Welcome to Underground
論点が違う。
僕は「純然たる誹謗中傷コンテンツ」が大好きだ。これはもう包み隠さずに言う。僕は「クッキー☆」が大好きだしそれに伴う「クッソー☆」も大好きだ。「淫夢」も好むし「恒心教」も「大物Youtuber」もTwitterで行われる不謹慎なネタだって普段は言わないけど心の底では「これが2020年のTwitterだ!」と胸を張って叫んでいる。
どうして急にこんなことを言い出したかと言うと最近あったある2つの騒動が原因となっている。
1つはSEGAの代表取締役が「チーズ牛丼食ってそうな感じ」と発言した騒動だ。
詳細を記すと、「セガなま~セガゲームクリエイター名越稔洋の生でカンパイ~」と題した生配信をセガが行った際、出演者のセガ代表取締役の名越氏が、男子高校生と大学生のプロゲーマーに対して「チーズ牛丼食ってそうな感じ」と発言をしたというものだ。
よもや「チーズ牛丼」ネタをしらない方がいるとも思えないが一応触れておくと、インターネットでは「チー牛」と略される誹謗中傷ネタがあり、ある特定の、いわゆるオタク的な容姿をした、主に男性に対して「チーズ牛丼が好き」というイメージを植え付け「チー牛」という蔑称を用いるというものである。チー牛でggるとその発祥となったイラストが腐るほどでてくる。
わたしの所感でしかないがセガの生配信があるまではチー牛ネタはインターネットのアンダーグラウンドな層の間で使われるネタであり、あまりにオタク的な、オタク性の高い言動に対して「チー牛」と罵倒、あるいはジョーク、あるいは自虐として用いる程度で、そこまで倫理観の欠如を咎めるような言説は見受けられなかったように思う。
ところがセガの一件から一変、チー牛がインターネットを賑わし、世間へと露呈したことで、今までアンダーグラウンドに触れてこなかった人たちからの反感を買うことになる。
「チーズ牛丼とかいうネタは本当に不快」
「すき家への迷惑を考えていない」
「チーズ牛丼を使っている時点で程度が知れる」
このような言説が多く見受けられたように思う。
そしてもう一件、山Pこと山下智久氏が17歳の女子高校生と飲酒しホテルに向かった事件に端を発して、Twitter上で発生した「#山下智久氏の死刑判決に抗議します」というハッシュタグだ。
当然山下智久氏に死刑判決など下っておらず、これはよくあるTwitter上で行われる政治的スタンスを表明するための文言「#〇〇の〇〇に抗議します」に山下智久氏の今回の一件を加えて「ありもしない事由に対して意志を表明する」というTwitter(JP)の独特な空気感が生んだインターネットのネタである。
加えてこのハッシュタグ、ツイートを見てみると面白いことに山下智久氏が「黒人」や「ユダヤ人」という設定になっており、もともと備わってない「死刑囚」という属性に加えて社会的に立場の弱いとされる(されていた)「黒人」や「ユダヤ人」を引き合いに出し、あたかも山下智久氏が「黒人」や「ユダヤ人」であるが故に死刑判決が下ったというありもしないストーリーを構築することで、より一層の面白さを醸し出している。
当然のごとく山Pファン以外にもこのハッシュタグもといインターネットのネタに反感を抱く者は多く、「このようなことを言っている時点でお里が知れる」「バカだ」「なにが面白いのかがわからない」といった意見が見受けられた。
ここで私が提起したいのがそもそも「論点が違う」ということだ。
上にみたような純然たる「誹謗中傷ネタ」は、2chやニコニコ動画を代表とするインターネットの「アンダーグラウンド」な界隈においては日常茶飯事、それどころがそれこそがメインだと言わんばかりに日々散見されていた。
加えて、そのような誹謗中傷ネタは確実にアンダーグラウンドの住人に好まれ、うまく使えれば使えるほど、またうまい誹謗中傷ネタを創造できるほど評価されるという、地上人からすると理解できない文化圏が築かれている。
このようなネタが倫理的に(あるいは淫夢のように著作権的にも)許されるかと言われれば確実に「NO」である。許されるはずもない。
しかし、この「他人を誹謗中傷することによって発生するおもしろ」というものは理解できるできないにかかわらず確実に存在する。いや、存在するどころか、ほぼ全ての人間がそのおもしろを享受しているはずだ。
であるならば、だ、なぜ今になってここまでアンダーグラウンドなネタが非難の槍玉に挙げられているかというと、これは「アンダーグラウンドなネタが地上に噴出したから」に他ならない。
アンダーグラウンドの文化圏には一部の一線を越えたものを除いてこれらのネタを悪とは認識していても「排除」しようとするものは皆無だった。また、「糖質」や「大物Youtuber」といったコンテンツにおいても「越えてはならない一線」を越えている行為に対しては同文化圏の中でも非難があり、誹謗中傷の程度は明確でないにしろ線引きがされていた。
この線引きがアンダーグラウンドな文化圏と比べて非常に厳しい地上のインターネットにおいて、純然たる誹謗中傷ネタが露出することで、今までアンダーグラウンドに触れてこなかった地上の人々から倫理的にアウトと非難を受けるに至っている。
しかしながら、これら地上の人々が指摘する前からも確かに誹謗中傷ネタはアンダーグラウンドで土着し、繁栄し、やみん姉貴のように共存する者まででていた。確かに我々はお互いの文化圏を排することなく、「無関心」という手法で共存できていた。
つまりだ、「倫理的にNG」などということは今に始まったことでなく、そんなことはもとより「知っている」。我々は倫理的にNGなことをNGと知りつつそれらのネタを楽しんでいる。
であるからしてインターネット上の誹謗中傷ネタに対して倫理観を問うてもさして意味がない、そんなところはとっくに通過してしまっている。
そうして地上人はアンダーグラウンドを好むものたちに対して、理解できない文化に対して「バカだ」「お里が知れる」と自分の中に在る価値観で判断を下す。これははっきり言って間違いがある。なぜなら、地上とアンダーグラウンドでは文化が違うからだ。違う文化を己の中の価値観をもって判断するなどできようもない。未開の地の非文明人に農業機械を使えと進言するだろうか。
ここで真に問題にすべきは「住み分け」についてである。上述したように元来私たちは共存できていた。しかしSNSを始め、地上人とアンダーグラウンドの民が同じ土俵に立ったことで、不幸にも不毛な論争を起こすに至っている。
ことの本質は「チー牛」の良し悪しでなく「どのような場所ならチー牛が許されるか」といった論点だ。わたしの意見だとセガを代表して行われる生配信で「チー牛」を持ち出すことは「住み分け」の観点からして推奨されないことだと思われる。
また、山Pに関しても、Twitterという舞台で「どこまでの誹謗中傷が越えてはならない一線か」の議論が本質であるように思う。
インターネット上の議論は論点が違っている。誹謗中傷コンテンツの是非を問うているのではない、我々は誹謗中傷コンテンツを良しとする文化圏とそうでない文化圏との「住み分け」を徹底すべきなのだ。
終わりが近づいてきたので、有名な2chのコピペを1つ、ここで紹介させていただく
最後に、はじめてアンダーグラウンドに触れたインターネットの知識人、教養人、健常人に対して、この言葉を送って筆を置こうと思う。
“Welcome to Underground”
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