若菜過ぎる季節(鬼と蛇 細川忠興とガラシャ夫人の物語 15)
※画像では、「ルビつき縦書き文」をお読み頂けます。
若菜過ぎる季節
熊千代が具足始の儀式で大騒ぎをしている頃、珠子の母、煕子はひっそりと息を引き取っていた。
熊千代が再び明智に会ったとき、怪我はもう癒えているはずの十兵衛は、げっそりとやつれていた。深い皺が口元には刻まれ、透き通っていた表情に暗い翳りが増している。
今日は、十才になる弟の頓五郎も明智屋敷に共に来ていた。年の近い十五郎と仲が良く、明智にはとみになついて心酔している様子がみてとれ、熊千代には腹立たしい。
珠子が頓五郎と顔を合わせるのが嫌でひどく警戒したが、本人は人懐っこく挨拶をしただけで特に何も考えている気配もない。十五郎と遊ぶ際にも、珠子や熊千代のように走り回ったり騒いだりもせず、おとなしくこそこそ話をしているだけだ。心底不思議だった。
十兵衛は厳しい顔で、丹波の攻略方法について、藤孝と低い声で話している。
わかっている。わが父は丹波切り取りに期待を寄せているのだ。どこぞを力で奪い取り、領地をもらえるのではなかろうかと。それはそのまま、熊千代の望みでもあった。
◇
「姉上はお嫁に行かれてしまうのですか?」
「いきなりどうしました?」
目にいっぱい涙を溜めた弟の十五郎が正座して真面目にそんな風に言うので、珠子は笑って答えた。
「父上がケイシツをとるか、ソクシツを取れと言われているのを聞きました」
その言葉は、珠子の胸のあまりにも奧深くまで刺さったので、血が出たのではないかと思うほどだった。ものも言えずにこの七歳の弟の顔を見ると、ぎゅっと唇をかみしめている。
「私にもわかっておりまする。それは、姉上でもない、母上でもない、ほかのおなごがこの奧に来て、指図するということにございます」
お岸のように優しくなだめるか、お聡のようにお説教するのか、珠子は迷った。何も言わずにじっと弟の顔を覗き込むと、目鼻立ちがいかにも自分によく似ている。虚弱で、いつも母が付きっ切りになっている頃には邪魔に思う心もあったが、こうして自分が世話するようになると、可愛くなっていた。
「私はいやです。母上がおらなくて、珠子姉上までどこに行かれてしまうのですか?頓五郎は、勝竜寺は狭くてきたないところだと言うております。細川殿も頓五郎も優しいですが、あの嫡男は与力の子のくせに威張っていて、目付きが怖うて、私はきらいにございます。あんなところにお嫁に行かねばならぬなど、姉上がお気の毒です。こんなに、こんなにおきれいなのに……」
「まあ、一人前にやきもちか?」
「十次郎もいやじゃと言っております!」
珠子は笑って十五郎の手を取った。
抱き寄せるにはもう大きい。だが、明智の嫡男として家を背負っていくにはいかにも頼りない。
「さあ、頓五郎と遊んでおいでなされ」
慰めの言葉をかけて促しながら、珠子の胸を重苦しく占めているのは、さきほど十五郎が発した、胸を刺す言葉だった。
父上もいずれは、奥へおなごを迎えられる。
仕方ないのは、こうして家内を指図するようになってよくわかった。室を迎えるのは、采配する家臣を任命するのとおなじ。母上が言われていたのはこのことだったのだろうか。
