。二人の会話が、美しい。「連れていってくれ・・・私をあしたへ・・・きのうと違う、きょうとも違う、私のあしたへ」、「連れていけとは女々しいお方じゃ、ともに参ろうぞ、まだ見ぬあしたへ」。源氏の復活を予感させる希望に満ちたシーンだ。
「一本の矢」のメタファー
しかしこれはまだ覚醒の始まりにすぎない。頼朝はここからさらに、遠く都から聞こえてくる清盛の「暴走」「悪行」に思いを馳せながら、自らに問いつづけるのだ、清盛のいう「武士の世とは、武士の魂とは何なのか」を。そして「一本の矢」の意味を真に悟ったとき、ようやく答えをみつけ、清盛とは誰だったのか、清盛は何をしようとしていたのか、を完全に理解し「腑に落ちる」のだ。
「平清盛」は、清盛の生きた平安末期という時代の雰囲気を、近代的な価値観で否定あるいは合理的に解釈することなく、むしろ最大限に生かす脚本・演出になっている。虚実ないまぜ、その間(あわい)をそのままに描きとる、まさに藤本脚本の真骨頂がこのドラマの世界観と絶妙にマッチしている。そしてそのもっとも鮮烈な表現が、清盛から放たれ鳥羽院を介して遠く伊豆の頼朝を射抜いた「一本の矢」のモチーフだ。
「一本の矢」とは、清盛が「世に名高い祇園社の争い」で神輿に向かって放った「一本の矢」のことである(第十三回「祇園闘乱事件」)。ことの一部始終を目撃していた鬼若(後の弁慶)が「平清盛が、まっすぐに、神輿を狙って矢を射た」と証言したため、都には衝撃が走り、清盛の処分をめぐって大騒ぎとなる。裁定を下す鳥羽院と清盛は、白河院を父とする兄弟という奇妙な縁で結ばれていた。鳥羽院は迷っていた。平氏(の財力)なくして自分の世がつづかないことはわかっていた。しかし清盛を許すということは、ともに白河院の血を引く身内を許すということ、「この身に流れる白河院の血に操られておるように感ずるのじゃ」と。鳥羽院は未だ自分が白河院の亡霊に囚われているのではないか、と自信をもてずにいる。朝議は紛糾した。罰を恐れぬ清盛の大胆不敵な所業に対し、信西は、この世がたった「一本の矢」によってかき乱されているということ、それこそ「清盛が世に欠かせぬ男だということ!」と言い放ち、頼長は「おってはならぬということじゃ!」と言い返す。
清盛ははたして「国の宝なのか、あるいは禍なのか」。清盛に興味をもった鳥羽院は、突然清盛が蟄居している検非違使庁内の一室を訪れ、「そちが神輿を射たはわざとか、手違いか」と問いただす。一瞬間があったが、清盛は手にあった二つの賽をぎゅっと握りしめ「わざとにござります」と答える。鳥羽院は「射てみよ,神輿を射たときのごとく、朕を射てみよ」と静かに大きく手を広げて躰をさしだした。清盛がゆっくり立ち上がり矢を射る仕草をすると、次の瞬間鳥羽院はみぞおちを押さえて傷を確かめるように手を開いた。大きな高笑いが響く。「血が、噴き出ておる。わが身に棲まう、白河院の血が、一滴残らず流れ出ておる」「平清盛、そちが矢を射たのではない。そちこそが神輿を射抜いた矢そのもの。白河院が、朕が、乱しに乱した世に報いられた一本の鋭き矢じゃ」と言い残し去っていった。
矢を放った清盛は放たれた矢そのものとなって美しい軌跡を描きながらまっすぐ頼朝のもとへ飛んでいく、「武士の世」をつくるという志を伝えるために。頼朝はこの矢に射抜かれ、完全に覚醒する。このことがはっきり示されるのが、第四十八回「幻の都」である。「一本の矢」の伏線はここで見事に回収される。頼朝は、挙兵後もずっと、清盛について思いを巡らしていた。源氏は着々と勢力を固めのぼり調子だが、頼朝は釈然としなかった、「私はいまだにはかりかねている」と。清盛の目指した武士の世とは何なのか、まことの武士とはいかなるものなのか、今世間に見えている清盛の姿がそれを示しているとは到底思えない、と。そこに義経と弁慶がやってくる。なぜ挙兵したかと尋ねる義経に、ひと言では難しいと躊躇しながら「父上の武を証たてるため・・」と言う。そして義朝と清盛には、切磋琢磨しともに武士の世を作ろうとその「志」を語り合った若き日があったことを話した。「はかりかねている」頼朝は、同じものを目指していたはずの二人がどこで袂を分かったのだろうか、と思わず「いまは武士の世とは名ばかりの平家の世だ」と口走り、自分が平家を倒して今度こそまことの武士の世をつくる、と言う。その頼朝の言葉を受けて、源氏を先々代の棟梁から知る弁慶が、ぜひそうしてくれ、と口を開く。そして、清盛がわざと神輿に矢を射た瞬間をこの目で見たことを、鳥羽院が真相を聞きに清盛を訪れたときの、あのエピソードを頼朝に語って聞かせた。
