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25.メタバースへの道はディストピア? 分かれ道に来た世界線。

朝、ターミナル駅で出勤途中の人々の群れがこちらへ向かって来る光景なんですが、全員マスクをして迫って来る姿が異様で、正直恐ろしさを感じます。
事実は小説より奇なり」といいますが、ディストピア映画でも、群衆が全員マスクをして迫って来るシーンは覚えがありません。映画より恐ろしい光景です。
人々はこの光景を異様だとは思わないのでしょうか。私は恐ろしいし、この光景に慣れてしまっては危険だと思っています。

人間、多少不細工でも、誰でも笑顔は素敵です。私はコロナ禍で最も残念に思っていることは、その素敵な笑顔を見ることができないことです。
最も悲しく思っているのは、赤ちゃんではないかと思います。赤ちゃんは周囲の人々の表情から人間関係を学んでいきます。

赤ちゃんをあやしているとよくわかるのですが、赤ちゃんはマスクをしている人に笑いかけることはほとんどありません。マスクを外すと、嬉しそうに笑います。
そういう時、私はコロナ禍はなんと罪作りなことをしているのだろうと、胸が苦しくなります。

コロナ禍になって2年が経ちました。2年前に生まれた赤ちゃんは、どのように情緒を育んできたのでしょうか。想像すると暗い気持ちになります。その赤ちゃんたちの心は、これからどのような道をたどるのでしょうか。

また、もうひとつ私が気になっていることは、電車の中で90%以上の人がスマホを見ているということです。皆さん、スマホ好きですよね。歩きながらでも自転車に乗りながらでもスマホをみている人もいます。これも怖いです。
意識が現実の世界ではなく、スマホの中の世界に繋がっている

考えてみれば、お年寄りの中にも1日中テレビの前に座りっぱなしの人がいますよね。彼らの意識も現実ではなくテレビの中の世界に繋がっているのでしょうね。
そういう観点から考えてみると、人は同じ世界を生きているようで、本当は違う世界を生きていると言ってもいいのかもしれません

で、なぜ人々は現実の世界よりもスマホやテレビの中の世界を好むかというと、それはやはり、そっちの方が「」で「楽しい」からなのだと思います。
たとえば、ゲームにハマる人の理由の1つとして「現実世界で能力を上げようとすると、けっこうな労力が必要とされるけれど、ゲームの中では比較的簡単に上がり、クリアできなかったところも何度かトライするとできるようになる」ということが言われています。
つまり、現実の社会生活では得難い「成功体験」を得ることができ、「自己肯定感」もアップするというわけです。

現実世界では「努力しても報われない」ということはよくあることで、人はそれを体験して「大人」になっていくのですが、それは「楽しい」ことではないことは確かです。
しかし、それがこの世の仕組みなのです。釈迦もこの世を「苦界」と言っています。

その苦しさに耐えられない人々は、スマホやテレビの世界に逃げ込んでしまいがちなのかもしれません。しかし、それは一種の「麻薬」のようなものです。逃げ込んだところで、現実の世界が変わるわけでもありません。
しかしたぶん、そのような世界が用意されれば、そちらの方向へ行く人が多いだろうなとは思います。その世界が「メタバース」です。

で、それはどのような世界かなと考えていたところ、『エレクトリック・ステイト』というSFグラフィックノベルに出会いました。
ほとんどの人が仮想現実用のVRゴーグルを付けて生きている世界が描かれ、私がイメージしていたものに近い、暗く湿った淀んだ世界がよく表現されていると思います。多くの人がそのように感じたようで、世界では高く評価されています。映画化の計画もあるようです。

シモン・ストーレンハーグ著『エレクトリック・ステイト』表紙

物語はひとりの少女が弟のアバターらしき小さなロボットを連れて、弟本人の「」を探してアメリカ大陸を車で横断するというロードムービー・ストーリーで、その先々で出会う光景が描かれているわけです。その光景が、なんだか奇妙な既視感をさそうのです。それはたぶん多くの人がイメージしているだろうディストピアの光景で、それが人々の心を惹きつけるのだと思います。