◇
「急に大人っぽくなりましたな」
病状の母の枕元にそっと座ると、煕子はほほ笑んで布団の下から手を出して珠子の手を握った。
「縁談が決まってから、しっかりしてきましたな。時の経つのは早いものです。どうなることかと心配しましたが、とても大事に思ってくれているようだし、お前も嬉しそうだし、こんな幸せはそうないことですよ」
「お悪いの、母上。無理しておしゃべりなさらないで」
「そなたが生まれたとき、三人続けて女でね。なぜ男子でなかったかと思ったこともありました。感じていましたか。敏感な子ゆえ」
「はい」
「でも父上はね、父上はそなたがいちばん可愛いの。冷静な方に見えて、あれで人一倍激情家であらせられる。態度に見せずとも、親と言えども人の子、しかたのなきことです。ゆえに母は少しだけそなたに厳しくしたかもしれぬ。もっと可愛がってやればよかった」
しげしげと眺める母は、姉たちを珠子ひとりの姿のなかに重ねているようでもあった。
「そなたの花嫁姿をどうやら見ることはかなわぬようだが、残念のような、ほっとするような」
こんな病状であるのに、母は珠子の結婚に向けての準備に最後の最後まで心を尽くしてくれた。衣装は丈を変えられるように指示を出し、長持の紋や塗り、鏡台や針箱、火鉢から高坏(食器)に到るまであれこれと調べて整えている。
それでまだこんな風に言う。
「よいか、最後に言うておきますが、悋気(嫉妬)はだめよ。お聡にも言いました。それだけはね」
たまは心の中でわずかに首を傾げた。
母上はそのことばかりずいぶん心配しておられる。
◇
輿入れ準備の一環として、老女たちは夫婦生活を説明する。
錦絵を前にして、珠子は難しい顔で座っていた。乳母も老女も真剣な顔をしている。
「熊千代もこれを習うの?」
言葉につまった乳母に、年長の老女が教える。
「殿方は元服時か元服まえに、実際にお相手を宛ごうて習うものもおると聞いております」
左様なことまで……。乳母の咎めるような顔に、年長の侍女ははっきり言った。
「こういうことは、あとで知るより先に教えておいた方がよろしい」
「わたしはやってみたりはしないのよな?」
「とんでもないことでございます!」
今度は乳母と老女二人して顔色を変えたが、珠子は知らん顔で、冷めた目で錦絵を裏返す。
ほっとした老女たちに、また爆弾がぶつけられた。
「教える人に子が出来てしまったらどうするの?長男は嫡男と教わりました。その子が嫡男になるのか?」
この質問がいつまで続くのか、教えた方が良いと自信満々に言い放った年長の侍女も、閉口しはじめていた。
「よいですか。正室はおひとりです。御前様(正室)の産む男子が嫡男。御前様が内々の采配をすべてなさいますし、お留守の間は家中を仕切り、命を下します。殿様は側室を持つ場合、御前さまの裁可を得ねばなりません」
珠子の反撃は続く。
「まことにか?信忠様は、武田の松姫さまと一度もお逢いになれないし、許可なく側室を持ちましたよ」
では、お珠さまは知っていてわざとこんな質問をしているのか。
二人の老女は揃って顔色を変えた。我らはおちょくられおるのではあるまいか?