このとき頼朝の顔色が瞬時に変わった。頼朝は、ここではっきりと理解し確信するのだ。清盛がここまで成してきたことすべてが、まさに武士の世をつくるためのものだったのだ、と。朝廷に入り込み上り詰めたのは、内側からその仕組み自体を壊し、乱れた世を糺し、新しい武士の世をつくるためだったのだ。すべてはそのために、「この世に報いられた一本の矢」として人生を生きてきたのだ、と。「そのとき、私にはわかった。別れ別れになったかに見えたわが父義朝の道と清盛の道は、再びひとつになると。そして、それこそが私のつとめであると」。このとき、清盛が射た矢を真正面から受けた頼朝は腹を押さえて前かがみになる、あのときの鳥羽院のように。この「一本の矢」こそが「志」そのものである。清盛の「志」が「友の子」頼朝へと受け継がれた瞬間である。
清盛が歴史の表舞台に初めて登場し鮮烈な印象を残した「祇園闘乱事件」をもとに、矢を放った清盛がその矢となって歴史を切り拓いていくというモチーフを一つのエピソードにまとめ上げる脚本の手腕、そして「志」の継承という抽象的なテーマを、「矢を放つ/矢を受け止める」という「虚構」の動きだけで表現した大胆な演出には唸るしかない。まるでシェイクスピアの舞台劇をみているようだ。
幻の都——「福原遷都」とは何だったのか
「幻の都」、なんと美しいタイトルだろう。清盛は後半生を福原で過ごした。海を愛し海に生きた清盛は、都に海をもってくるという途方もない野望を抱く。しかし「遷都」は失敗に終わりわずか半年で京への「還都」を決断せざるをえなくなる。この回では「福原還都」をめぐる清盛の苦悩、そして諦念、さらに頼朝の真の覚醒が描かれる。それはなぜか。「福原遷都」こそが清盛の「志」を貫徹するためにどうしても必要なことだったからだ。
「武士の世」とは武士が頂に立つということ、けっして「治天の君」を戴いて武士がその下で権勢を振るうということではない。「都」とは天子(権力者)の居る場所のことである。清盛は、朝廷内での地位を上げることで実質的な権力の座に上り詰めたが、誰も武士の世がきたとは思っていない。「驕る平家は久しからず」、誰でも知っているこのフレーズには、平氏に対する世間の見方がどのようなものであったか、が端的にあらわれている。武門である平氏が平家になって権力を掌握したものの、しょせん武士は武士(武士のくせに貴族のまねごとなんかしちゃって!)、やりたい放題の悪政で民の心は離れ、分不相応な野望は打ち砕かれ、みるも無惨に滅亡した(ほらみたことか!)。誰も——武士でさえ——「武士の世」がどのようなものか、理解する者はいなかった。ただ清盛と頼朝だけが、それがどのようなものであるか、明確な姿を心に思い描くことができたのだ。だからこそ、清盛は福原に、頼朝は鎌倉に拠点を置き、「そこから」政を行なったのだ。
平氏の武を象徴する存在である伊藤忠清は、清盛のめざす「武士の世」は「武士のままでは、つくれぬものでございました」と言った。だが清盛はあくまで「武士のままで」「武士の世」をつくろうとしていた。清盛にとって「福原遷都」こそ、それを実現する絶対条件だった。だから清盛は福原に執着した。十年以上福原を拠点に京の都に睨みを利かせ、自分が(名実ともに、実だけではなく名も!)権力者であることを示そうとした。しかし清盛の思いは遂げられなかった。義朝の死からずっと志半ばで倒れたすべての人々の「志」を背負って生きてきた清盛もまたここで、志半ばで死んでいかねばならない、そのことがはっきりと描かれる。
