あまりにも残酷で現実的な「はなははなでも、なんにもできないはなだもん」という思想
はじめに
プリキュアを見ていて衝撃を受けたシーンは人それぞれあると思いますが、私において最も大きな衝撃を与えたシーンは「ふたりはプリキュアMaxHeart」の第45話「無限の闇 永遠の光」における「待ってない!」という発言でした。
上記のシーンはMHのクライマックスということもあって、明らかにシナリオに組み込まれた意図的な名言であって、ある意味私が大きな衝撃を受けたというのは、必然であるとも捉えられます。
ところでプリキュアシリーズを通してみてもとりわけ名シーンの宝庫でシナリオのエモがデカい「HUGっと!プリキュア」ですが、その第10話「ありえな~い!ウエイトレスさんは大忙し!」の中に、私がMHに次いで衝撃を受けたシーンが存在します。
それが「はなははなでも、なんにもできないはなだもん!」です。
第10話、概略
第11話はよく知られたハグプリの有名な回であり、その前日譚が第10話にあたります。
主人公「野乃はな(キュアエール)」は「薬師寺さあや(キュアアンジュ)」と「輝木ほまれ(キュアエトワール)」と共に、フードフェスティバルでお仕事を手伝うことになります。
ところが、あまりにも頭が良いさあやとあまりにも運動神経が良いほまれの活躍に対して、はなは今ひとつ成果を出せず、それどころかはなのミスをほまれがカバーしてみせました。
この出来事ははなを自己嫌悪させるには十分すぎました。
同じ歳なのに、なんでこう違うんだろう
新しいミライクリスタル(強化アイテム)がはなの元にだけ現れていない事実も相まって、はなははたから見てもわかるほど意気消沈します。
わたしなんにもできない。2人みたいに、できない。
これに対してほまれは「何言ってるの!人と自分を比べてもしょうがないじゃん。”はなははな”でしょ?」と率直な意見を返します。そしてそれに対するはなの返答こそがまさしく
はなははなでも、なんにもできないはなだもん!
比較と劣等感
他人との比較によって生じる劣等感というものを、私は痛いほど感じます。私は鬱と付き合いだしてもう13年になりますが、劣等感は鬱の源泉として今でも大きな役割を担っています。
なにを見ても劣等感です。アニメを見ては声優をWikipediaで調べて「17歳でデビュー」とか書いてあります。自分の本当に好きな漫画やイラストや小説や詩を書くクリエイターたちを眺めるのはいち消費者として佇むただの私です。それどころか、この世には建築物があって、この世には学問があって、この世には思想があって!
もう挙げればキリがありません。個物、概念問わず、この世には比較できる対象が無数にあって、この世界に私が存在する以上、それらを私は無限に比較することが可能です。しかも憎いことに、時代と歩を合わせるように、フォロワー数や年収といった数字が、この比較をより容易で、確実なものにしていきます。
こうして生じる鬱に対して、人々は決まってこう言います。
何言ってるの!人と自分を比べてもしょうがないじゃん。”はなははな”でしょ?