■『エレクトリック・ステイト』のトレイラー


物語では、ほとんどの人がニューロキャスターというVRゴーグルとヘルメットを合体させたような装置を被り、その中の世界に溺れてしまい、「自分の体を忘れてしまった」ため、ニューロキャスターを付けたまま亡くなっている光景が描かれています。私もそんな光景をイメージしたことがあります。

要するに、仮想現実の世界に入ってしまった人々は死への道を辿るしかなくなってしまう可能性があるということです。体を忘れてしまうのですから、当然のことかもしれません。ほとんどの人が現実に興味がなくなってしまった世界では、道端に死体が転がっていても、気にする人もほとんどいなくなってしまうのかもしれません。また、社会に死体をどうにかするという仕事をする人がいなくなってしまうのかもしれません。

それはいわゆるエッセンシャルワークに携わる人々が極端に少なくなっている社会の可能性もあります。
エッセンシャルワークとは、どんな状況下であろうとも、人々の生活を維持するために現場で必要とされる仕事のことです。にもかかわらず、仕事がハードなわりには報酬が安い仕事でもあります。多くの人は、できることならやりたくない仕事なのかもしれません。

また、これからはAIが人間に代わって仕事をすることが多くなっていくでしょう。支配側にとっては人間よりAIの方が経費がかからないですし。これからは人間が必要ない社会になっていくことが考えられます。

『エレクトリック・ステイト』ではAIが優位になって、不要になった人間は仮想現実の世界に溺れさせ、自然死させていくという世界観です。
とはいえ、人間がやらなければならない仕事もあるわけで、そういう人々はVRゴーグルをつけていません。しかし、行動の自由は認められていないので警察の監視はあります。主人公の少女は、そういう監視の目をかいくぐって旅を続けるわけです。たぶん、弟のVRゴーグルを外し弟の命を救うために。

現実の世界も、そのような方向へ進んでいると私は思っています。これから経済が混乱・崩壊し、貧しくなる人が増えるでしょう。で、貧しくなった人々にはベーシック・インカムが適用され、最低限の生活ができる程度のお金が配られます。
働かなくてもお金が貰えると喜んでいる人々もいますが、そのための条件が私有財産があってはならないことに留意した方がいいと思います。

そして何よりも「支配者に絶対服従しなければならない」ということも見落としてはなりません。絶対服従しなければお金を貰うことはできません。
それがいわゆる「グレート・リセット」、「新世界秩序」の世界です。

で、マスクはそのための最初の仕掛けだったと私は考えています。
彼ら(支配者・DS)」として知られ、金融の仕組みを作った財閥、ロスチャイルド一族のジェイコブ・ロスチャイルド氏が、「新世界秩序(NWO)」に向けての計画と目的について述べたインタビューがあります。
以下に一部を紹介します。

■ それは「服従訓練」です。

【ジェイコブ・ロスチャイルドのインタビューより】
もちろん、マスクはウイルスには全く役に立ちません。しかし、マスクの着用が重要なのは、それがトップダウンの「命令への服従と適合の証」だからです。
マスクは、皆を「均一」にするためのユニフォームのようなものです。それは、一体感、適合性、従順さ、そして何よりも「平等」の感覚を植え付けることです。
なぜなら、性交渉や宗教的儀式のように、自分の体に許すものは、人の心や信念に非常に密接に関連しているからです。
そして、自分の意思、または世界中の政府が行使しているという強制力によって、人はすでに降伏しているのです。(2021年12月11日)

なんとまぁ、あからさまに語っています。誰もそれを裁く者がいないわけですから、もう隠す必要もないということなのでしょうね。
皆さん、これでもマスクの着用を続けますか?

