ヤングケアラーだった私③
中学生生活は大変だった。
私が通っていた中学校は部活は三つだけあった。
一つは野球部。二つは女子バレー部。三つ目は女子ソフトテニス部だ。
男子は野球部のみなので、女子は二つだけだが選択肢があるのはマシだとは思うが、これが厄介だった。
小学校のころから中学校に入ったら、女子は部活に入らないと怖い先輩に目をつけられると言われていた。
バレー部はすでにクラスの大半が入部することになっていて、小学校の春休みから中学のバレー部に練習に参加する子達が多かった。
もちろんそんな雰囲気の部活には入れず、テニス部に入部した。
テニス部は私と同級生の女子二人だけが新入部員。
たいして仲は良くも悪くもない。
部活は楽しかったけど、妹の保育園の送迎バスが出ない日は迎えに行かなければならず、部活を休むことがあったりした。
話したくもない家の事情を部活の先輩に話し、休むことの了承を得るのが苦痛だった。
部活を終えて家に帰ったらヘルパーの作った食事を食べ終えてテレビを見ている母を横目に、適当にカップ麺や菓子パンで夕飯を妹を食べ、妹を風呂に入れて宿題をする。
自分と妹の分の洗濯をして妹と同じ布団で就寝する。
家事なんてしたことのない、やり方を知らなかった私は毎日を過ごすのに精一杯だった。
母はというと、脳梗塞の後遺症で構音障害でうまく話すことができず、私に伝わらないと苛立ちから物を投げたり、すぐ泣いてしまうようになった。(後から知ったのだが、感情失禁という後遺症)
言いたいことをノートに書いてもらうのだが、痺れで字がうまく書けないことも母をいっそう苛立たせた。
もともと怒りやすい母だったが、脳梗塞を患ってからより怒りっぽいのに加え、すぐ涎を撒き散らしながら泣き出すのに私はうんざりしていた。
母はもう母ではなかったのだ。
自分のやって欲しいことばかりを主張する母は、私を苛立たせた。
次第に険悪になり、コミュニケーションは最低限になった。
家族というか同居人。
母に冷めた態度をとるようになった。
お金の管理は家の近くの役場の社会福祉協議会に務めている職員がしていた。(このへんが曖昧)
気さくなおじさんだったものの、まだ中学生の私には家計の管理を任せられないと思ったのか買い物をするたびにこの職員のおじさんから千円ずつお金を引き出すシステムになっていた。
ことかまかに何に使うのか聞かれ、「無駄遣いはしないように」と言われるので毎回食事は安いカップ麺や菓子パンを買っていた。
そんな食生活のせいか私は顔中ニキビだらけだった。
今思えば恥ずかしいのだが、下着なんて買うという発想もなく、着古した下着をずっと身につけていた。
一度不憫に思ったのかヘルパーの一人が娘が使っていたお古のブラジャーを持ってきてくれた物をずっと身につけていた。
まあ、そんな小汚い見た目の女子中学生はクラスで余計遠ざけられるわけで。
直接暴言を吐かれるなどのいじめはなかったものの、コソコソこちらをみながらクラスメイトたちがなにやら会話しているのを常に感じていた。
私はずっとひとりでいた。