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田舎移住007.田舎へ移住してわかったこと、食は土を介した命の循環。
移住してから10ヵ月が経ちました。花々が次々と咲き誇り色鮮やかな賑わいだった春、木々など植物の緑の盛り上がりと様々な種類のセミの大合唱をバックに蝶々が舞い踊り鈴虫やコオロギの鳴き声が夜の空気を満たし生命力の物凄さに圧倒された夏が過ぎ、ふと気がつくと木々の緑が色あせ紅葉が始まり、虫の鳴き声も聞こえなくなり、穏やかな秋が静かに訪れていました。
春と夏は雑草と虫との闘いに明け暮れ、結局のところ畑仕事はほとんどできませんでした。「あっという間」でした。
人生と同じだと思いました。人生も「あっという間」に終わります。
72歳になったいまから振り返ってみると、人生の春と夏は自分や社会について疑問に思うことばかりで答を探して右往左往していました。春や夏のような恋愛や結婚や離婚も経験しました。仕事もそうですが、それなりに楽しんではいましたが、すべてが闘いだったような気もします。なぜなら、すべてが精一杯だったからです。
そしてふと気づくと72歳になり枯れて穏やかになった自分がいるわけです(笑)。
なぜ穏やかになったかというと、精一杯生きてきた結果、穏やかに「死」を受け入れる心の準備ができたからです。「心の準備=安心」です。
私の場合、「死を受け入れる心の準備」とは、感覚的なものだけではありません。72年間の膨大な量の「ロジック(論理)」の積み重ねと体験の結果、そこに到達できたと考えています。その意味でも「哲学」をやってきてよかったと思っています。
自分の頭で考えて、自分の生の着地点を考えることができたとでもいいましょうか。自分の頭で考えたからこそ、納得できるものになりました。
というわけで、枯れて穏やかになった私が冬に向かって、さらにその向こうの春に向かって思うところを綴っていこうと思います(笑)。
春と夏の喧噪が終わり、雑草も息を潜めてすっかりおとなしくなりました。あっけなく思えるほど静かになりました。
それで、静かになったことで気づいたことがありました。周囲の音は静かになったのですが、それでもザワザワとなんだか賑やかな気配が周りに充満しているのです。なんだか植物たちが会話しているような感じで、けっこう騒がしいことに気がつきました。
その不思議な騒がしさが気になり始めたころに出会ったのが、拙稿「田舎移住004.移住してよかったと思うこと。」でも紹介した分子生物学者の福岡伸一氏のYouTube動画でした。
福岡氏はそこで「植物は静かでおとなしくて物言わず、何も感じていないというふうに見るのは人間の傲慢さであって、植物も非常に繊細なかたちで環境の情報を取り入れているし、植物同士もコミュニケーションしているし、植物と他の生物、特に昆虫との間に巧みな非常に豊穣なカンバセーション(会話)をしている。もし植物が自分のことだけを考えて自分に必要なだけしか光合成をしていなければ、この地球上はこんなに豊かな星に絶体にならなかった。自分たちに必要以上の光合成をして、それを葉っぱとか根っことか果物とか実とか、そういうものに変えて他の生物に手渡してくれている。そういう意味では植物がもっている寛容さ、あるいは利他性というものが、この地球上を支えている」と語っておられます。
■生物学者 福岡伸一が「植物の寛容さ」を語る | 超進化論■
「植物同士もコミュニケーションしているし、植物と他の生物、特に昆虫との間に巧みな非常に豊穣なカンバセーション(会話)をしている」。
あぁ、私が感じていたザワザワとした気配というのは、このことだったのだとストンと腑に落ちました。
植物がコミュニケーションしている仕組みというのは、たとえば青虫に食べられたら「食べられた」というメッセージを周りに伝えるための10種類以上の揮発性物質を発して、敵が近くにいることを周りの植物に警告しているということです。さらに、昆虫や鳥にもメッセージを送っているそうです。青虫に「食べられた」というメッセージを送ることによって昆虫や鳥を呼び寄せて青虫を食べてもらうというわけです。
とても効率的な助け合いというか連係プレイですね。まさに共生。
そのようにして植物は昆虫や鳥に害虫を取り除いてもらうお礼に果実などを他の生物に手渡してくれているのかもしれません。
そのことを人間の立場から考えてみると、植物はただただ与えてくれるだけで頭が下がる存在です。花もそうですね。ただただ私たちの目を楽しませ癒やしてくれます。
そう思うと、どうしても人間というものの存在意義を考えてしまいます。いったい私たち人間はなぜ存在しているのだろうかと。
