夏暁の花|⑫

「家に来て」

 僕の汗ばんだ腕に絡みつく指が、未だに離れない。僕は首を縦にも横にも振ることができなかった。

「ううん……まだ早かったわよね、ごめんなさい。もう少し距離が縮まったら、来てくれる?」

ようやく首を縦に振る。
それから少し口ごもってから「じゃあ、僕、早く家に帰らなきゃならないから」と早口で言ってするりと彼女の指から逃れて急いで階段を駆け下りた。

 いつまでも、彼女の絡みつく指の感触が追いかけてきて、僕は死にそうになりながらも家路を走った。
走っていなければ、射精でもしてしまいそうだった。
今日はきっと入学以来最短時間の帰宅だ。

汗がびっしょりとシャツを濡らし、肺はパンクしそうなほどに痛くてはちきれそうだった。
でも、僕は未だに、彼女の濃密な香りと滑らかで美しい指の感触を忘れられなかった。
それでまた胸も肺もおかしくなりそうで、玄関先で崩れ落ちた。

 長い時間をかけて一息ついて、シャツを脱ぐ。汗よりも、母がハマっている洗剤の香りが鼻をついた。
 部屋に帰って、事の顛末を試行錯誤する。

相沢さんの家に行ったとして、一体何があるのか?
きっと彼女ことだから手料理も絶品で、振る舞いたい、とか。
でもこんな僕にそんな高待遇があるわけなどない。

相談でもあったりするのか?
いや、僕に相談したって解決しないことくらい彼女は分かっているだろう。

 そもそも僕と彼女の関係は、何なのだろう。

最近の僕は相沢さんの好意に甘えてしまっているから、もっと立場をわきまえなければならないのではないのだろうか。
そうだ、僕と彼女は触れ合うような関係になってはいけないのだ。

彼女は優秀で、美しく、気高く、だからいつもひとりでいる僕を気にかけてくれたのではないだろうか。
長ったらしい前髪を切ったりして、友人を作ろうと画策してくれていたのではないだろうか。

だとしたら、だとしたら、だとしたら。

 また違う汗が、僕の背中を伝う。

両膝を抱えてベットの脇に座り込んで、目眩に耐える。
急に熱でも出たんじゃないかというくらい寒気がした。

もう、彼女の好意に甘えてはいけない。
僕はそう強く決めた。

 その日から、僕は彼女を避け始め、やがて行われた席替えでも離れ、また彼女は遠い存在となっていった。
我ながら良くできたと思った。

それでも募る想いは消えず、僕を苦しめた。
一度見た天国は夢のように過ぎ去り、それを思い出しては自分を慰めた。

 机の上の擦れた花丸だけが、その夢が本物であったことを教えてくれる。
それを消さないように大事に守ることが、彼女を想う僕に許されるただ唯一のようなことだけのように感じた。

もう絶対に彼女に同情なんて真似をさせたくない。

 高野さんに対してもまだ怒りが消えない。理不尽かもしれないけど、僕は彼女が許せなかった。
あんなに楽しそうに写真を見せてきた高野さんとなんか決して口をきかなかった。

というわけで僕は中学時代のように、独りになった。
不思議と辛くはなかった。
独りで食事をし、休憩時間はipodと過ごし、放課後はひっそりと帰る。
ただその繰り返しをしているだけだった。

 だけれど、季節がはっきりと変わり、一学期が終わる日。
相沢さんは僕の前に立ちはだかった。

いつものように昼休み、パンを食べながらヒカルを聴いていた時だ。
きっちりと折り目のついたスカートが僕の前にやってきた。
そして、あの頃とは違う甘美な香りを纏って彼女の顔が僕の前にひょっこりと現れた。

