みんな我が子――All My Sons
シンプルな舞台装置。三幕ものだが一度も舞台転換することなく、ケラー家の中庭だけで息の詰まるような台詞劇が展開する。冒頭から、濃密な時間が流れていく。一つひとつの台詞が、確かな意味を帯び、劇場全体に染み渡るように響いていく。舞台で起きていることを受け止め、この家族――父ジョー(堤真一)、母ケイト(伊藤蘭)、長男クリス(森田剛)、そして戦争から未だ帰らない次男ラリー――に何が起きたのか何が起きているのかを考えようと、舞台から一瞬たりとも目を逸らすまい、一言も聞き漏らすまい、という気持ちになる。すべての進みゆく出来事が過去も未来も含みながら、登場人物たちの台詞だけで明らかになっていくからである。
ラリーの婚約者アンが久しぶりにニューヨークからやってきた日とその翌日、わずか二日しか舞台上の時間は流れない。早朝、ラリーのために植えた木が折れていることに気づいた父と長男、そして母それぞれが家族の気持ちを探りながら会話を進めていく。不穏な空気に満ちた幕開けだ。悲劇的な結末への微かな予感が漂い、劇場に緊張が走る。
戦後三年未だ帰還しない息子ラリーの生存を信じて待ちつづけるケイト、ある罪を犯しながら――共同経営者だったアンの父親はジョーが嘘の証言をしたために不良品を納入した罪を一人でかぶり刑務所に入っている――「家族のために」という一心で懸命に「賢く」ビジネスをつづけてきたジョー、父親の無罪を信じながら信じきれない葛藤に揺れ動くクリスは、アンと結婚しようとしている。婚約者ラリーの死の真相を胸の奥深くに秘めながら新しい人生へと踏み出そうとするアンは、墓場までもっていくはずだったある真実を最後の最後に、ケリー家の人々にぶちまける。ラリーは、父親の犯した罪を許すことができず、自ら死を選んだのだ。自らの罪と息子の死の真実が暴露されたあと、「やるべきことをやる」(罪を償うために出頭する)と言い着替えのために二階に上がるジョー、少しの間があり銃声が響く、泣き崩れるケイトとクリス、悲劇の絶頂で幕が下りる。
「家族とは何か」「戦争とは何か」、ビジネスとは?資本主義とは?家族を守るとは?父親と息子とは?・・・そして「みんな我が子」という言葉にこめられた意味とは?普遍的なテーマが次々と重く降りかかってくる。人は、思い悩み考えざるをえない、登場人物も観客も。初演(1947年)から七〇年以上世界中で上演されつづけていることも頷ける。戦争の生々しい記憶が残るなか、現代劇として上演された本作が、「問題作」であったことは容易に想像がつく。重厚で素晴らしい舞台だった。余韻がまだ醒めない。
[補足]
後日戯曲(倉橋健訳、ハヤカワ演劇文庫)を読んだ。「みんな我が子」というタイトルの意味をもう少し考えてみたかったからだ。
鍵になる台詞がいくつかあった。ジョーは「息子のために」「家族のために」ということばを繰り返す。問い詰めるクリスに対して「お前のため」とも言う。「クリスには家族よりももっと大事なものがある」というケイトにたいし、ジョーは「そんなものがあるか!」と返し、「奴のやることで、わしが許さんようなことはない。なぜなら、あいつはわしの息子だからだ。わたしたちはお互い父子だからだ」という場面がある。ここでジョーは、もっと大事なことがあるというなら、「わしはピストルで頭をぶち抜いてみせる!」と言っている。舞台を観ていたときは、これがラストシーンに繋がる伏線になっているとは気づかなかった。
原作の中に、「みんな我が子」という言葉は最後に一度だけでてくる。出頭するために車を用意してくれ、とケイトに告げると、ケイトは手紙を手にしたジョーに「ばかなことを、ラリーもあなたの子どもよ、ね?そんなことしろとは決して言いはしないわ」と言う。ジョーは「じゃ、これは何だ、そう言ってないとすれば?そうさ、あれはわしの息子だ。しかし、奴にいわせれば、ほかの連中もみんな我が子ということになるんだ。そう、そうなんだろう。たしかに、そうだ。」そして「すぐ下りてくる」と言って二階に上がる。これがジョーの最後の台詞だ。
この戯曲では、ジョーは終始一貫して家族、とりわけ父と息子の関係に拘りをみせている。「あいつはわたしの息子だから」「私たちは父子だから」という言葉には、父と子の「絆」に対する無条件の肯定、家族や父子の絆以上に大事なものなどない、という信念がみてとれる。しかし子のほうは、それ以上に大事なものがある、と感じている。単純化すれば、考え方の違い、価値観や世代間の違いということになってしまうが、舞台では、父も子も同じ家族、そして同じ共同体や社会、国家との重層的な関わりのなかで、それぞれに違う葛藤や悩みを抱えつつ生きているということが、ひりひりするような言葉のやりとりによって伝わってきた。
「あれはわしの息子だ。しかし、奴にいわせれば、ほかの連中もみんな我が子ということになるんだ」という台詞だけを読めば(ジョー自身の解釈にしたがえば)、ジョーは「わしの息子」を唯一無二のかけがえのない「大事なもの」だと考えているが、ラリーはそう考えてはいなかった、ということになる。ラリーは、自分の父親には、自分だけではなく、自分の友人たちも戦闘機に乗って戦った若い人々も「みんな」、自分と同じ「我が子」だと思ってほしかった。少なくとも手紙を読んだジョーはそう理解したのだ。ラリーは父の罪を許すことができず、会えば殺すしかない、という言葉を残して自ら命を絶った。
クリスはどうか。クリスもラリーと同じように、一人の社会人として父をみて、父は罪を償うべきである(刑務所へ行くべきである)、社会的に責任を果たすべきだと考えていた。しかし、クリスはジョーが、自分だけが悪いわけではない、自分が刑務所に入るというなら「国中の半分がいかなきゃならん!」と主張したとき、反論できなかった。「まさにその通り」と言うしかなかった。クリスはジョーが人より悪いというわけじゃない、ということ、「むしろいいほうだ」ということもわかっている。そしてクリスは、「ただぼくは、あなたを一人の人としては見たことはなかった。父親として見てきた。だから、こんなふうにあなたを見ることはできないんだ。自分自身を見ることもできないんだ!」と涙ながらに言うのだ。
ここに息子たちの「葛藤」がある。父親を一人の人として、見ているのに見ていない、見なければいけないのに見られない、という矛盾をどう引き受けるのか、という問題だ。しかしこの問題は複雑で簡単に解くことはできない。息子たちには、家族より「大事なもの」が明確に見えていて、父親は一人の人として社会的責任を果たすべきだ、と本当に思っているのだろうか。一人の人として見ることができれば許せる(あるいは簡単に糾弾できる)ものが、どうしても父親としてしか見られなかったからこそ許せなかった(糾弾しきれなかった)ということではないのか。ラリーの絶望、そしてクリスの心の叫びには、父親は父親であるがゆえに、完璧で立派な「一人の人」でいてほしかった、という痛切な思いが溢れている。息子たちは、社会的なものと個人的なものの間で逡巡し苦悩しているのだ。ラリーはどうすればよかったのか、そしてクリスはどうすればよかったのか、そしてこれからどう生きていけばよいのか――永遠の「問い」は残されたまま、私たちにも向けられている。
amanatsu20221107
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