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哲学#010.「決断」しても、うまくいくとは限らない。

いま私たちが関係している現実の世界は、より「強く」、より「汚い」者が覇者となっています。つまり、お金と暴力を手にしている者が最も強い。
イギリス映画『フェイス』【※1】では、次のようなセリフが出てきます。
 
世の中は金で動くんだ。警察も病院も学校もすべて金しだいだぜ。国家の公僕や公職なんてもう存在しない。金を持つ者だけが権力を握るんだ
 
いまの日本の状況を的確に言語化していますね。イギリスも似たような状況のようで、映画が製作された1997年当時もそのように思っていた人は多かったということです。
映画ではお金にとらわれた男たちがお金に足元をすくわれ、お金で人生をダメにしていきます。よくある話です。
もちろんお金はあった方がいいに決まっています。私も時々思います。「お金のあるのが天国、お金のないのが地獄」と…。
 
確かに「地獄の沙汰も金次第」と言われるように、金銭で解決できる事柄は多いです。たとえば嫌な職場、嫌な家庭から離れたい場合も、お金さえあれば自由の身になれます。お金は、持たざる者からみれば「玉手箱」です。
そのうえ、たいていの人は生活するために必要なお金を得ることに精一杯で、人生の問題の多くは、お金だけでは解決しないということを忘れがちなのではないでしょうか。
自分の頭で考えずに脊髄反射で生きていると、人はどうしても「お金を得るために生きる」方向へ行ってしまうと思います。
 
立ち止まって考えてみれば、「お金を得るために生きる」のではなく「生きるためにお金を得る」という方向でなければ、人生が面白くはならないという答えを導き出すのは簡単なことだと思います。人生はお金だけが価値ではないということは、あたりまえのことだからです。
 
たとえば、ある程度お金の余裕があって、嫌な職場を離れたとしましょう。一生遊んで暮らせるほどの財産があるのならそれでいいですが、たいていの人は次の職場を探すことになるでしょう。
では、次の職場をどういう基準で選ぶのでしょうか。「選択の基準」はお金では買えません。自分の頭で考えることができなければ、その人はまた次の職場でも嫌な思いをすることでしょう。その職場が嫌な本当の理由を発見することができなければ、その人は死ぬまで嫌な職場巡りという「地獄巡り」をしなければならないのです。
 
お金の他にも価値があるものを発見するということは重要なことだと思います。それは人生の選択肢が増えることを意味するからです。
生きる醍醐味が「決断」し「可能性」に向かって「行為」することにあるとすれば、選択肢は多い方がいいのです。
選択肢が多くなると、お金だけを追いかけて人生を終えるのがバカバカしくなってくるものなのだと思います。
 
決断」というと、「お金で権力を握る」ことも決断ではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、それは「可能性」に向かった決断なのでしょうか。お金と暴力に縛られた人間関係、それがその人の望む世界なのでしょうか。
 
というわけで、「決断」には「可能性」と「行為」がセットとして必要なのですが、他にも重要なことがあるのに気づきました。それは可能性の行方、「目的(理由)」です。
何のために」そのような決断をするのか、それについて考えないと、とんでもない落とし穴に落ちることになるのではないでしょうか。自分では「自由」に決断したつもりでも、誰かの思惑の罠にはまってしまったということはよくあることです。
 
たとえば、前回紹介した映画『マトリックス』(1作目)では、主人公のネオが青いカプセルと赤いカプセルを差し出され、青い方を飲むなら元の世界へ戻す、赤い方を飲むなら現実の世界を見せると言われます。ネオは赤い方を飲む「決断」をします。
しかし、これはネオの「自由意志」による決断のはずですが、もしかすると、青いカプセルと赤カプセルはマトリックス側が何かを目的として用意した選択肢で、ネオは単に決断させられていたという可能性もあるということです。
 
たとえば、一般的な庶民層の人々が人生で「目的」とするものは漫画『クレヨンしんちゃん』のような世界だと思います。結婚して子どもは2人、庭付きの一軒家と車を持ち、ペットと暮らす生活。しかし、そのような「目的(欲望)」も、ひょっとしたら落とし穴かもしれません。自分が生きるうえで何が価値であり意味であり「目的」なのか、それを常に視野に入れて決断しなければ間違えると思います。目的を注意深く確認し、それから「さあ、跳べ!」なのです。
 