黙っていた母が、そっと口をさしはさんだ。
「家中が大きくなるほど、世話する人数も多くなる。室たちはよき手伝いになりましょう。それだけの分限(資力)があるという、偉うなったあかしです。悋気はけしてなりませんし、側室をもてるように盛り立ててお支えしなければなりません。ときには、探してさしあげるのも妻の勤めです。また、殿がお決めになって来たなら、素直に心ひろう受けとりますように」
皆が戦々恐々としている前で、珠子の方からさっさと話を切り上げた。
「わからないけど、熊千代がどうしたいかなのでしょう。なら、熊千代と決めまする」
「それがよろしいわ」
ほっとして、皆で絵をかき集め、厳重にしまって蓋をした。
「大丈夫でしょうか」
「不安だわ」
明智家の老女や侍女たちは、額を集めて相談をする。
「あの調子で細川の若君を質問攻めになさいませんかね」
「やりかねないわ」
◇
あのときは母上もあんな風に言われていたが、そもそもこれまでわが家にはソクシツなどおらなかった。細川さまのところもだ。
したが、母は何をそんなに心配しているのであろう?やつれた顔の母が、何かを気にしているのを感じた。苦しげに息をつく。
「おなごに生まれたからにはこの業は避けられぬ。男の方は仕方なきことゆえ。あの父上でもそうなのだから」
「父上が?」
珠子はびっくりした。
「男の方はそういうもの。殿が決して誰ひとり奥へ入れぬのが嬉しくもあったが、それでもやはり、どうぞとは言えませなんだ」
「母上も、本当はおいやか?」
「いやに決まっています!誰だっていやです。良いと思う女などおりませぬ、あたりまえじゃ」
母の目尻に涙があふれて、痩せた指がそっとぬぐった。
「ねえ、たま。お子はね、産まれぬこともあるし、ほんによく死にまする。災禍に巻き込まれ、病を得、長じても戦にて死ぬる。欲しいときに出来ぬ。心ならないものよ」
煕子は病床から起き上がり、無理に体を起こして話し始めた。
「たま、まだ教えておかねばならぬことがあります。武家の娘と生まれた以上、避けられぬことがある」
「はい」
「それは、自害の稽古です。いつでも、今日にも明日にも、喉を突く覚悟を決めておかねばならぬ。先の戦でも父上が危ない所であったであろう。いつ、いかなる事が起きぬとも限らないのです」
母をじいっと見上げる珠子の大きな目は、動かないようで母のやつれた顔を仔細に観察している。
「浮世の定め、仕方のないことです。負ければ女は下人や侍女として勝者に仕えねばならぬ。辱しめを受けるやもしれませぬ」
「辱しめとは何?」
「習うたことをです。勝ちたる方は、おなごを戦利品として扱いまする」
まあ!さっぱりわからぬ。珠子は細い鼻梁に小さな皺を寄せた。男子はソクシツをもち、メカケをもち、ユウジョとあそび、どれだけお子が欲しいのだろう。
「負けたるは時の運、だが生き延びて勝者の手に落ちるは夫の恥じゃ。心あるかたはお市の方のように、離縁して実家に返したりなさいます。だが、いざ帰る場所も頼るものもなくなっては、共に死ぬるが妻のつとめ。懐剣は持っておりまするな?」
珠子は懐を押さえた。これは、誰かを殺すためのものかと思うていた。まさか、この我が身に突き刺すためのものなのか。
「勝者に下女として仕えるなど、死んだ方がましにございます!これははっきりしております」
「常に肌身より離さぬようにな。いざとなれば、見苦しくならぬよう。一門の末代までの恥とならぬように。突くならばどちらかを選びなされ。喉か、心臓です。ここか、ここじゃ」
乳の下を押さえたが、胸に巣くうしこりが痛むとみえて、母は苦しげに顔を歪めた。
◇
今日は、表向きにはお悔やみの挨拶だった。
あの優しかった明智の御正室が亡くなったと聞いて、熊千代はおずおずと許嫁の顔色を伺った。案外平気そうな顔していつも変わりなく美しい彼女であるのでほっとして、打ち解けてそばによった。
珠子は源氏物語を開いていた。熊千代も雨夜の品定めあたりで何となく性に合わぬと投げ出していた源氏を再び読み進めている。
二人とも何気なかったが、お互いがお互いに知らぬ顔をして、教えられたことや見聞きしたことを考えていたし、どことなく違うことに気付きながらも気づかない顔をして過ごしていた。
熊千代は珠子のことを、育てば育つほど一段と美しく、体に丸みが増していると思ったし、珠子は熊千代がこのところ背が伸び、声が少し変わり始めているのに気付いていた。鎧始めを経て今、初陣の準備のため日々鎧をつけて過ごすのを練習していると聞く。
父上はあれから、うちひしがれておられる。母上はやはり父上にとって、一番何にも代えがたい特別なお方であった。
そろそろ、於継の方を迎え入れてもよろしいのではありませぬか、と乳母が父に言っていることは珠子も知っていた。
「早うに慣れませぬと、お二人も難しい年頃になって参りますことですし、おたま様が嫁がれれば、何かとお世話も教育係も大変になって参りましょう」
そのたびに父は「まだだ、もう少し」と答え、また黙って頭を垂れていた。そんなときの老けて弱々しい父上の御姿ははじめてだ。
細川さまや、義兄上(信澄)がおいでになって戦のお話をするときは、つとめて何事も変わりないよう、気力を保っておられるご様子。
こんな気持ちでいるとき、こうして弟たちの世話をしながら、気落ちしておられる父上をみているとき、熊千代が、熊千代がもし……ほかの女といたら……?
