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家族の再生の物語

    2022年春ドラマといえば、やはり特筆すべきは「マイファミリー」だろう。物語の展開がまったく読めず、次週の放映をこれほど心待ちにしたドラマは久しぶりだった。(録画でしかドラマをみない娘が毎週リアルタイムでテレビの前に現われたのには驚いた)。昨今流行りの「考察」ドラマと思いきや、展開のための展開や無理筋のミスリードを極力排したつくりで、タイトルに表われているように、「家族」をテーマにしたまさに「ノンストップファミリーエンタティメント」になっていた。
 俳優陣の周到に考え抜かれた演技と演技のぶつかり合いも見応えがあった。とりわけ二宮和也の受けの演技、時折みせる凄みのある台詞回しは「さすが」だった。そして何といっても濱田岳、制作陣(そして視聴者)の期待に十二分に応える力のこもった繊細な演技を見せてくれた。自分の娘を取り戻すためとはいえ、友人の子どもを誘拐なんてするだろうかという「動機のもやもや」(=「犯罪ものあるある」)も、濱田の圧倒的な演技力によってぎりぎり押さえ込まれていたのではないか。第8回30分にも及ぶ独白シーンは、息もつかせぬ緊張感のなか、抑制の効いた声のトーンと表情に一人の男の悔恨と悲哀が滲み出ていて圧巻だった。
 壊れかかっていた温人と未知留の家族は再生の兆しをみせ(余計な演出はせず十五年ぶりの妊娠でそれを表わしていたのは正解だった)、離婚していた三輪も元妻と子どもと三人の新しい関係性を築いていくようだった。それに対して、卑劣な犯罪に手を染めたとはいえもともと被害者であった藤堂には、あまりに残酷な結末ではないか、と思った人も多かったと思う。二人で新しい生命の誕生に立ち会う未知留と温人の希望に満ちた出産シーンと、留置所の面会室で五年ぶりに再会し心春の死という現実に向き合う樹生と亜希のシーンが交互に切り替わる演出は、残酷なまでに二つの家族の対比を見せつけていて切なかった。
 しかし私は逆にそこに、藤堂樹生と亜希の「これからの人生」に微かな希望のようなものを感じた。亜希は心春のもとへ行きたいと言って失踪したが死に切れず、藤堂は心春の誘拐事件が報道協定のもと闇へと葬り去られてしまうことに耐えられず警察を辞めて一人で犯人を捕まえようとしていた。二人とも最愛の娘に会いたい、会えるまでは死ぬことすらできない、という同じ思いを抱えていた。樹生に面会にきた亜希の左手には結婚指輪があった、二人は考えてみればまだ夫婦ではあったのだ。心春が生まれて三人が一緒にいた時間は三人だけのもの、心春の十年間を知っているのは、この世界で樹生と亜希の二人だけなのだ。そして二人にとって、心春が生きているかどうかを知ること、犯人が逮捕され心春の最期がどのようなものであったか、心春の一生がどのように幕を閉じたのかを知ることが、二人が前を向くためにどうしても必要だった。遺体と対面してきた亜希に、絞り出すような悲痛な声で「心春に、会えたのか」と聞く藤堂、ただ頷き号泣する亜希、こうして現実を受け止めたことで、初めて二人の止まっていた時間が動き始めたのではないか。ここからようやく二人はそれぞれの「生」を生きていくことができるのだ。そう考えれば、藤堂が友果を誘拐せざるをえなかったこともドラマの上ではぎりぎり必然として理解できるかもしれない。藤堂が模倣犯にならなければ、犯人はのうのうと定年を迎えて心春ちゃん誘拐事件の真相は永遠にわからなかった。警察組織の闇が明るみにでることもなかった。それはやはりあまりに理不尽なことだと思うからだ。
 藤堂が刑期を終えたとき、おそらく亜希はそっと迎えに行くだろう。そして温人と未知留と三輪も、いつものように藤堂と「合流」し、きっと三組の「マイファミリー」が鳴沢家でバーベキューでもして微笑みあうだろう、そういう未来がきっとくる、そんなことを夢想せずにはいられなかった。それが視聴者の心のなかのラストシーンであったように思う。

amanatsu20220731


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