降伏してマスクの着用を続けるか、それともマスクを外すか、いま、その分かれ道に来ていると思います。
どちらの世界線を選ぶのか、考えなければならない時が来ているのです。それによって、これからの仕事の仕方も変えなければならないと思います。ですが、慌てる必要もないと思います。少しずつ軌道修正していけばいいのです。

コロナの問題ですが、実際のところ多くの人は「コロナはインフルエンザとたいして変わりはないのではないか」と薄々気づき始めていると思います。そして「いつか誰かがマスクを外していいと言ってくれるのではないか」と期待しているのではないでしょうか。

外国ではマスクを不要とする国も増えてきています。日本でも感染対策の専門家らが相次いで「GW頃は気温も上がるので、人と距離がある屋外では外すことを推奨する」と言っていました。
ところが、GW中も観光地でもほとんどの人がマスクをしていました。私は諏訪大社の御柱祭に行っていましたが、そこでも祭に参加する人々が全員マスク着用で、やはり異様な雰囲気があったことは否めません(それでも楽しかったですが…)。
皆さん、心の底ではマスクを外したかったのではないかと思います。

御柱祭は山から里へ大木を曳いて来る「山出し」と、里の中を曳いて回る「里曳き」との2回に分けて行われるのですが、そのうちの「山出し」がコロナの影響で今年は中止になってしまいました。
御柱祭は最大の見所が「山出し」なので、多くの人がガッカリしたのは言うまでもありません。
年配の方が「力が抜けた。淋しい…」と言っておられたのが印象的でした。

なぜ中止にしたのか、地元の人にさりげなく尋ねてみたところ、祭の責任者が「県政に逆らえなかった」「誹謗中傷が怖い」ということが原因だったようです。
自分軸がなく他人の目を気にする人は、そのような決断をしてしまいがちですね…。

とはいえ、自分軸に従ってマスクを外したり、祭を実行したりするのは、とても勇気が必要だというのも事実です。
人は「正しい」ことより、「安全安心」なことを求める傾向にありますね。つまり、「正しい」ことを選ぶ場合は「安全安心」を手放す必要があるかもしれないということです。私たちはその「恐怖」を乗り越えることなしには「正しい」道を進むことができないのかもしれません。

心理学的には、その状態を「認知的不協和の不快に耐える」というそうです。「認知的不協和」とは、たとえば「夫を信じている妻が、他人から夫の浮気の証拠を見せられても認めまいとする」というようなことだそうです。なぜなら、信じる方が脳にとっては楽で快感で、疑う方は脳にとっては苦痛で不快だからです。

しかし、自分が「正しい」と思う方向へは行かず、脳にとって楽な方向へ行ったとして、それは果たして「安全安心」といえるのでしょうか。本当は心の片隅ではモヤモヤとした居心地の悪さを感じるものなのではないでしょうか。それがある種の「不安」に通じてしまう場合もあります。

思うのですが、やはり人は自分が「正しい」と思える「信念」があるのなら、それに従った方が「真の安心」を得ることができるのではないでしょうか。

たとえば、私には「ワクチンを打たない」という信念があります。なぜなら、私はワクチンより自分の免疫系を信じているからです。たとえ自分の免疫系がウイルスに負けて自分が死ぬことになったとしても、それが自分の自由な信念を貫いた結果ですので、諦めがつきます。自分の信念に反して周囲の圧力に負けてワクチンを打って、その副作用で死ぬことになったとしたら、私は諦めがつきません。悔やんでも悔やみきることができないでしょう。

多少の勇気と面倒が必要でも、自分の「信念」に従って生きた方が、私は「安心」で「自由」だと思うのです。

というわけで、いま、マスクをして服従の意志を示して「彼ら(支配者・DS)」が計画している「メタバース」への道へ向かうのか、マスクを外して違う道へ向かうのか、分かれ道にさしかかっていると思います。
どちらの道を行くかは、人それぞれだと思います。自分が「正しい」と思った道を心置きなく行けばいいのです。よく考えて「自分軸」を探してください
私はマスクを外して、次のような笑顔に触れて生きることができる道(世界線)を行こうと思います。

この情報を鵜呑みにはしないでください。必ず自分で情報を追って自分で確かめて自分の頭で考えてください。
これらの情報をどのように解釈し、どの道を行くか、それはあなた次第です。



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