いつかの日のように、椅子をギギイと音を立てて後ずさったりはせず、僕は静かに俯いた。
伸びた前髪が、表情を隠してくれる。

今の僕は、ただの悪いことをした子供のようだった。
胸の鼓動を、ヒカルが隠してくれているような気がしたが、イヤホは強制的に彼女の手によって取られる。

「碓氷君」
「……」
「碓氷君、今日、待ってる。今日貴方が来なかったら、もう近づいたりしない。約束するわ」
 
 それじゃ、とだけ呟いて彼女は去っていった。
しばらく避け、屋上にもいかないせいで声をかけてこなかったが、こんなに接近してきたのはあの屋上の日以来だった。

最終通告というやつだった。

僕は人差し指で、机の花丸をこする。
あっという間にそれは消えた。

 思わず僕は机に突っ伏す。
息がこもって、机に水蒸気が貯まる。
クーラーのついた教室なのに、息が熱くて堪らない。

彼女への気持ちは勿論変わっていない。
いや、彼女への気持ちが何なのか未だに僕の中では分かっていないのだけれど、崇拝するような気持ちは変わっていない。

けれどこんな気持ち悪くてぐるぐると汚く回転し続ける気持ちを話すことはできそうもない。
どこかドロドロとしていて、毒沼のようで。

……なんて。この後に及んで、嫌われたくないだけだ。
どこまでも保身的で、ほとほと自分に呆れる。

 それにしても、相沢さんは何故僕に近寄ってくれるのだろう。放課後だって。
正直、僕はやっぱり嬉しかった。
彼女と屋上で過ごした時間や、今も話しかけられたこと。
僕の心は喜び飛び跳ねていた。

 放課後、屋上へ行こう。そして聞けばいいのだ。
何故自分に良くしてくれるのか。
以前家に呼んだ理由は……そこまで聞けるような口の利き方を僕は知らない。

そうして過ごした午後は落ち着かなくて、こすった花丸を見つめては髪をぐしゃりと無造作に掴んだ。

 放課後のチャイムが鳴ってから、十分経ったのを確認して屋上へ向かう。
死刑宣告を受けた囚人のような面持ちだと、自分でも思った。
静まった廊下が、特にそう思わせた。

 久しぶりに、手前の階段でスリッパを脱ぐ。誰もいないとわかっていても、僕の癖だった。
すると、屋上の手前で座っている相沢さんが、居た。

スリッパを持っている僕がおかしかったのか、のこのこやってきた僕がおかしかったのか、彼女は少しだけ笑って、立ち上がった。

「貴方がここまで来て帰らないように、今日はここで待ってたわ」

そう言って屋上のドアを開ける彼女に続いて、僕も屋上へと出た。
スリッパを履いていなかった足が、靴下の上からでも火傷しそうになるほどに暑く、僕達をジリジリと焼く陽気だった。

「合鍵を作ってたの。碓氷君にもらった鍵は先生に返してしまったからラッキーだったわ」
「そう、なんだ……」
「ねえ、碓氷君」

 相沢さんが日陰に手招きしながら僕を呼ぶ。

「久しぶりね」

 僕はこくっと頷き、膝を抱えた。
困った、やはり言葉が上手く出てこない。

「前ここで話してた頃はぽかぽかしてたもの」

 瞬間、相沢さんの白いカッターシャツが揺れるのを僕は見逃すことができなかった。
隣に座る相沢さんは清潔そうなキャミソールを着ていたが、その奥の下着がふと見えてしまった。
不思議と、性欲よりもただ彼女がそこいらの女子と同じ格好をしているということに呆けてしまった。

「どうしたの?」
「いや、何でもなくって」

 言葉が続かない。僕はいつも、相沢さんへ説明しづらいことばかりを考えているような気がする。

「……どうして私を避けていたの?」
「相沢さんは……僕に優しくしなくてもいいから」
「どういうこと?貴方と接して、お喋りして、優しくしてくれていたのは貴方の方よ。そもそも合鍵くれたのだって貴方じゃない」
「そう、だけれど」
「私は貴方に歩み寄ってはいけないの?」

 その質問は僕にとって予想外で、きらきらと光っているようにも、汚泥の入口のようにも感じた。

「僕は、相沢さんと、接することができるような人間じゃないから」
「そんな事貴方じゃなくて私が決めることよ。ねえ、碓氷君はなにか大きな勘違いをしているわ。私は私の意思でここに来て、ここで碓氷君と話しているのよ。それで、家にも来てほしいってお願いしているの」
「どうして、信じられない」
「まず貴方のその自信の無さ、私を傷つけているって自覚してほしいわ」

 僕の口が円滑に動くようになってから、一旦会話が止まった。
僕が、相沢さんを傷つけているって?
僕が、彼女の感情を揺さぶるような人間であると?