ところが、人生とは厄介なもので、その先無事に着地できるかというと、そうでもないのですよね。人間は常に正しい決断ができるとは限りません。決断が間違っていれば転びます。

また、さらに人生とは厄介なもので、決断とはギャンブルのようなものでもあります。決断が正しくても、「」が悪ければ転びます。それも考えてみればあたりまえのことです。
これが「受け入れなければならない」あたりまえの「現実」というものです。身も蓋もないのです。
 
よくスピリチュアル界隈で「引き寄せの法則」ということが語られることが多いですが、これは半分は正しいと思いますが、半分は間違っていると思います。
引き寄せの法則」とは、「結果をポジティブに強く思えば、それが現実化する」というものです。結果を強く思い、その実現に向けて「行為」をしていくことができれば、その現実化の可能性が増すのは確かだと思います。ところが、「行為」の方向を間違っていれば、思うような結果を招くことにはならないのではないでしょうか。
自分の周波数を高めると、同じような周波数の人が近づいてくるというのも本当だと思います。しかし、よく考えてみてください。自分で自分の周波数が高いと思っていても、近づいてくる人が周波数低い人でガッカリしたことはありませんか? そこで人は自分の「現実」を知ったりするわけです。
 
良心的なスピリチュアリストは「やれるだけやって、それで最悪の結果になってしまったら、それを受け入れる」と言ってくれるはずですから、間違えないようお願いします。
それを認識しておかないと、過剰な自信を持ったり、現実世界を正しく認識できなくなったり、社会生活が上手くいかなくなったりして、逆にネガティブな方向へ行ってしまう恐れがあります。
繰り返しますが「受け入れる」しかないこともあるのが「現実」というものなのだと思います。

映画『フェイス』の主人公は、イギリスの「労働者階級」の人です。
イギリスには歴然と階級制度があります。「労働者階級」は高卒または専門学校卒で、工場やサービス業、看護、介護などの仕事をしています。その上には「中産階級」があり、大卒または大学院卒で会社員、弁護士、医師、建築家などです。さらにその上に「上流階級」があり、その家柄に生まれた人は名門校で教育を受けて投資家・資本家としていわゆる支配階級に君臨します。

で、それらの階級の壁を乗り越えるのは非常に難しく、特に「労働者階級」は自己資金を蓄えて起業して成功するのは至難の技です。彼らは安い賃金で過酷な奴隷労働を強要され、失業と貧困の悪循環を繰り返すのが通常パターンです。
映画の主人公はその悪循環は資本主義に原因があると考え、若い頃はそれを改善しようとデモ活動などをしていましたが、いくら訴えても世の中は良くなっていかないことに痺れを切らし、自棄になってその悪循環から抜け出す方法として造幣局からお金を奪うという手段を「決断」してしまうわけです。

ところが、仲間たちがお金に執着するあまり、「」に恵まれなかったこともあって、事態は次々と悪い方向へ転がっていきます。これだけの筋書きならば、この映画はただのB級強盗映画なのですが、強盗の仲間たちがそれぞれ家族や友人を大切にする「いい人」だということが描かれていて、彼らを「悪い人」と切り捨てることができないのでが、この映画の魅力となっています。

悪い人」とは言い切れない彼らが、苦しい生活のなかでお金に執着し、お金に振り回される悲しい様子は、共感できる部分もあって、いっそう切なさが募る内容になっています。
主人公も事あるごとに「自分は負けた」「自分は失敗した」「やり直したい」「まともな生き方をしたい」と反省を口にします。愛する母親や恋人に向かって自分の不甲斐なさを謝ります。母親や恋人も主人公の気持ちを受け入れ非難するようなことはしません。淡々と見守るだけです。私は彼女たちの主人公を信じる落ち着いたその度量に感動しました。

つまり、彼女たちは主人公の「再プログラム」の「可能性」を認める「決断」をしたわけです。
なぜなら、主人公の日頃の思いやりのある言動から「悪い人」ではないという「信頼」関係があったからです。あと、母親も恋人も主人公とは違ってデモを続けていて、次のように言います。
私たちは負けない。戦いは続いているのよ」と。

