書けないのなら、書けない理由を書く。(そして、希望と夢を口にする。)
3月8日。個人面談を前にして、わたしには『さとゆみライティング道場』に行く価値はなかった、と長い息を吐いた。
2月上旬に開催されたライティング道場は、2日間で計18.5時間。
数字からはみっちりと重みを感じるが、中にある時間は喜びにあふれるような、どこか軽やかなものだった。
さとゆみさんから、こちらのギガ数がすぐ一杯になってしまいそうな盛り沢山の知恵を授かり、愛にまみれた檄を全身に浴びる。限られた時間の中で、脳みそから変な汁を出しつつ、ノックしたことのない「こうありたい」自分に出会う。必死に食らいついていった11人の受講生のみんなとは、目に見えない絆ができた気がしている。
でもやっぱりダメだった。結局、わたしには意味がなかった。価値を生み出すことができなかった。あんなに濃い時間を経たのに、実際の行動が何も変容していない。今、見てほしい原稿のひとつも上げられない。
*
社会人になりたての頃、夜の公園で固まった自分を思い出していた。
告白されて、生まれて初めて付き合った先輩と、陽が短くなったことに気づかずにのらりくらりと公園に出かけたときのことだ。冷たい風に抗うようにベンチに座ってお喋りするうちに、お互いの家族の話になった。
先輩が突然、声色を変えずにとつとつと、自分の姉が自死したときのことを話し始めた。連絡を受けて中学校から飛ぶように帰ったこと。道すがらずっと頭の中で「ねえちゃんねえちゃん」と呼んでいたこと。記憶がどこか曖昧なんだけどね、と言いながら時系列に沿って淡々と打ち明けてくれた。あいかわらず声にウエットさは微塵もない。
わたしはその横顔をただ見ていた。見ているだけだった。どうすることもできなかった。
しばらくの長い沈黙のあと、「じゃ、帰ろっか」という明るさを纏った声がした。うなずいて顔を上げると、先輩の目はすこし濡れているように見えた。わたしはそれに気付かなかったフリをして下を向いて歩いた。行きよりもはるかに長い道のりだった。
あのとき、本当は声をかけたかった。
わたしから手を握って、彼を温めたかった。
何も言わなくてもいいから、ただぎゅっと抱き締めたかった。
でも、わたしは何ひとつできなかった。
なんでだろう?
なんて言ったらいいのか分からなかったから。
抱き締めるのはもちろん、自分から手を握ることも恥ずかしかったから。何度やろうとしても体が動いてくれなかった。
いや、ちがう。きっとわたしは、自死をした親族を持つ彼に対して、何か特別な「いい言葉」を探していた。そして殻が破れず、自分から「恥ずかしいこと」をする勇気がなかった。
*
もう20年近く経つというのに今でも心がきゅっとなる。
そして、今もあのときみたいに生きていないかとぞっとする。
アホみたいなプライドや恥ずかしさに負けて、自分からは何もアクションを起こさない。完璧主義で自分を隠し、大切な誰かと愛を交わし合うことができない。そんな人生は嫌だ。
さとゆみライティング道場の価値は、これからの自分が決める。
今からでも遅くない。いや40代で十分遅いんだけど、遅くない。
ここからさとゆみさんのくれた言葉『ようこそ書くほうの人生へ』のマインドで生きて、実際に書いてみようと思う。手元のノートに毎日書き散らかしているものを外に出す、すこしの勇気的なものをふりしぼって。