また、植物は土地の中の微生物(菌)ともつながっています。植物は微生物(菌)とのつながりによって生命を維持しています。
植物は根から微生物(菌)のエネルギー源となる糖分を吐き出し、それを目指して微生物(菌)が集まってきてそれを吸収します。そして微生物(菌)は植物に必要な栄養分を植物に提供します。
そして地中では微生物(菌)は巨大なネットワークを築いていて森中の木をつないでいるといいます。すべてがつながっているのです。
いま、陸上の生物の割合というと、人間を含めすべての動物と微生物は陸上の生物の総重量の「4.5%」、残りの「95.5%」は植物なのだそうです。まさに陸の王者です。
そもそも4億5千年前、最初に陸上で生きるようになったのは植物です。陸上で生きることが可能になったのは、鉱物土壌の陸上に有機物を入れ込むことができたからです。最初は死んだ海草を分解する微生物が陸上に存在していたのかもしれません。陸上が有機物で満たされるにつれて植物が生まれてきたのかもしれません。太陽エネルギーを取り入れる植物と、土壌から植物の成長に必要な栄養を取り込み植物の根に与える微生物の連携によって、植物は陸の王者となったわけです。
そして注目すべきなのは、植物や微生物(菌)は栄養分を競争して奪い合うのではなく、ネットワークを介して協力関係を築くことで、安定した生態系を作っていることです。
つまり、植物と微生物(菌)は太古の昔からお互いに協力しながら命をつないできたというわけです。これこそが「進化」なのではないかと私は思うわけです。
そのことを考えると、人間の方は、はたして「進化」してきたのかどうか、疑わしくなってしまうわけです。人間はこれから「命をつないでいく」ことができるのだろうかと。
人間は「競争して奪い合う」ばかり…。
もし進化を望むのなら、やはり「植物と微生物(菌)のネットワーク」の仲間に入れてもらうしかないのではないでしょうか。
よくよく考えてみると、人間の体にも微生物が棲み着いています。その数はなんと「100兆個」を超えるそうです。500兆個を超えるのではないかという説もあります。いずれにせよ、私たちの体の中にはおびただしい数の微生物が生きているわけです。
よくよく考えてみると、私たちの体の中の微生物たちもそれぞれコミュニケーションして共生しているからこそ、私たちは生きているのではないかと思えてきます。そもそも食物を体内に取り入れる行為からして、それはコミュニケーションといえるのではないでしょうか。だとすると、私たちの体の中の微生物は基本的に、自然というか土や地球とのコミュニケーションを希求しているのではないかと思えてくるわけです。
最近、都会で暮らす多くの人が自然体験や田舎移住に興味をもつようになったのは、その流れのように思えます。やはり、自然と切り離された生活は苦しいのだと思います。途切れた生命のつながりを取り戻したいとでもいいましょうか。かつての私がそうだったように。
実際、私は流行病をきっかけに自分の体内の微生物に配慮した食生活に変えたことによって、持病の花粉症が治ってしまいました。自分の体は「完璧」だと思いました。まともな食事をしていると、体内の微生物たちもそれぞれまともな働きをして体を正しく保ってくれると確信しました。
自然とのつながりを考えるうえで、「何を食べるか」という問題は、とても重要だと思います。自然や土や地球とのコミュニケーションを考えると、体に不自然なものを入れることの弊害は容易にイメージできるはずです。
拙稿「田舎移住006.移住した私が体験した美のあれこれ。」で紹介した料理研究家の土井善晴さんも次のように述べておられます。
「料理は地球自然をバックにして作る。時々の移ろいを食べる。美は自然との関係の中にある」と。
「美」とは何かというと、徹底的に「美」にこだわった人として知られる魯山人は「自然の風光と四季のうつりかわりに敏感な感覚をもて」という言葉を残しています。つまり、「自然のダイナミズムを五感を全開にして感じ取れ」と言っているわけなのですが、私はザワザワという生物たちの気配と循環を感じることができました。
そこには美しい「地球という生命の車輪を回す再生と死の循環という完璧な小宇宙」がありました。
私は「感動」し、美を知る喜びを感じることができ、幸せな気分になりました。認識の範囲がさらに一段階広がったという感じです。
認識の範囲が広がるとはどういうことかというと、たとえば桜の花を見ると誰でも「美しい」と感じると思います。しかし、単に「美しい」と感じるだけでなく、その向こうに何を感じるかで「感動」の度合いが違ってくるように思います。
