ピングドラム映画化を記念して(昔書いたTVシリーズの考察。 「林檎を譲渡する」ということ)
以前書いたものの転載ですが、ピングドラム映画化を記念してnoteに転載してみました。
前後含め、省略なしの文はこちらです。
(これは、↓ここの中でも、「深い考察」からの転載です)
▽転載、ここから
ピングドラムをざっと考察
本も読んでないし、考察もそれほどじっくり読み込んでいない。ただアニメを見たままの私の感想と考察。
銀河鉄道の夜とサリン事件。
カムパネルラが冠葉であってるだろうな。
ジョバンニが晶馬か。
イマジンのプリクリに到るまでの過程は、色々言われてるみたいだけど、私は精子と卵子だと思った。
最初のカラフルな星が乱れ飛ぶ所はエクスタシー、いっちゃった所で、精子が旅して卵子と合体!妊娠!な感じ。
セックスそのものを示しているとはちょっと思えなかった。
希望(白熊)から絶望(黒熊)へのアクセス。
サネトシはももかの影。希望と絶望のメタファー。
ペンギンたちはイクニ銀河鉄道に乗るためのSuicaなのでは。銀河鉄道の夜の切符みたいなもの。
それとりんご→ピンガァ→ペンギン、で形を変えた命の林檎かな。命を形にして見せてる感じ。
銀河鉄道の夜は、神の国に向かう電車で、この生はすべて、死に向かう電車のようなもの。
有限の命を、どう使うか。
宮沢賢治が示したまことのさいわいとは、本当の光とは、何か。
高倉父の組織が南極みたいなとこにいるのは、彼らが希望が凍り付いた氷の世界にいることを示す。
【「苹果譲渡」と言う言葉を中国語読みした「ピンガァドゥラム」が、タイトルの語源になった説】を読んだ。
なるほど、なるほど!!
これですべてがスッキリくる。
今まで、林檎そのものがピングドラムと考えるとどうも得心がいかなかった。
結局何だ?って所が、自分の中ではっきりしなかった。
ピングドラムが、「林檎を譲渡すること」だとすれば、すべてに説明がつく。
「運命の果実を一緒に食べよう」=「ピングドラム」
アダムはイブから林檎を受け取ったとき、「愛による死を自ら選択した」
ここが、有限の命のはじまり。
生きることは、はじまりから罰だった。
林檎は愛でもあり罰でもあり運命であり、有限の命でもある。
持てる者、選ばれし者、他人をすりつぶしながら(そうしなければ生きられなかったとして)罪を重ねて生きてきた者が、持たざる誰かを愛し、選ばれない透明な存在のために、見返りを求めず、自らの意思で命を差し出したら?
自らに与えられていた選ばれたしるし、運命の果実(命=愛)を分け与えたら?
みたいな感じではないかと思考。
ピングドラム(林檎譲渡)はぐるぐるまわる。
冠葉→晶馬→ひまり→冠葉
林檎がまわってるのじゃなくて、「林檎を譲渡する行為」がまわっている。
ピングドラム(林檎譲渡)こそ永遠の愛、本当の光、というような。
ひまりは晶馬への想いを断ち切って、冠葉を抱きしめた。
今までなら、晶馬を犠牲にしてまで生き延びようとは思わなかったはずなのに、冠葉を救うために、晶馬の林檎を受け取った。
(ひまりは今まで、晶馬を犠牲にしようとはしないのに、冠葉の犠牲はそ知らぬ顔で享受していた)
冠葉の救いのために、ひまりは「自分を生かす」
ひまりの中で、冠葉と晶馬の林檎はひとつになる。
冠葉の言う「手に入れた本当の光」とは。
「これがピングドラムだよ」とは。
それは、『冠葉に愛を差し出しているひまりの姿』そのものだ。
今まで魂と体を削って与えるばかりの立場だった冠葉は、絶望に染まりきる直前に、与えられる立場となって救われた。
命(=愛=林檎)を分け合うだけでは足りない。
爆弾(サリン)は冠葉の手で再び地下鉄に置かれてしまった。
第二のサリン事件を防ぐためには、蠍の火の代償を払うことによる、運命の乗り換えが必要だった。
ももか(帽子=プリクリ)が、最初からうるさくりんごと本を何とかしろと言及していたのはそのため。
りんごは、もとを正せば高倉家の被害者であるにも関わらず、晶馬への愛のためというよりは、高倉家全体に対する愛のために、晶馬の一番大切にした疑似家族のために、代償を払い蠍の火に焼かれることを選んだ。
運命の乗り換えを実現する。
りんごの「あたしはお姉ちゃんになるの」の言葉は、序盤に意味したのとは全く違う形で実現される。
本はももかから、りんごに譲渡されたもので
呪文はやはり「運命の果実を一緒に食べよう」=「ピングドラム」=「りんご譲渡」
りんごが我が身を捧げること。
しかし晶馬はりんごをただ犠牲にはせず、代償をかわりに受け取った。
りんごに愛してるよ、との言葉を残して。
銀河鉄道の夜に出てくる蠍の火のエピソードについて
蠍の火は
・罪が深ければ深い者ほど悔い改めれば救いはより大きく、神の国に近付く、の新約聖書によるイエスの教え(何伝か忘れた)
・旅人をもてなすため自ら火に身を投じて餌となったうさぎの話、の仏教の教え(色んなバージョンがある。結局食べられて終わりだったり、月の兎になって闇を照らす存在となったり)
この二つを重ねた、宮沢賢治の銀河鉄道の夜のエピソードがベースになっているようだ。