珠子は、思わず、難しい顔をして巻き物に目を落としている熊千代の横顔をまじまじと凝視した。
これはようく考えてみねばならぬ。
母上が今際の際まで心を尽くして伝えようとしてくだされたことには意味がある。知らなかったら、わたしは暴れて泣いて、熊千代がだいきらいになっていたであろう。でも父上でもそうということは、これは避けがたいことなのだ。
ならば、折り合いをつけねばならぬ。
「どこから読んでもかまわぬのよ。おたまは若紫がすき」
まだ幼い若紫が、口をとがらせて祖母の尼君に訴える様を源氏が垣間見(のぞき見)している。珠子は声を出して読み上げた。
すずめのこをいぬきがにがしつる
ふせごのうちにこめたりつるものを
その情景は熊千代の脳内で、珠子の姿、珠子の声で鮮やかによみがえった。彼も、若紫がその後、源氏のもとへ来ることとなった成り行きをもう知っている。若紫は祖母が亡くなり、父親のもとに引き取られると決まった。源氏は若紫に迎えの者が来る当日の明け方にかけつけ、強奪するのだった。
熊千代の目は半ば潤んで、うっとりとした顔をして宙を見ていた。
珠子をこの城からさらいたい!閉じ込めたい!
先ぶれの声がして、各々の思いに浸っていた二人は我に返って真顔になる。
◇
「源氏を読んでおったのか」
明智十兵衛が入ってきた。熊千代は満面の笑みを張り付けていたが、十兵衛は熊千代が源氏物語を好まないと公言していたのを知っていたので苦笑した。おたまに突き合わされたのであろうと推察する。
「熊千代は、どの帖が好き?」
「……夕顔と、若紫がもっともよい」
知っている夕顔を付け加えてはみたものの、ほかは何が良いのかさっぱりわからなかった上に途中で投げ出し、能の演目がある箇所しか読んでいない。
「若菜がおもしろいわ。女三宮の子猫をつないでおいた紐が御簾にひっかかり、巻き上がって中が見えてしまったの。柏木大将が女三宮を見ておられた。二人は許されない恋に落ちるのよ」
珠子の説明に対して、熊千代は大真面目に言う。
「その御簾の中を覗き見た男、源氏の君はお手討ちするが相当の処分だな」
額にしわをよせて、解せぬといった顔で首をひねった。
「何故そうせなんだのであろう?」
珠子が手を叩いて笑った。
「源氏の君が!柏木大将をお手討ちですって。面白い!」
気配がすっと冷えていた。
明智十兵衛は帖をとじ、真面目な顔をして、正座をしていた。まっすぐにこちらを見ている父に珠子は笑顔をひっこめて、神妙な顔をした。
「珠子、そなたはなぜ笑うのだ。手討ちを致すのは冗談事ではない」
熊千代はきょとんとしている。
父と娘の間に何が起きて、何がいけなくて珠子が怒られているのか、彼にはさっぱりわからなかった。
「人の命は重たいのだ、たま。それはたとえ、賤の女、下人といえど同じこと。それを忘れてはなるまいぞ」
おとなしく聞いているように見えた珠子の表情が、かすかに変わった。
「熊千代君は武人であるから、刀を振り上げて最早これで命はないなどと思って振り下ろせまい。勇猛なお子であるし、したが、おたまには父は御仏の慈悲の心を持っていて欲しいのだ。おなごは戦場にて命のやりとりを成すことなど考えずに、命を慈しみ供養をできる身であるゆえに」
珠子の白い頬が赤く染まっていた。顔を上げたとき細い眉の下、眦は切れ上がり、火花が飛び散る風情に熊千代は思わず見とれた。
「父上は嘘をついています」
「何と申す」
低いが鋭い声は凛として響き、膝立ちした母や乳母たちも聴いている前で、珠子は顔をまっすぐ父親に向けていた。