森羅万象を統べる神にでもなった気分だった。

「……私は父と二人暮らしなの。でも碓氷君はただ、押入れの中でその暮らしぶりを見ていてくれればいいの」
「何でそんなこと……」
「碓氷君だからよ」

 だらだらと汗を流す僕の頬を、彼女の指がまた絡みつくように滑っていく。
彼女の指に、僕の汗が染み込んでいく。

「碓氷君、貴方には分かってほしいことがあるのよ」
「……わかってほしいこと」

 何でも受け入れてしまえばいいのだ。それで私が満足するなら、それでいいじゃないか。
彼女の指が、そう僕に囁いた。

 強く生温い風が汗を散らしていく。
暑さでなんとなく気だるくなった体を少し崩すと、相沢さんもそれに倣ったかのように美しい脚をまっすぐと伸ばした。
その白い脚が日光に反射して、眩しささえ感じた。

僕はやっとのことで彼女の方を見る。
日陰でもその白さと紅い唇は際立ち、彼女の魅力を放っている。
俯き加減の長い睫毛とつんとした鼻筋は、より一層彼女の美しさを増して見せているように見える。
腰まで伸びた美しい髪は誰もが一度は梳いてみたいと思うだろう。

いつだって、彼女はこんな生き物だった。
入学式で彼女に出会ってから、彼女はその風貌を全く変えない。

こんな生き物に告白できたり、気軽に話せる人間がいることが不思議で堪らない。

「五時になったら帰らなければいけないのだけど、まだ時間があるわ。私を避けていた間何をしていたか教えて?」

 相沢さんは目を合わせて意地悪そうにそう言うと、にんまりと微笑んだ。
僕は顔をかっと赤らめて目をそらして前を向くと、じっと考えた。

けれど、何も思い浮かばなかった。
それを、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら喋りだす。

「朝、いつも通り起きて、朝は野菜ジュースだけ飲んで……学校はいつも通りで、ヒカルを聴きながらうたた寝をしたり、昼ごはんを食べたり……放課後もいつもどおりで、さっと帰る……帰るといつも通り晩ご飯の時間まで眠って……」
「真っ当ね」

彼女がそこで話を遮る。それこそが真っ当のように思えた。

「高野さんとはもう話していないのよね」
「ああ……うん」
「彼女、部活に没頭しているみたいね。羨ましいわ」

相沢さんは何も知らない。
僕に喜々としてあの画像を見せてきたことを。
告げ口もしたくないし、高野さんを持ち上げたくもない僕はまた曖昧に頷いた。

 ふと顔を上げると、空には大きな入道雲がかかっていた。
物が浮かんで見える有名な海の画像のように青みがかった透明感が、その雲を包み込んでいる姿を、優艶だと思えた。
隣に相沢さんがいるからか、屋上が久々だからか。

今の僕にとってはどちらでもよく思える程、彼女に全てを委ねた僕は思考がどんよりと停止し始めていた。

 それからはしばらく、相沢さんの話が続いた。
先月あった学力テストの事(彼女は入学式以来ずっと学年一位だ)、友人とあった面白い話、進学は考えていないこと、とにかく色々聞いていた。
僕が話すことがないことを見越しているように思えた。

 僕は時折微笑んだり、悲しそうな顔をしたり、表情だけはくるくると変えてみせた。
変える余裕だけはまだあった。

 けれど頭の中はこの後相沢さんの家に行くという非現実的な誘いで頭がいっぱいだった。
しかも、私生活を見るだけでいいというよく分からない展開に、じりじりと迫る感情が止まらない。
彼女の話を聞いている間は顎に力を入れていないと、呆けてしまいそうだった。

「碓氷君、夏は好き?」
「好きっていうか……今より昔のほうが……夏のこと好きだった気がする。夏休みになるとワクワクして、宿題なんか放って初日から遊んで、汗まみれになって、虫をとったりなんかして」
「碓氷君、活発な子だったの?」
「中学までは、わりと」
「前髪……また、切らなくちゃね」
「いや、でも」
「いいじゃない、似合ってた。ここは中学じゃないんだから堂々としてればいいのよ。中学の時だって、堂々としていて良かったと思うわ」
「相沢さんは……凄いね」
「凄くなんかないわ。いつも逃げ出したくて、どこかに行ってしまいたくなる時がある。でも誰だってそうでしょう?苦しいのは私だけじゃない、けど」
「けど?」
「他の誰よりも自分が苦しいと自惚れる人間もいるわね」