(ソース未確認)
力ある蠍は、これまで数知れない殺生の罪を重ねている。
最後にいたちに追われて井戸に落ち、死ぬ前に、こうして無駄に死ぬよりどうしていたちにこの体をくれてやらなかっただろうか。今度は、ほんとうのさいわいのためにこの身体を使いたい、と祈り、赤々と燃え闇夜を照らす「さそりの火」となる。
ジャータカ(仏教説話)のうさぎの話は、手塚治虫のブッダにも入ってたか。似たような犠牲の話は、仏教説話には形を変えてたくさんあるようだ。私は子供用の童話集の中で読んだ。しかもほんとに食べられていて、そのうさぎこそ前世のお釈迦様であったのですよという話だった。
サネトシの黒うさたちは絶望の闇に染まった、見せかけの希望ではないのかな。一度与えられた希望を奪われるのが最も心を砕くそうだから。
いたちに自分を食べさせてやればよかったと悔やむ蠍の心
命は、我が身を捨てて分け与えたら永遠になる。(比喩的な意味で)
それが、蠍の火だ。
ピングドラムには、二つの蠍の火が出てくる
蠍の火は冠葉の胸の中に燃えていて
りんご(&ももか)は呪文を使うことで、蠍の火に焼かれる
冠葉とりんご、この二人は、いわば選ばれた者でもある。
親の愛とつながっているし、価値を見出してもらっている。
そして、二人ともそれにも関わらず、選ばれなかった者たちに命の林檎を分け与え、見返りを求めずに愛し、身を捨てる。
この二人、種類は違えど数知れない罪を重ねてきている。
それは一応理由があって、りんごも冠葉も、「家庭・居場所を維持するため」にやっていることだ。
問いかけ
このアニメの一見、わかりやすい表面的な問いかけの一つは
>>「罪人の子供は、責められるべきなのか?」というものであり、
これは、(サリン)事件の幹部の子供である可愛い高倉三兄弟を見た人なら間違いなく、子供に罪はないと答えるだろう。
(現実に罪人を親に持つ人を身近にした時、どう反応するかは別として)
話が進むにつれてもう一つ問われるのは
>>「罪を犯した者の赦(ゆる)しはどこにあるのか?」
冠葉がいかに高倉家を愛し、維持するために次々に悪に手を染めて、最後は取り返しのつかない場所にまで行くか。
ストーカーして、迷惑行為をはたらいて、猟奇的で、一般的にはありえない行動しか取らないりんご。
現在の世の中で、自分のことでもないのに他人を責めまくり、どれだけ逃げても一族郎党、ネットに顔から住所までさらして叩きまくる人たちにとっては、この二人は格好の餌食だろう。
冠葉とりんご、この罪深い二人によって、「罪を犯した者の赦(ゆる)しはどこにあるのか?」という問いかけへの答えが示される
その答えは最後に選ぶ選択にある。りんごは蠍の火に焼かれ、冠葉は透明になって消える。
りんごは晶馬に肩代わりされて愛していると言ってもらえた。冠葉はピングドラムという形のひまりの愛を眼前に示された。
二人は報われた。赦しを得て安らかな心で冠葉は消える。
高倉二兄弟は、形もアプローチは違っても、最終的にこの世界からは消えるという、同じ運命を辿る。でも良いのだ。二人の魂はひまりの中で一つなのだから。
さらにもうひとつ
>>「子供ブロイラーに入れられた、透明な存在を救うにはどうしたらいいのか?」
という大きなテーマを感じる。
父親に性的虐待を受けたゆり、母親に才能の在る無しで見捨てられた多蕗
虐待を受け、親に見捨てられ、愛を得られずにすりつぶされていく「水の子」たち
ピンドラはきっかけの林檎(愛=命)が必要だと示唆しているようだ。
冠葉が与えたような種類の愛、またはももかの方法→どちらも、蠍の火につながる。
小難しく考えず、アニメをそのまま受け取ったイメージとしては、助け合わないと、という感じ。
手を取り合おう、手を差し伸べよう。
親に社会に捨てられて子供ブロイラーに行く子供たちは、親を断ち切っても、互いに手を取り合えれば、そこに絆を持てれば救われる…こともある…かも、しれない。
ただ、その最初のきっかけ、子供ブロイラーの透明な存在に手を差し伸べる行為は、決して生半可なものではない。
まさに、蠍の火に焼かれ、自らも世界から消えるほどの代償を払う、覚悟のいる行為なのだということ。
この三つの問いかけを含んで、Suicaで乗れる現代のイクニ銀河鉄道が走る。
プリンセスオブザクリスタルは、透明になった存在、この世から跡形もなく消えてしまった欠片たちの女王様。(特別製Suicaを二つもっている)
忘れ去られ、何者にもなれない透明な存在となって世界から消えるとしても、「運命を無視して、本能も遺伝子の命令も無視して、誰かを愛したら」
本当の光を手に入れたら
すりつぶされ、代償の炎に焼かれ、シュレッダーされて透明になってこの世界から跡形なく消えても、決して忘れない。魂は失われない。
…という感じ。
以上、考察終わりです。
△転載、ここまで
映画化が心から嬉しい。
ピングドラムは日を追うにしたがって、ウテナよりも大切な作品になっていった。
児童書を保護施設や恵まれない子供たちの手の届く場所に置きたいという夢があります。 賛同頂ける方は是非サポートお願いします。