「人の命は重くはないし、下人と武人をおなじには扱えますまい。大将が討ち取らるれば、何百、何千という兵が死にまする。なればこそ、家臣たちは自分の命を呈して大将のお命を守るのでしょう。また、大将はおひとりで何千もの城内の兵たちの命を嘆願にて自決をする。なれば、同じ重さということはありませぬ」
「お珠さま!」
乳母が声を振り絞ったが、珠子の姿勢は変わらない。
「死すということなれば、これは別でございます。皆おなじ、赤子で死ぬも病で死ぬも、切り殺さるるもおなじと存じます。優劣はありますまいが、軽重とは別の話にて、同列には扱えますまい」
明智十兵衛の額にしわをよせた顔は、悲しいというよりも悲痛だった。
父と娘の顔を、交互に見て困惑している熊千代にものも言わず、つっと立ち上がると背中を向けて去って行った。
乳母が声を振り絞った。
「おたまさま!なんという情けなきことを。母上も嘆いておられましょうぞ。仏の慈悲の心は通じぬのかと言われまする」
女たちの非難する目つきが、熊千代には解せない。どうしたらよいかわからずにただ座っていたが、おずおずと珠子のそばにより、顔を覗き込んだ。
わからない。
珠子が詰られる理由もわからないし、十兵衛が悲しむ理由もわからない。口を出してはならないと感じた。そんな気配が漂っていた。これは明智の家の世界であり、論理である気がした。
奇妙な安心があった。今のことばを詰るような者は、細川の家にはおらぬ。珠子はうちに来た方が良い。そうなるはずの娘だったのだ。
◇
珠子は歯を食いしばっていた。
別にどうしても男に生まれたかったとは思わぬが、ひとのいのちを奪うことをしなくていいから女でよかったなどと思いもよらぬ!
父上は決して見せぬが、どんな血を背負っている?
熊千代が男を切り捨てたのを見た時、目はあのほとばしる血潮を映して真っ赤に染まっていた。あちらの世界にいたいと思う。ああ、でなくば、このような女がソクシツが子がというような、奇妙な感情の渦から離れていたい!
熊千代はもじもじとしていたが、真剣な顔をして珠子に向き合った。
「のう珠子、おれは、これから……珠子に、あまり会ってはならぬのだそうな」
珠子は嵐が渦巻く胸に、最後の打撃を与えられたような気がして、熊千代の顔を見た。真っ赤になった熊千代の顔は心底辛そうで、泣き出しそうにも見える。
「母上がおられず、姉上がたが嫁いだいま、珠子は家内のことで忙しくなる。みよ、おれはこんなに声が太くなり、珠子はおとなになられたのであろう?」
あけすけに言う熊千代に、今度は珠子が真っ赤になった。いったい、いずこから知れたのであろう?だが熊千代に意味がわかっている気配はなかった。何もわからないから言っているのだろうと珠子は推察した。胸が早鐘を打ち、のぼせたようにくらくらする。
「おれは丹波平定の戦で初陣する。そうしたら、珠子は、珠子は、ずっとおれと共に……」
問いかけようとして、言葉がつまった。このところ、熊千代の心をずっと重苦しくしているのはそれだった。珠子は、珠子の望みで妻になるのではない。珠子はどう思っているのか、ただ命じられたからだけなのか、熊千代をどう思っているのか、よく知り合った今だからこそ、珠子自身の言葉で聞きたかった。
と、そこに、当年七歳になる十五郎が走ってきた。
「姉上、姉上、見てください。頓五郎がおもしろきことを言いまする」
後ろから、顔を赤くした頓五郎がやってきて必死で止める。