この映画のこの女性たちの度量こそ「肝が据わる」ということなのだと思いました。男性たちの軽薄さとは対照的なものでした。
私はこの映画を観て、仏教でいう人生を台無しにする3つの毒「貪・瞋・痴(とんじんち)」を思い出しました。

(とん)」とは、貪欲に際限なくあれこれ欲することです。動物的欲求、物欲、金銭欲などが強すぎることです。
(じん)」とは、嫌いなものに対して激しく怒ったり、妬んだり、恨んだりして感情をぶちまけるこです。
(ち)」とは、無知でものごとに的確な判断を下すことができず、心身ともに不安定になってしまったり、愚かな行為に走ってしまうことです。

この「貪瞋痴」は、密接にかかわり合っています。
欲(貪)」が満たされないから、「怒り(瞋)」が生まれる。
怒り(瞋)」が発生しても「無知(痴)」ゆえに鎮め方がわからない。
無知(痴)」で現実や自分の本質を理解できていないため、新たな「欲(貪)」が生まれる。
愚かな人は絶えずこれをくり返し、「負のスパイラル」「負の蟻地獄」へ堕ちて行ってしまうわけです。

映画の男性たちはまさに「負のスパイラル」へ突っ込んで行き、女性たちはそれを俯瞰して冷静に見ています。ある意味「達観」です。
監督がアントニア・バードという女性なのも納得です。
この映画は、そういう繊細な心の動きや関係性に気づかないとただのB級強盗映画で終わってしまうのですが、「このような時代にどう生きたらいいのか」というメッセージは伝わる人には伝わったと思います。
自棄になるな」「忍耐が大事」というメッセージです。

つまり、失敗しても自棄になってはいけない。感情的になってはいけない。人間もコンピュータと同様、粛々とトライ&エラーを繰り返し、なぜ間違えたのか分析しデータを蓄積し、自分を「再プログラム」していくしかないのだということです。しかし、それが人間を豊かにしていくのも事実だと思うのです。失敗にも価値があるのです。

再プログラム」とは、武術でいう「自己陶冶(じことうや)」と同様のことだと思います。
自己陶冶(じことうや)」とは、自分を磨くということです。「貪瞋痴」の「負のスパイラル」から抜け出すということです。そうすれば、悪運にも病気にも引きずられないはずです。暗くはならない。そういう人は運命が悪くなっても、それを良い方に振り向け変えることができるはずです。なぜなら、人生態度が物事によって迷わされることなく、積極的に「決断」「行為」ができるからです。

生きる「目的」を考えてみたとき、私の場合はやはり「自己陶冶(じことうや)」なのだと思います。
で、そのプロセスがもうひとつの「現実リアル)」なのではないのかと思う今日この頃です。

                                     

【※1】
映画『フェイス』は、たぶんUKロック好きな人はたいてい観ていると思います。当時オアシスと人気を二分していたブルーのデーモン・アルバーンが映画初出演するということで話題になりました。オープニングでポール・ウェラーの有名曲が流れるのも渋いです。主人公役のロバート・カーライルもいわゆる美男でもなく背も低い人なのですが、なんだか格好良くて一部では人気の俳優です。演技が上手いです。私もファンです。
彼が出演したお勧めのドラマがあります。BBC制作の傑作TVドラマ『マクベス巡査』。スコットランドの海と山に囲まれた小さな村が舞台で、村でたったひとりの巡査がマクベスで、様々な事件を解決していく過程で様々な癖のある人物も多く登場して、人情あり、友情あり、愛憎ありと、その織り成すドラマがおかしかったり哀しかったりの心温まるヒューマンドラマです。こういう村で暮らすのも悪くないなと思わせる内容で、ほのぼのします。
独特の知的なユーモアのセンスがあり、イギリスの人はこういうものが得意ですね。

マクベス巡査の愛犬ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアもいい味出してます。


【後記】
前稿『哲学#009.「現実(リアル)」とは。』でも、変えることのできない現実があると語りました。そのような現実を前にすると、多くの人は逃げたくなってしまうと思います。しかし私は、そこから逃げないことが人生の醍醐味だと考えています。なぜなら、それを乗り越えた先には、少し開けた可能性の世界が広がっていると思うからです。次回は、そのあたりのことについて語ってみようと思います。

【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)

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