俳句をたしなむ方がよく言っておられるのですが、「俳句を詠むことによって、今まで眺めていた世界の解像度が上がる」「人生にひと味加え、取り巻く世界が広がる」ということです。
人間の意識って、不思議ですね。
そもそも人間はどのような過程を経て存在するようになったのか、科学が発達したといわれている現代においても、謎のままです。
いまや、ダーウィンの進化論も否定され始めています。宇宙人がクローン技術で作ったという説もあります。そういう仮説でないと、科学的に説明できないというのです。
旧約聖書では、最初の人間アダムは神が自分に似せて土で形を作り、その鼻に命を吹き込んだとされています。アダムという名前は土を意味するヘブル語のアダマからつけられたとのことです。
そして神はアダムにあらゆる生物に名前をつけさせ、管理させるようにしたといいます。
人間は死ぬと「土に還る」とよく言われますが、土から生まれて土に還る、その循環がそのエピソードから自然にイメージできるから不思議です。作り話なのかもしれませんが、妙に納得できてしまいます。ある意味、真実が隠喩的に表現されているような気もします。
生物に名前をつけ、管理しようとするところもその通りになっていますね。人間の存在意義の秘密がそこにあるような気がしています。
「里山は人間によって正しく手入れをしなければ美しい里山にはならない」という事実からも、その片鱗を伺うことができるように思います。
人間も、地球の命の循環のために、何かできることがあるような気もしています。
また、人間は自分の健康を考えて食物をとることができますから、それも管理といえないこともないと思います。
そのためのキーワードは、やはり「共生」だと思います。どのように生きれば自然や土や地球と共生できるのかということです。
そして、「美」という意識は、そのために用意されたものであると思うのです。
というわけで、ありふれたフレーズですが、あらためて人間にとって自然に触れ、そして観察することは大切だと痛感したわけです。
田舎に移住するのが難しくても月に1度でも自然の中へ遊びに行くとか、プランターで野菜を育ててみるとか、そういうことでもいいと思います。その行為を通じて自然を観察できればいいわけです。そのなかで何かを発見し、自分の意識を磨いて世界を広げていくことができればいいと思います。
人生は「あっという間」に終わります。
地球に生まれてきて、そこでどのように生きるのか、自分の頭で考えておかないと、食べるために働くという苦しみを抱え死の恐怖を抱えたまま流れに流され気がついたら人生が終わっていたということになりかねません。
棺桶に片足を突っ込んだとき、何を思うか、けっこう重要な問題だと思うのです。せっかく地球生まれてきたのに、美も喜びも幸せも感じることができなかったとしたら、もの凄く勿体ないと思うわけです。
季節の循環も自然界の循環のひとつ、自分も含めて地球を覆いつくす「命の循環」に想いを馳せて精一杯生きた末の気分とは、子どもがたくさん遊んで「そろそろ家に帰ろうかな」という気分に似ていると思います。どのようなところに還っていくのか、考えてみるのも一興ではないでしょうか(笑)。
この一握りの土に、われらの生存はかかっている。大事に使えば、食べ物と、燃料と、すみかをもたらし、われらを美で取り巻く。粗末に扱えば、土は崩れて死に、人も道連れとなる。
【後記】
体内の微生物たちがそれぞれまともな働きをして体を正しく保ってくれるための方法ですが、みなさんの参考にもなると思いますので、おいおい情報を出していくつもりでいます。とてもシンプルです。わざわざ毒出しとかサプリなど無理する必要もないと考えています。ただただ、微生物たちが喜ぶ食物をとればいいだけです。逆に、微生物たちが嫌がる食物はとらないということです。
具体的な情報については、気長にお待ちいただけましたら幸いです。
完全自然栽培のミニ菜園の顛末などもご報告したいのですが、ご近所の方とバーベキューをしたり、里山再生作業のボランティアをしたりなど、けっこう穏やかに多忙なわけなのです(笑)。
【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べ、そして行動する
2. 強い体と精神をもつ
3. 自分の健康に責任をもつ(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になる
5. 人の役に立つ仕事を考える
6.権威に依存しなくても生きていける道を考える(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)