足枷と兆し
「子供の足枷になりたくない」
「子供には誰よりも幸せになってほしい」
と話している人がいた。
私の親は、こういう想いを子供に抱けなかった人間なのだと思う。それが良いとか悪いとかじゃなく、ただ、そういう種類の人間だった。
私にとって家族は、昔も今も、足枷でしかない。簡単に人に話せないことが多すぎる。誰にも言っていないnoteにも書けない、書きたくない話が多すぎる。口に出すことがすべて本当のことだったらいいのに、と思ってきた。今はそう思う度に私の中の大人が、ずっと隠していたい秘密があってもいいはずだよ、と言ってくれるけれど。
時々、一緒に暮らしている猫と別れる日のことを想像して、その喪失感を先取りしては胸が壊れそうになる。だから家族を大切に想っている人たちは、いつか来る「別れ」にとてつもなく苦しむのだろう、と同情に似た気持ちを抱く。
死別でも生き別れでも、幸せな思い出があるほど、「別れ」のときに体が引きちぎられるような痛みを感じる。生きていると、なすすべもなく痛みや苦しみの中に居るしかない、ただ受け止めるしかない出来事が度々やってくる。
私は、親が死んだら心の底からホッとすると思う。もう新たな苦しみは生まれないし、すべてが終わったと清々しい気持ちになって、私の中の悲劇を喜劇にできる気さえする。人生で体験する苦しみの総量が決まっているのなら、きっと私は苦しみを先取りした。この先に死別の苦しみを味わなくて済むのだから、よかったんだ。
そんな気持ちを親しい友人にこぼした。友人は少し目を伏せて、困ったような哀れむような複雑な表情になって(そりゃそうだ)、「そうなのかな」と呟いた。本音を話せる人の前で気を抜くと、たまにこういう痛い発言をしてしまう。いい加減「可哀想な子供」はやめたいと思っているのに。
これまで他人と深く関わらないようにすることが、傷つけない、傷つかないための、唯一の方法だと思ってきた。年々自己開示ができなくなったのは、私のろくでもない人生に他人を巻き込みたくないという想いが強くなったからだと思う。近くも遠くもない位置に線を引いて、あからさまになりすぎないように壁を作って、距離をとる。誰とも深い約束をしなければそれが破られることも破ることもない。誰にも近づかなければ傷つけ合うこともない。
今その思考が少しずつ変わりつつあるのを感じている。心が回復していくということは、この世界で自分以外の誰かと繋がり持とうとすることで、「寂しさ」や「楽しさ」に自分を開いて、その過程で起こる出来事や情動を受け入れていくこと、そこに居られるようになることなのかもしれない、と思った。
多分、「寂しさ」を感じて「楽しさ」を信じられるとき、自ら人と繋がろうとする。うっかり近づきすぎると境界を越えて傷つけあったりするけれど、うっかり近づきすぎたからこそ、ささやかな温かさを交換できたりもする。
そのことを信じてみたくなって、他人に巻き込まれたり巻き込こんだりしたい、そんな欲が生まれている。けれど途端に、変わりたい自分と変わりたくない自分が葛藤をはじめる。葛藤は苦しい。涙は出てこないのに、ずっと泣きたいような気持ちだけが消えない。泣いたら楽になれると分かっているのに泣けないときが一番苦しい。
肉体を持って生きるこの世で出会ってしまったら、未来には生き別れか死に別れが待っている。それは絶対に避けられないイベントで、「私」は出会った人たちといつか必ず別れなければならない。
江國香織は「神様のボート」の中で「一度出会ったら、人は人を失わない」と言った。確かに、誰かと会えなくなっても心の中に輝く記憶があれば、かつて存在していた幸福を見せてくれる。「私」が生きている限りそれは絶対になくならない。もしかしたら死んでもなくならないかもしれない。そう思う瞬間もある。友人でも恋人でもそんな出会いがあったなら幸運な人生だと思う。
だけど、私の3次元的な脳みそはほとんど「人は人を失う」と思い続けている。どうせ傷つく、危険だ、とアラートを鳴らす。私は多分、出会いと別れ、始まりと終わり、生と死、みたいな、コインの裏と表のように切り離せない、この世界の理が受け入れられていない。散々死にたいと思ってきたくせに、本当は、終わりも別れも、ものすごく怖い。本当の本当は、私は誰とも別れたくないのだと思う。
今周りにいてくれる、もしくはずっと昔に別れてしまった、大切な人たちの顔を思い浮かべては、変わらないでいてほしい、消えないでほしいと願ってしまう。たとえそれが不自然なことでも。
小さなことを共有したり、つまらないことでケンカができたり、分かり合えなくてもそのままを許し合えたり、そんな関係で、ずっと永遠に楽しく遊んでいたかった。ここがそんなファンタジーな世界だったらよかったのにと思う。
永遠も不変も存在しないし人間にはつくれないものだから、きっと「変わらないもの」をテーマにした歌や映画がたくさんある。季節も体も心も、幸福も不幸も、すべては流れて移ろっていく。掴んでおきたくても砂のようにこぼれ落ちて、ままならない。ただの人間である私は、抱えておきたいものたちができるだけ長く変わらないでいてくれるよう祈るしかない。無駄なことと思いながら。
好きな人たちみんなに、ずっと幸せでいてほしい。毎日いいことだけがあってほしい。これも無理だと分かっているから、願わずにはいられないのだと思う。どうか悲しいことはなるべく少なく、やりたいことがやりたいようにできて、穏やかで優しくて満たされた気持ちでいられる日がたくさんあってほしい。何にも囚われず、自由でいてほしい。
好きじゃない人たちにも、そう思う。この世界に苦しい人がひとりもいなかったらいい。本当にそう思う。小さな私を傷つけた大人たちに苦しんでほしいと思う気持ちと同じくらい、苦しまないでほしいとも思っている。生きてきて、人を傷つけた記憶は自分が傷つけられた記憶よりもずっと苦しいということを知った。
数カ月前から自分がこれまでとは違うフェーズに入ったような感じがある。何かの役に立つとは思わずに、現実逃避や興味本位でやってきたこと、積み重なった経験や知識が、自分の中で新しい像を結びはじめた。なぜここまで生きてこられたのか、その答えが少しだけ見えた。
それは過去が書き換わっていくような瞬間で、ひょっとしたら「生き延びる」から「生きる」へ行けるのかもしれない、という希望みたいなもの。希望は、生まれてはすぐに消えて、またすぐに生まれる。ガイドするように点滅している。
私は、以前よりも「寂しさ」を感じるようになった。ようやくそれと共に居られるようになったのだと思う。
満月の前日だからか、いろんな感情が溢れてくる。今夜は涙が流せそうな気がする。
「涙でしか出ていけないものがある」
ずっと前にもらった言葉を、呪文のように唱える。