この世に同じ人間は一人としていない
「はなははなでも、なんにもできないはなだもん!」
この言葉を初めて聞いた時の衝撃は忘れられません。はなの内に在るどうしようもない葛藤、この言葉が意味する残酷さ、そして、ほまれの提言に対し十分すぎるほどにアンチテーゼとして機能している事実に、身体全体が叩きつけられるようなむごさを感じました。
ほまれの言葉はある意味で、というより通俗では正解と言っても差し支えのない言葉となって、あるいはなってしまっています。
「私」という人間は2人といません。これは至極当たり前のことですが、この事実を真の意味で理解している人が世間にどれだけいるでしょうか。
「私」を形作るものは「環境」です。そしてこの環境とは、家庭環境や学習環境や、そういった周囲から受動的に与えられるものにとどまらないのです。環境とは、己の内に在るもの、つまり、「私」の趣味嗜好であり、「私」の興味関心であり、「私」の性格といった自発的な要素をも含みます。
双子が同じように育てられたからといって全く同じ人間が出来上がらないように、環境の数だけ人は生まれ、そしてそれは人の数だけ在ります。そういった意味で、この世に同じ人間は一人といない。自分よりも圧倒的に学習環境が劣悪な人が、自分よりも圧倒的な学問的な大成を修めているからといって、私がその当人と同じ成功を得られるわけではないのです。私には、私の成功しかありえません。
他人と比較することの無意味さ
こうしてみてみると、ほまれの主張は非常に合理的に導き出されており、この回答が通俗的な劣等感への正解とみなされるのもある程度納得できる道理があります。
全ての人間を違った人間とみなすことができるのなら、「私」と他人を比較できる要素はなにもないはずです。「私」の成功は「私」の内にしかありえないので、「私」と他人を比較するという行いは極めて無意味であり、劣等感の源泉とはなり得ないのです。
リトルウィッチアカデミアの第7話「オレンジサブマリナー」では、アーシュラ先生がアッコを指して
「比べるべきは他の生徒ではなく、入学当初の彼女です!」
という至言を残しています。この言葉は間違いなく本質を突いたもので、後世まで残されるべきセリフでしょう。
では、ある「価値」において劣った人間はどうすればよいのか。その答えはハグプリ11話「私がなりたいプリキュア!響け!メロディーソード!」で示されるわけです。
はなははなでも、なんにもできないはなだもん!
しかし、現実問題、野乃はなは「お仕事のお手伝い」における価値において2人に劣っていたのです。いかにはなが自分の価値と向かい合い、試行錯誤を凝らし、研鑽を重ねたところで、ある価値尺度において他人に劣ったという事実、その事実だけはもうどうしようもなく、残酷に、決定的にそこに存在しているのです。
ほまれの言葉で自分との内なる価値と向かい合うはな、そんなはなが放つ、どうしようもく残酷で、むごい真実。それこそが
はなははなでも、なんにもできないはなだもん!
その事実なのです。この一瞬の瞬間に凝縮されたはなの無価値さ、はなにおける憂鬱、どうしようもない無力感が、グロテスクな実感となって3人の間に流れていたのです。
グロテスクな実感、そして克服(終わりに代えて)
はなはこのどうしようもない事実に、はなははなにしかない役割と魅力があることを様々な人から教わり、自覚していきます。
そして、はなの抱いた劣等感を、同時に敵の幹部も抱いていることがわかり、はなはこれを救います。はなの、他人に対する無償の愛というアイデンティティは、はなに有る、突出したはなの魅力であり、価値でした。はなは自分が「なんにもできないはな」と思い込んでいただけで、実は「なんらかができるはな」だったわけです。
しかし、私たちにあてはめるべきははなではなく、この敵幹部のほうです。なぜなら、さあややほまれは明らかであるとして、私にはなほどの求められる役割も、魅力も、価値もないことは明らかであり、はなが劣等感を克服したように、依然として私に劣等感と戦うだけの武器は与えられていないのです。
それどころか、敵幹部がはなに浄化され、自分の中にも価値があると見出したところの価値すらも、わたしの中に存在するのか否か、いささか不明であることはなにも変わらないのです。
我々はプリキュアの世界の住人に非ず、プリキュア世界よりもさらに残酷で、惨たらしいこの世界に生きています。我々にできることは、ただ己の中になんらかの価値があると思い込んで、信じ込んで、その狂気的な妄信だけを根拠に何事かを成すしかないのです。
はなははなでも、なんにもできないはなだもん!
救済は救済でも、なんにもできない救済だもん!
この状態から何事も起こらず、何も変わらず、野乃はなの慈愛に心からの尊敬と感動を覚えることはできても、この世界のあまりのどうしようもなさ、残酷さの前では、それすらも何事でもないのです。
我々に残された道は、西城樹里がイベント「階段の先の君へ」の第3話「夜の食堂にて」で語っているこの言葉以外にあり得ません。
この図らずともプリキュアの世界から我々の世界へ、あまりのグロテスクさ、どうしようもなさ、憂鬱さ、嘔吐してしまいそうになるほどの閉そく感を言ってのけた野乃はなの言葉は、今でも私の胸の奥に棘のように刺さって、抜けずにいます。
(おわり)