物語の後半、怒濤のように福原と鎌倉の対比のシーンがあらわれる。清盛と頼朝が、図面を広げながら確固とした明るい表情で、都をつくる計画を語る場面が交互に映しだされる。希望に満ちた頼朝の船出と絶望に沈みゆく清盛の野望。武士の世の武士の都とは何か。武士の世は、京を都にすることはけっしてできないのだ。それがわかっていたからこそ、清盛はあれほど福原遷都に執着したのだ。そして夢破れ、失意のうちに「還都」を決断せざるをえなかった。頼朝だけが、福原が武士の都であることを真に理解していた。京から遠く離れた鎌倉——京の求心力が及ばない鎌倉——がもう一つの中心として武士の都たりえることがわかっていた。だから頼朝は「武士の都」を鎌倉に造って「みせた」のだ。すべてを吹っ切った清々しい表情で矢を射る仕草をする頼朝。確かに、清盛の志は頼朝へと受け継がれた。頼朝もまた清盛と同じように、「一本の矢」となってこの世に放たれたのだ、武士の世をつくるという志を遂げるために。
福原遷都の意味をこれほどまで鮮やかに示した「物語」がかつてあっただろうか。福原遷都は、けっして「権力者の我が儘」でも「殿のご乱心」でもない、ということだ。
この身に「流れている/浴びてきた」血
衝撃の二十八回を経て改めて第一回を見直したとき、その完成度の高さに驚いた、と言った。五十話かけて丁寧に描かれていく物語のテーマ、そのエッセンスがすべてこの一話に凝縮している、と感じたからだ。第一回のタイトル=テーマは「二人の父」である。王家の血を引くという事実が、清盛のアイデンティティの、そしてこの物語の構造の基盤を形成している。貴種であるということと武士であるということとのあいだに引き裂かれて在るしかないという清盛の宿命が、歴史を動かしていくのだ。清盛は、時の最高権力者白河院と白拍子(舞子)の子として生まれ、武家である平氏の家で育てられ、「自分はいったい何者なのだ」というアイデンティティの揺らぎを経験し、ついに「武士として生き、武士の世をつくるという志」をもつにいたる。そしてこの「志」は血の繋がらない父忠盛のもとで清盛が摑みとり、血の繋がらない友の子頼朝へと受け継がれていく。「この身に流れている血」ではなく「この身に浴びてきた血」が決定的に重要なのだ。
白河院は第二回で早くも世を去るが、物語全体を通して圧倒的な存在感を示し、異母兄弟の鳥羽・後白河との確執を通して清盛のアイデンティティの確立や政のあり方に大きな影響を与える。五十の宴で権力の絶頂を迎えた直後、清盛は病に倒れて高熱に浮かされ奇妙な夢の中にいた(第三十四回「白河院の伝言」)。生まれる前、母の胎内にいた記憶が蘇ったかのように、生まれてくる子がこの世の「禍」となるという陰陽師の予言、白河院に赤子を流すように言われ逃げ出す舞子、父と母の出会い、そして全身に矢を浴びて果てるという衝撃的な舞子の最期、胎児の清盛が経験したことが、第一回の回想のかたちで繰り返される。病いの床に臥し苦しむ清盛は、これからこの世に生まれ出る「産みの苦しみ」を反復しているかのようだ。
長い夢=胎児の記憶をみていた清盛は、最後に舞子が亡くなったあの庭でその亡骸にすがりつき泣きじゃくっていた。舞子が消えふと目を上げると、白河院がいる。「どうじゃ、太政大臣の座り心地は?」。「早々と空けわたしました、あまりよい心地ではございませんなんだゆえ」。清盛の躰にはやはり「もののけの血」が流れている、と言う白河院に、清盛は泣きながら保元の乱の顚末、叔父をこの手で斬ったこと、源氏を滅ぼしたことを語る。そしてこう言うのだ、「私を上へ上へと駆り立てるものは、この身に流れる血ではござりませぬ。この身に浴びてきた血がそうさせるのです」と。この言葉は、武士の「志」が清盛から頼朝へと受け継がれたという「テーマ」に呼応している。「この身に流れる血」と「この身に浴びてきた血」という対比が鮮やかにテーマを際立たせる。清盛は、ここで明確に、「この身に流れる血」=「もののけの血」に抗いつつ、「浴びてきた血」=「志半ばで散っていった人々の流した血」に報いるためにも、「武士の世をつくる」という「志」を新たにするのだ。そしてそこには、見舞いにきた乙前が謡う「遊びやせんとや・・・」が、舞子の歌声に重なるかのように響いている。何よりも、清盛の「志」の原点にあるのは、遊ぶように軽やかに「面白く生きる」ことなのだから。