 直感で、彼女自身のことだと思った。自惚れとは違うけれど、抜け目のない相沢さんが抜け目なくいるための努力は計り知れない。

 そして、仄かに空が曇り始めた頃、遠くで「今日の日はさようなら」が流れ始めた。

相沢さんが立ち上がると同時に僕も焦って立ち上がり、伸びをした。
隣の彼女はいつもより更に背筋が伸びているような気がして、僕は思わず見とれてしまった。

「行きましょう」

 歩み始めた背中が、壁の石灰で少し汚れてしまっている。
僕は手を伸ばしたが、勿論空を切った。

「家、そんなに遠くないから。それより貴方のお家、遅くなっても大丈夫かしら」
「大丈夫だよ」

 嘘だった。僕の母は極度の心配症なのを僕は常に忘れていない。
だから、彼女の後を歩く際に隙なく“帰りは遅くなる”とメールしておいた。

グラウンドに出ると、僕達は異様な目のバッシングを受けた。
当たり前だ、クラスの隅にいる僕と、学校のアイドルが一緒に歩いているのだから。

僕は少し間を広めようと思ったが、彼女が隣を歩いたら?なんて言うもんだから僕はそれ以上後ろには下がれなかった。

 俯いて、前髪のカーテンで視界を塞ぐ。
こんなに見られると中学の時の事を思い出して、体がひどく硬くなって、呼吸が疎らになった。

好奇の目に晒されて、コソコソと何か言い合われて。そっくりじゃないか。
膝ががっくりと折れてしまいそうになるのを堪えて、ようやく校門を脱出することに成功した。

 学校から彼女の家までの道程はよく覚えていない。
ただただ、誰かに見られていないかビクビクして歩いた。
僕はまるで目の前を闊歩する女王の下僕のようだった。

「ここよ、父はまだ帰っていないわ。帰ってくるのはあと三十分後くらいね」

 着いた家は、洋風の一戸建てだった。ごく普通の、幸せな家庭を築く一歩のために建てたような家だった。
玄関に上がると、彼女は僕の靴をシューズクロークに仕舞い、何故か寝室に通される。
僕はぎょっとして部屋を出ようとするが、クーラーをつけるついでに彼女に腕を引っ張られた。

「ここのクローゼットで、待っていて。合図したら、出てきて」
「ど、どういう事?」
「それだけよ。それだけでいいの」

 期待した待遇や、描いていた何かとは全く違う渦に引き込まれている気がして僕は少しずつこの家に来たことを後悔し始めていた。

「ここで待っていて、何が起きるの?」
「息を潜めていればいいの」
「それじゃ、答えになってないよ」
「……私、晩ご飯支度があるから。この中で、待っていて」

 相沢さんは結局何も答えずこの部屋に僕を残した。
恐る恐るクローゼットを開けるが、特に何があるわけでもない。
ただ、人一人余裕で入れるスペースがぽかんとあるだけだ。

 とりあえず指示通り、クローゼットの中に座って扉を閉めてみる。
すると、僅かな隙間から外が見えた。
扉は中から押せば容易に開くようで、僕は扉にぶつからないようにして座り込んだ。

そしてクーラーがきいて汗ばんでいた体がすっかり適温になった頃、
玄関の開く音がした。
「おかえりなさい」と相沢さんの声がする。
続いて「ただいま、まりか」という声がした。

「まりか?」

 僕は急いで口を塞ぐ。確かに帰宅した父親のような声が、まりかと言うのを聞いた。

何か、二人の合図の言葉なのだろうか?誰かの名前のように思えるが、ここで何を考えたって分かるはずがなかった。

それでもここで時間を無為に過ごす暇な僕は、思考を巡らせた。

もしかして、まりかというのは相沢さんの母親のことなのではないだろうか。
父親と二人暮らしという事は、母親がいないということだ。
玄関に母親の写真か何かがあったのを、きっと僕が見落としたのだろう。

 リビングが真下にあるのか、談笑する声が聞こえる。
内容までは聞き取れないが、相沢さんの学校にいる時のように明るい声が響いていた。
 何時までここにいればいいのだろう。
ここ、相沢さんの寝室だから大丈夫だろうけど上手くこの家から出られるだろうか。
“父親に僕を紹介する”なんてまさかの変な期待は消え去って、ただ今後の行動のことで頭を満たした。
コソコソ来たのだから、コソコソ帰るしかないだろう。

明日は土曜日だから帰宅時間は何時でもいいとして。九時を過ぎれば母親からメールが入るとして。
相沢さんの就寝時間は何時だろう?

