地元でサブカルチャーのはなしを聞く
今日、静岡の「健康文化交流館『来・て・こ」』というカルチャーセンターで、TVODという批評ユニットの、トークショーを聞きに行きました。
イベントの概要
このイベントは、『ポスト・サブカル焼け跡派』
という著書を執筆した2人が、当時の様々な曲をかけながら、日本のサブカルチャー文化史を紹介していくイベントで、今日は1980年代についてのイベントということで
「テクノポリス」YMO
「Signal」Phew
「ノット・サティスファイド」アナーキー
「なんてったってアイドル」小泉今日子
「べにくじら」有頂天
「全部このままで」JUN SKY WALKER(S)
「東京ブロンクス」いとうせいこう & TINNIE PUNX
「JUST ONE MORE KISS」BUCK-TICK
といった曲をかけたり、北田暁大氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』
における「『抵抗としての無反省』から『抵抗としての無反省』」という概念を参照しながら、80年代のサブカルチャー史を語っていくという内容でした(ちなみに、僕はPhewの曲を初めて聞いて、とても気に入りました)。
で、イベントの中で言われていたのが「おしゃれ/ダサいという評価軸と、社会に影響をあたえるか否かという評価軸は別のもので、どちらを重視すべきなのか」という話でした。
イベントの中ではJUN SKY WALKER(S)、尾崎豊、X JAPAN、BUCK-TICKなどのアーティストを例に出しながら「文化的には洗練されていない『ダサい』音楽とみなされるけど、でも結果的に社会にインパクトを与えたり、インディペンデントな立ち位置を築けたのはこういうアーティストだった」ということが指摘され、上記のようなアーティストを批評は正当に評価できてなかったのではないか、みたいなことが語られたりしていました。
「あえて大衆に受けない」という態度を取ることの是非
ただ一方で、それを聞きながら僕は「でもそうやって社会、もっといえば社会を構成する大衆を、自らの表現で『動員』することって、無邪気に肯定していいのか?」とも思ったりするのですね。
例えば坂本龍一氏なんかは、YMOに熱狂している無邪気なファンを、まるでナチズムに付き従うドイツ国民のように見たからこそ、散開コンサートであえて自分たちをナチスに見立ててコンサートを行い、そして最後それらのセットを燃やすことで、そういったナチズムにもつながるファンの熱狂をアイロニカルに否定してみせた。
そしてそういう観点から、坂本龍一氏は、言論の場で反戦・反原発・環境保護などのメッセージを臆せず発言しながらも、それらのメッセージを大衆に伝えるために、分かりやすくキャッチーなプロテストソングを作ったりは敢えてしなかったわけですね。
ここまで詳細に言語化できなくても、やっぱり文化エリートの中には、「大衆受けする≒大衆を動員できる音楽」の暴力性への恐れがあるから、大衆媚せず高踏的に作品を作る方が偉いんだという価値観を形作ってきたわけです。
もちろん、そういう「安全装置としての『おしゃれ/ダサい』評価軸」は、他方では「社会なんかと関係なく自分たちだけで群れていればいい」というタコツボ化を生み出しているわけですが、しかしそうやってタコツボに分かれているからこそ、熱狂的な全体主義へと文化が動員されずに済んでいる。その功罪をどう判断するかは、なかなか難しいんじゃないかと思ったりしました。
「アイロニー」が反省へと向かわずベタな熱狂に結びつくのはなぜか?
あと、イベントでは最後に「なんてったってアイドル」(小泉今日子)と「アイドル」(YOASOBI)の同一性と差異という点について質疑応答がありました。
なぜそういう話が出たかというと、2023年の紅白歌合戦でYOASOBIの「アイドル」が現役のアイドルによって歌われたことについて、ネット上で議論があったけど、元々「なんてったってアイドル」という曲があったように、アイドルという存在は最初から自らをアイロニカルに見て、それを飲み込んで活動しているのだから、そんな特別なことではないのではないかということを、コメカ氏が述べていたからですね。
これについては自分も似たような疑問をBluesky上でつぶやいたことがありました
ので、自分の考えを書いてみます。
小泉今日子氏の「なんてったってアイドル」も、YOASOBIの「アイドル」も、たしかにアイドルという存在に対して自己批評的な歌詞であるのは同じなんですけど、「なんてったってアイドル」の歌詞はそれでもアイドルという存在を能天気に捉えているのに対し、YOASOBIの「アイドル」はアイドルという存在の残酷性をも射程に入れているということだと思うわけです。
具体的に言えば、2番めの歌詞の以下の部分、この部分を現役のアイドルに歌わせることこそが、ネット上で物議を醸した点だと思うのですね。
たとえアイドルに対して自己批評的であったとしても、例えばHoney Worksの「誇り高きアイドル」のように、アイドルの光の面に焦点を当てたものであれば、そんなに物議を醸さなかったと思うのです。ところが、YOASOBIの「アイドル」の歌詞は、言ってみればアイドルの欺瞞を告発するような歌詞なわけですね。なのにそれがアイドル批判へと向かわず、アイドル讃歌として受け入れられるのは一体何なのか。
この不可解さは、今回のイベントの語彙で語り直せば次のようになるんじゃないかと思うわけです。「社会のおかしさに対してアイロニカルであることが、社会のあり方に対する反省性に繋がらないのは一体何故か?」と。
元々原初の意味でのアイロニー(皮肉)というのは、社会のおかしさを告発するものだったわけです。例えば「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」というのも、一種の皮肉なわけですが、このように皮肉を言うことは、天皇制のおかしさを訴え、天皇制打破を訴えるメッセージになるわけです。
ところが、80年代以降のアイロニーにおいては、そのように社会の欺瞞を告発し改善するためでなく、ただ仲間内でコミュニケーションのネタにするためにアイロニーというものが用いられるわけです。
ただその一方で、80年代~90年代のアイロニーは、それこそ「なんてったってアイドル」の歌詞の能天気さからもわかるように、おかしいものではあるけれど、告発されるべき「悪」を描いたものではなかったわけです。だから、それが社会批判や、社会に対する反省の方向に向かわなかったとしても、理解はできる。
ところが、現代においてのアイロニカルな表現は、それこそYOASOBIの「アイドル」のように、実際に人々を搾取したり、抑圧したりする悪を描いているわけです。例えば「アイドル」の原作である『推しの子』においては、実際に社会問題となったリアリティーショーの危険性をテーマにした回があったり。
ところが、このようなアイロニカルな表現によって社会の悪やおかしさが告発されても、その表現が「じゃあこんなにおかしい芸能界もうちょっとなんとかしようぜ」みたいな反省には行き着かず、「こんなおかしな芸能界を頑張ってサバイブする推しかっこいいー」というベタな熱狂に行き着いてしまう。
この無反省さは、一体なんなのか。どうすれば変わるのか。そんな苛立ちが、紅白後の「アイドル」に対する物議の根底にはあるのではないかと、思うわけです。
最後に
とてもおもしろいイベントありがとうございました。次は2月16日にイベントが開かれるそうなんで、それも楽しみにしてます。
イベントを企画した方は、「スピッツとか語られないかなー」と言ってましたが、静岡で語るならやっぱ電気グルーヴでしょう。まあ、ピエール瀧の事件でてんやわんやになった静岡市のイベントとしては、なかなか微妙なところかもしれませんが……