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大河ドラマ「平清盛」の「美しい構造」について——清盛と頼朝の関係に照準し——そのほんの一端を明らかにしてきた。まだまだ語るべき/語りたい論点はたくさんあるが、ひとまずここで筆をおこうと思う。
最後に、この物語でけっして忘れてはならない重要なキャラクター、清盛のもう一人の「友」、伊藤義清=西行の言葉を引用しておきたい。西行はこの物語において、まるで虚実の間(あわい)を行き来するかのような、不思議な立ち位置を占める。義朝とともに清盛の「友」として物語に内在しつつ、世捨て人となってからは物語全体を俯瞰するかのように、清盛の生涯に寄り添い、清盛が人生の岐路に立ち何か決定的なできごとが起きるとき、必ず目撃者/証言者としてそれを見届けるのだ。彼が発する言葉の重み、何よりその美しさは格別だ。死の間際に生霊となって西行のもとに現われた清盛に、西行はこう言った。「嬉しいときも、楽しいときも、辛いとき、苦しきときさえも、いついかなるときも、子どもが遊ぶようにお手前は生きた、生き尽くした。矢は中央に当たるがもっとも美しく、歌はそれにふさわしき言葉が選ばれ見事に組み合わされたときこそもっとも美しい。・・・お手前の生きてこられた平清盛の一生、まばゆいばかりの美しさにござります」。「美しく生きる」ことを志として生きてきた西行が、「面白く生きる」ことを志として生きてきた清盛に対して明言したこの言葉、これほどの称賛の言葉がほかにあるだろうか。清盛の人生の目撃者/証言者として、俗世を超越し美しく生きようとしてきた西行と、まさに俗世で汚いものに塗れながらも必死で志を貫き面白く生きようとしてきた清盛の人生がまさにここに交錯したのだ。このあと、西行は頼朝のもとを訪れ、清盛の最期の言葉を伝えた。二人を繋ぐ物語を完結させたのもまた西行だったのである。
そしてこの西行の言葉はそのまま、まさに大河ドラマ「平清盛」の「構造の美」を称賛する言葉にもなる。最初に述べたように、「平清盛」を一つの作品として成立させているすべての要素が、そのもっともふさわしい場所へと選ばれ見事に組み合わされているのだ。藤本脚本の台詞は本当に美しい。まったく無駄がなく、シンプルで、研ぎ澄まされている。その言葉が俳優たちの躰を通して放たれると、キャラクターが生き生きと一つの人生を生き始める。藤本脚本には主人公の人生をただ引き立てるためだけに存在するキャラクターは一人もいない。主人公に直接/間接にかかわるすべての人々にそれぞれの「人生」があり、そのかけがえのない「一生」を一人ひとりが精一杯に「生き切って」いる。描かれていることの背後に描かれていないその人の人生が確かに「在る」ことが手にとるようにわかるのだ。つまり一人ひとりの人生の必然性(この人はこう生きるしかなかったのだということ)と偶然性(もしかしたら「こう」ではなく「ああ」であったかもしれないということ)が、説得的に描かれている、ということだ。主人公補正などまったく必要ない。そしてだからこそ逆に、それによって主人公・平清盛の人生の必然性と偶然性もまた余すところなく示され、私たちはまばゆいばかりに美しい清盛の一生を、清盛(と頼朝)とともに駆け抜けることができたのである。
ラストシーンは感動的だ。若き日の清盛が、海の底に沈んだ宋剣を引き抜き高々と掲げる。兎丸の「やっと来たんか」という声に導かれ、海の底を進むと、そこには「武士の都」に居を構える平家の館がある。カメラは清盛の目線で進む。平家一門がにこやかに清盛を迎える。時子の「海の底にも都はござりましょう」という言葉が甦る。ラストショットは、遊ぶように生き夢中で剣を振り回す清盛の笑顔だ。そこに「平清盛なくして、武士の世は、なかった」という頼朝の声が重なる。私たちはその声に導かれ、第一回の冒頭のシーンに引きもどされる。そして五十話すべてが一つの「テーマ」に貫かれた物語——清盛と頼朝を繋ぐ物語——の見事な円環構造を目の当たりにするのだ。
amanatsu20240822
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