弱き者よ、汝の名は……―『NEEDY GIRL OVERDOSE』感想記事を読んで
というわけで、今日も今日とて『NEEDY GIRL OVERDOSE』の感想を書いていきます。
ゲームが配信されてから大分経ち、NEEDY GIRL OVERDOSEについての批評も大分増えてきました。
のように、あめちゃん/超てんちゃんを、現代におけるとてもリアルな配信者の姿と捉える記事もあれば
上記の記事のように、「男性オタクの妄想のようにしか思えない」と書いたり
また、「あめちゃん/超てんちゃんに自我が存在せず、作り物のようにしか思えない」ということを書いたりする人もいます。
では、僕の考えはというと……
「確かに超てんちゃん/あめちゃんは、男性オタクが妄想するお人形のような存在であり、そこに自我は存在しないようにみえる。しかし、そのような『お人形』に人間を変化させてしまうのが、まさしく配信文化というものであるという点で、やっぱりこのゲームは現代の配信者文化や若者文化をうまく描いている」
というものです。どういうことか、これから説明していきましょう。
「役」にすがりつくしかない
まず、確かにIGNの記事が言うとおりに、超てんちゃんはもちろん、その超てんちゃんの「本音」として出てくるあめちゃんもまた、「男性オタクの喜ぶ女性像」そのものと言えます。
ただ、そこで僕が疑問に思うのは「『超てんちゃんもあめちゃんも徹頭徹尾フェイク』であるとして、ではフェイクでない『本当の彼女』なんてものが存在するのだろうか?」ということです。
超てんちゃん/あめちゃんのように「男性オタクの妄想」を実現する存在というのは、実は現実にも存在します。オタクのサークルに入り、男性オタクを次々と虜にしていく彼女たちは、サークルクラッシャーとかオタサーの姫とか呼ばれたりします。
では、そういう存在は、ただ演技としてそうやって「男性オタクが好む姿」をしているのでしょうか?もちろんそういう場合もあるでしょう。そういうタイプのサークルクラッシャーを描いたマンガとして、『ヨイコノミライ』があります。
一方で、「そのような媚びた姿でしか生きられないサークルクラッシャー」というのも存在するわけです。例えば『ヤサシイワタシ』に出てくる先輩なんかはまさしくそういう存在な訳です。
前者のサークラは、「演じている役柄」と「本当の私」が別のものとして存在しているから、いざメンタルヘルスがやばくなれば、役を止めて「本当の私」に戻ることができます。
しかし後者のサークラは、「演じている役」しか存在しないわけなんです。だから、いくらメンタルヘルスが悪化しようが、その「役」にすがりつくしかないわけで、より深刻と言えるのです。
そして僕が思うに、あめちゃんは前者より後者に近いと思うのです。
あめちゃんは、確かにIGNの記事に書かれているとおり、「ピ」が好きになってくれるよう演技しています。じゃあなんでそういう風に演技をしているかといえば、別にピから金をせびろうとかそういう話ではなく、ただ「ピ」からの承認を得ることなんですね。
これは超てんちゃんと視聴者の関係にも言えることで、確かに視聴者からはスパチャによってお金をもらえますが、しかし彼女が求めているのは、それのお金よりも、視聴者からの承認なわけですね。だからいくらストレスを抱えようが彼女は配信をするわけです。
そして、なぜ彼女がそうやって「承認」を求めるかといえば、まさしく「自分には何もない」からなわけです。もし、自分自身で「これが、ここに存在している私なんだ」と思えるものがあれば、そもそも他者からの承認なんか求めないはずなんですね。自分で自分自身の存在を承認できないからこそ、他者からの承認を求めるわけなんです。
「本当の自分」なんか誰も必要としていない
そして、現代のコミュニケーションにおいて承認されるのは、どこまで言っても「演じている役柄」なんですね。
例えば、僕はVTuberの配信が大好きなんですが、VTuberというのは多くの場合何らかのキャラ設定を抱え、そのキャラ設定に則って話をしています。そしてVTuberのファンたちはそのキャラに萌え、配信を視聴するわけです。
そしてVTuberに限らず、YouTuberというのはどれも「キャラ」を演じている訳ですね。少なくとも、配信に乗せられないような暗い本音や危険な発言はできない。そこで配信されているのは、どこまでも「演技」なのです。
さらに言えば、配信に限らず、友人関係においても人々は、それぞれの友人ごとに「役」を使い分けます。家族に見せる「私」、クラスメイトに見せる「私」、部活動の時に見せる「私」、バイト仲間に見せる「私」……そのどれもがすこしずつ違う、演じられた「私」なのです。このような私のあり方を、社会学では「多元的自我」と言います。
また、平野啓一郎氏はこのような自己の有り様を「分人」と述べていたりします。
このような自己と人間関係は、多くの人にとっては、それまでの「全人的な本音の付き合い」が志向のものとされる状況に比べたら、より楽ですし、さらに言えば、自分が発する情報を簡単に編集できるインターネットコミュニケーションとも親和性を持つ形ともいえるわけです。
ただ一方で、このようなコミュニケーションにおいて承認し合えるのは、どこまでいっても「役柄を演じている私」なわけです。「○○である私」は承認されるけど、「何物でもない私」はどこでも承認されない。
そのような「存在論的安心」※下記記事参照
を得ることができないでいると、どんなに多くの人に激しく承認されても満たされなくなるんですね。なぜならそれは、どこまでも「演じている私」でしかないから。
しかしにもかかわらず、彼女はその「演じる役をよりうまく演じる」ことでしか、自らの承認欲求を満たすことができないのです。なぜなら、それ以外のやり方を知らないから。
救おうとすることの傲慢について
IGNのレビュー記事では「自分の好きなように女の子を育てる」という育成シムの本質的な権力性をこのゲームでは描けていないと指摘し
NeverAwakeMan氏はnoteの記事で「自分の言葉で喋らないし喋れない彼女を人間として見られない」と言います。
その指摘は確かにもっともでしょう。超てんちゃん/あめちゃんに、「男性オタクの妄想」のような役柄を押しつける、視聴者やピの加害性は、このゲームでは描かれていません。その点からいうと、ツイフェミ的なものを揶揄した場面も含めて、フェミニズム的な視点から批判されるべき点も多々あります。
しかしその一方で、でもそうやって「『男性オタクの妄想とは違う自分』を示せ」というのも、結局プレーヤーの願望を押しつけているにすぎないのでは?と、僕は思うのです。
仮にピが「オタクなんかに媚びるのやめて、ありのままの自分を晒したら?」といえば、あめちゃんはちょっと迷った後、ピの考える理想の「ありのままの自分」を、(ストレス値を上昇させながら)演じてくれるでしょう。あるいは「僕に反抗しろ!」といえば、まさしくピ=プレーヤーの望み通りに「反抗」してくれるわけです。
僕らは超てんちゃん/あめちゃんに「救われて欲しい」と願います。しかし、そうやって「救われて欲しい」と願うことも、結局超てんちゃん/あめちゃんに「救われた私」を演じて欲しいと思う点で、超てんちゃん/あめちゃんに「男性オタクの妄想」を演じて欲しいと願う視聴者やピと変わらないわけです。
さらに言ってしまえば、そのように「救ってやらなきゃならない存在」として超てんちゃん/あめちゃんを扱うこと自体が、フェミニズムにおいて『マイ・フェア・レディ』が批判されるように「男の思い上がり」なんじゃないかと思うわけです。
そして実は、この倫理的ジレンマこそが、この『NEEDY GIRL OVERDOSE』を名作たらしめる重要な要素だと、思うのです。
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