そうやってまたしばらく時間を過ごしていると、階段を登る二人の足音が聞こえてきた。
相沢さんの笑い声は、少しトーンを抑えたものに変わっていた。

 僕は心臓だけ高ぶらせて、じっと動かず状況に耐える。
バレるわけにはいけない。
急に手汗が出てきて、滑らないようにゆっくりと繋いでいた手と手を離した。

「あれ、クーラー入れていたのかい?」
「そうよ、さっきあなたがお風呂に入っている時に」
「茉莉花らしくないな、ありがたいけれど」
「私にだって気分ってものがあるのよ」

……会話が変だ。
それに、何故父親がこんな会話をしながらベッドに腰をかけるんだ?
父親をあなた呼ばわりするってなんだ?
茉莉花って母親の名前じゃないのか?

隙間から見える光景に、僕はより一層釘付けになった。

「茉莉花がこういう気分だと嬉しいな」
「そう?たまにはいいじゃない」

瞬間、僕は見た。
父親らしき人と、相沢さんが、接吻を交わすところを。

 僕はぬめついた手を、ぎゅうっと強く握った。
そのうち相沢さんが、あ、とか、ん、とか声を発しながら首筋を舐められるのを見た。
じりじりとした感情が頭の中を燻って、今にも飛び出していってしまいそうだった。
これは、おかしなこと。そうじゃない。そんなことが分かりたいんじゃない。
もっと中途半端で、世界が捻じ曲がるような。
そうだ、僕の世界が、明確に、酷く捻じ曲がっていく。

……僕は気づかぬうちに、クローゼットを飛び出していた。
そのまま相沢さんの寝巻きの袖を強く引っ張って階段を下り、裸足のまま家の外を走った。

僕にとってその間は一秒にも満たないことのように思えた。
走って、走って、足の裏の痛みにようやく気づいてから立ち止まった。
学校から家まで最短距離で走った日よりも、僕は速く感じた。

「……痛いわ」

暗い夜道の中、ぽつりと相沢さんが呟いた。
僕は靴下を履いていたが、彼女は裸足だった。
それに、寝巻きの袖は酷く伸びきっていた。

一言詫びようにも、喉がひくついて何も言葉が出てこない。
永遠に、二人が荒い息をしているこの状況が続くような気がした。
むしろそうなればいいと思った。

「あれが私なのよ。ねえ、何か言ってよ。あれが私なのよ。あれ、私の父親なの。私を自殺した妻だと思っているの。ねえ、碓氷君、顔を上げて。こっちを見てよ。セックスし続けてきたの、実の父親と。面白いでしょう?私の母は茉莉花っていうのよ。私、家では茉莉花なの……ううん、百合花がいないだけなの。学校がおかしいのよ、百合花なんていないのよ。相沢百合香なんて、この世にいないのよ。私は相沢茉莉花で、父親の妻なの。そうやって生きてきたの。ねえ、なに項垂れてるの?座り込まないで、きちんと聞いてよ、ねえ、全部聞いてよ!!」

 誰もいない夜の街灯の下で、今、殺されたい気分だった。
ふうん、とかへえ、とか。辛かったね、とか。そんな言葉を返せるような人間に生まれたかった。
僕が僕でいることを、今まで以上に後悔した。

でも、僕は彼女を見つめた。

ああ、美しい風貌だ。
この風貌の裏で可哀想なお姫様であったのだ。
学校ではトップの成績をとり、常に友達に囲まれ、学級委員をこなし、その裏で“自分が一番可哀想だ”と嘆いてきたのだろう。

……何故だろう。

愛しいよ、相沢百合花。

今までで一番愛しいよ、相沢百合花。

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