「十五郎どの、やめてくださ……」
そこで二人とも、鬼のような形相で突っ立ち、刀に手をかける勢いで(実際に半分抜きかけていた)腰を上げた少年の姿に仰天した。
「入ってくるなーーー!!!」
十五郎は、ぽかんと目と口を見開いている。こんな大声も怒声も殺気も、この城の中で聞いたことも見たことがない。
頓五郎は慣れていた。
麻痺したように動けなくなっている友達の襟髪をつかむと、とても人ひとりずるずる引っ張っているとは思えない、稲妻のような速さで姿を消した。
珠子もあっけにとられていた。
こちらもぽかんとしていたが、急に笑いだした。こんなに笑ったのはいつぶりであろうというほど笑った。熊千代は激情を何とか抑えて、珠子を怪訝な顔で見ている。
かっと短気な彼は、何もかも吹き飛ばしてしまう。
何を心配していたのだろう。
その勢いと生命力で、靄も霞も切り捨てるそなただ。
珠子は、涙をふきながら熊千代を指の間から垣間見て、別人こんなにいつの間にお互いにおとなになっていたのであろうと改めて気付いた。
そうだ、おとなになるのだ。
熊千代は、戦へ出て、修羅の道へゆく。切って切られて、取り返しのつかぬ生死の境目に飛び込んでゆく。
じいっとのぞきこんで額を合わせるほどの距離まで近づくと、よくあることだったが、乳母に袖を引っ張られた。珠子は熊千代の目を、自分の目で覗き込みながらささやいた。
「がまんする。文句もいうまいぞ」
何にだ?
熊千代は疑問に思う。そして、もしや、会えぬことを言ってくれているのか?とときめいた。
「初陣の前に、なにかそなたの思い出のものがほしいのだ」
一生懸命に言う。
「何か身の回りのものか、もしくは約束を」
「あいわかった」
珠子は引き出しをカタカタ言わせて何かを探している。侍女たちが見守る中、熊千代を手招いてこれへ、と呼んだ。
熊千代が引き出しの中をのぞき込むと、さっと珠子の手が高く掲げられて、若紫や若菜や夕顔、薄雲に夢の浮橋の巻物がまき散らされた。一つは珠子の手に捕まれたままぱらりと開き、畳の上をころころと転がりだした。あれ、おたまさま、と侍女たちが声を上げて右往左往する。開いた端を掴んだまま、珠子は巻物の影に顔を隠し、赤いちいさなくちびるを突き出して、熊千代の口をかすかに吸った。
熊千代は、見開いた目の前が明々と焔に染まり、珠子のとじた目蓋の先の睫がゆれてちらちら光をうつすのを見た。くちびるから火花が散って、炎となり、みるみる蛇のように伸びる。
何もかも焼き尽くされたここには、誰もいない。
二人しかいない。
いにしえの不実も、言い慣わせる心変わりも、何もかも知らない。
会った時からどうせ、この人の運命はどうしようもなく私と関わっているのだ。おたまは、約束しませぬ。そなたにも求めない。何が起きるか分からぬ世の中……。でも、熊千代のいちばんはおたま。それは渡さぬ!ゆずりませぬぞ。
巻物が肩を滑り落ちて足元に音を立てたとき、珠子はこのふっと思い付きで成した蛇の執着から出た行為が、この少年に消えない鬼の妬心の炎を灯したのを知らなかった。
「受け取った。もう迷わぬ」
体を離し、深々と一礼してまた上げた熊千代の目は鋭く、見たこともないような気迫に満ちている。彼もまた、お互いの心と体に、荒れ狂う激しい変化が訪れているのに気付いていた。
「おれは戦に参る!そして必ず、戻ってくる」
第十五話 終わり
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