この世で最も哀しいうたの話
僕は歌詞が好きです。若い頃は歌詞とか曲の付け合わせで別に誰も興味なくて、メロディだけが曲の全てだと思ってました。
でも全然ちがいました。それに気づいたのは「アイカツ」や「アイマス」という「コンテンツ」にはまったことがきっかけです。
巨大コンテンツにおいて作成される曲は、コンテンツの「バックグラウンド」という下地があります。その下地の上に「歌詞」で曲を書くことで、アツさだったりもの哀しさだったり感動だったり、感情を歌うことができるとわかりました。
しかし、中にはそんなコンテンツという下地を必要としない、その曲単体で歌詞の威力を最大限に引き出している、そんな類まれなる才能をもった作詞家により作られた曲がいくつかあります。
その中でも、特に喜怒哀楽の「哀」を完璧にうたった、この世で最も哀しいうたがあることをご存知でしょうか?
ニャースのうた
歌:ニャース(犬山犬子)
作詞:戸田昭吾
作曲:たなかひろかず
よもや「ニャースのうた」ってなんだよって人はいないと思いますが一応触れておくと
「ニャースのうた」はアニポケ無印の第28話から第68話まで使われていたED曲です。
ED中ではニャースがまん丸い満月を眺めながらギターを弾き語る映像が静かに流れます。
ED中でニャースはお月さまに色々な姿を投影します。自分の顔やマルマイン、ピッピなど、それに合わせてお月さまをそれらのポケモンに姿を変えます。
このEDアニメーションだけですでにもの哀しさが漂っていますが、この曲が最も哀しいうたである所以はその歌詞にあります。
まずは歌詞全文を見てみましょう。
全体を見てみると1番はお月さまの「丸さ」を歌い、2番ではより直接的なニャースの「哀しみ」をうたっています。
一見すると2番のほうが哀しさを一層際立たせて歌っているように見えますが、この曲の哀しさは一番にこそ本質があります。
順を追って見ていきましょう。
「あおい あおい しずかな よる」、夜といえば暗いものですが、あえて「あおいよる」と歌っているのは、お月さまが漆黒を照らして、周囲が淡く、青く光っていることを表しています。つまり、ここでは「満月のお月さま」が出ている時に限ってニャースはてつがくをする、つまり「物思いにふける」ことを示しています。(ここでいう「てつがく」は学問の「哲学」とは無縁です)
虫食うんだ
まずそこに驚きだよ。
ニャースがキャタピーとか食ってると思うとマジで怖いな。
まぁここはそんなことを考察するための文章ではなくて、好物が目の前にあっても喉を通らない、つまり凄まじく意気消沈していることを食欲を取り上げて表しているシーンになります。
この曲の本質に入りました
ここにニャースのもつ哀しみの全てが詰まっています
ニャースは満月のお月さまが出ている時に限って「てつがく」します。それは何故でしょうか。
その答えは「おつきさまがまるいから」です。
この後の歌詞、つまり1番の終わりですが、1番の終わりまでニャースは何度もお月さまの丸さを歌います。
「せかいのどんなまるよりまるい」
ニャースはお月さまの丸さのどこにこれほどの悲哀を感じているのでしょうか。
結論から言うとそれはおつきさまの「完全性」にです。
ニャースはおつきさまを世界のどんな丸よりまるいと解釈します。それは、「まるい」ということにおいて、おつきさまは世界中のどんな「まる」より優れているということを意味します。
ニャースはED中に「マルマイン」をおつきさまに重ねます。マルマインはでんきタイプなので、でんきの技を用いて周囲を照らすことができます。お月さまのように太陽の力を借りてやっと周囲を照らすのではなく、自力で、一人で周りを照らすことができます。
しかし、そんなマルマインでも、おつきさまにもう全く、これっぽっちも「まるさ」で優っていないのです。もう全然、比較もできないほど、ニャースの中でおつきさまの「まる」は世界のどんなまるより「まるい」のです。
「まるい」というステータスに実用性があるわけではありません。おつきさまがまるかろうが、四角だろうが、星型だろうが、地球の夜を照らすことができれば我々はなにも困りません。おつきさまがどんな形であってもいいのです。
しかし、現実は、おつきさまの「まるい」というステータスはどんな「まる」も凌駕している。実用性や有用性といった人間(ポケモン)由来の価値観、評価尺度を無視したその先にある、一つのステータスを徹底的に貫いた「まるい」という「完全性」。その完全性を前に、我々は自分と比較せざるを得ません。
我々に、おつきさまのような、なにか1つを極めた極地、終点に達した才というものが、なにか1つでもあるでしょうか。おつきさまの「まる」という「完全性」を前にした時、果たして、おつきさまの横に並んで主張できるほどの「完全性」が、我々のなかにあるでしょうか。
おそらくそんなものはありません。それほどまでに、おつきさまはまるく、その丸さを目の前にした時、我々は、ニャースは、こう歌うしかなくなるのです。
せめておつきさまに手が届けば違ったでしょう。おつきさまに「ひっかく」を、おつきさまに「かみつく」を、おつきさまに「ねこだまし」を喰らわせて、憂さ晴らしができたかもしれない。
しかし、おつきさまはあんな遠くにある。そして、漆黒であるはずの夜を「あおく」照らすほど大きく、雄大に佇んでいる。
そんなおつきさまを頭上に見上げた時、この胸の内にある悲壮感を、哀しみを、ギターを手に歌って、てつがくするしか、我々に許された行動はなくなるのです…
2番からは1番で感じた悲壮感がより現実的なものとなって現れてきます。
おつきさまの「完全性」にあてられて、悲壮感に満ちたからこそ、明確な「切なさ」を自覚して、だれかに電話したくなるほど哀しくなってしまうのです。
「ニャースのうた」、これはニャースではなく我々であっても同様です。つまり、ポケモンという下地がなくとも、この曲単体で「哀しさ」を完璧に歌い上げた曲だと言えます。
今日は幸い満月ではありませんが、満月の夜は、外に出てみて、おつきさまを見上げててつがくしてみるのも悪くないのではないでしょうか。