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ヨルシカが描く死生観と時間軸、「ことば」のちから │ 後書きの”あとがき” Vol.1

しばしば作品に描かれる「”生”と”死”の対比、そして独特な「時間の移ろい」に対するヨルシカのことばと表現について、私なりの解釈を、2つの映像作品に触れて書いていきたいと思います。


「雲と幽霊」「ブレーメン」

いずれも、登場人物が歩く場面が描かれた映像とともに楽しまれている作品です。

『雲と幽霊』では、"幽霊になった僕"が画面右から左へ。
移りゆく懐かしみのある景色の中を歩いていく映像が続きます。

薄れゆく記憶の中を逆行するように左へ左へと流れていき、最終的には忘れられないサルスベリに彩られた夏バス停の記憶へと戻って来る、その夏の記憶が、遠くの空で縦に伸びる夏の雲のもとでノスタルジックに語られているような、そんな印象を受けました。

序盤=つまり右の方では鮮明に描かれた町並みが、
思い出を遡るほどに縁取られた断片的な映像になっていくこと、

「僕」が時折立ち止まって記憶を確かめるように進んでいくこと、
それらすべてが重なり、『言って』のアンサーとしての「死」と、それに伴う忘却を想起させます。

こんなに単純な話ではないのだろうと思いますが、
右側は時間の流れる先=未来、
左側は思い出の流れてくる=過去といった構図になっているように思います。

一方ブレーメンでは、革靴を履いた人物と、履物を履いたつま先立ちの女性の両足は左から右へと流れていき、それ以外は皆右から左へと歩みを進めます。
右から左へ向かうそれらの両足は、他の作品に登場する人物たちを想起させる表現になっており、明確に「死」と紐づけて表現されていない人物たちでもあります。

逆に革靴の人物と履物の女性は、おそらく北欧の海で花緑青を飲んで先立った少年エイミーと、『思想犯』でつま先立ちしていた彼女(=妻)を表現しているように見えました。つまり、すでにほかの作品で「死」と紐づけられている人物です。

『雲と幽霊』では右から左へと記憶を遡っていた”幽霊”
一方ブレーメンでは左から右へと歩む「先立った」者たち。

そのあべこべは、何を表現しているのでしょうか。

左右、時間の流れ、生と死の対比。
それを象徴するような『ブレーメン』という作品の次に発表されたタイトルは、『左右盲』でした。

左右の判断や指示が咄嗟には判断できないこと。 左右失認(さゆうしつにん)とも呼ばれる。

「左右盲」とは。

n-bunaさんが意図しているかどうかはわかりませんが、
私はこの並びを見たときに、彼・彼らの表現したい死生観を垣間見たような気がしました。

以前Suisさんのインタビューにもあったような、「ゆるやかな死をまっている」という言葉。

自分がいま生きているのか死んでいるのか、過去を思っているのか今を感じているのか、あるいは未来の、現状記憶にないものを願っているのか。そういった言葉にならないふわっとした感覚は、誰しも一度は感じたことがあるのではないでしょうか。

生きるということ、夜に向かう列車に例えた「大人になること=時間が過ぎてゆくこと」という時間軸と、死生観にかかわる表現が、様々な作品に散りばめられているような、そんな妄想をしています。

生きているのか死んでいるのかわからない。
それでいて明確にどちらかに振り切るのは怖くて勇気が出ない。そんな感覚を持つ人が、この世の中には多くいるのでしょう。

そういった方々が、
あるいは自身は明確に「生」を感じていても、身近な大切な人が「死」の側に待っている方々が、ヨルシカの儚くも美しい言葉に救われていることを私は知っています。

流れ行く時間と、ことばあそび、
そして繊細な生と死の表現。

私はヨルシカのことばに、救われています。
また他の作品についても、私個人の解釈をいつか書けたらと想います。



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